及川悟
「えっと、さとみ……ちゃん?」
「え? さとみちゃんって?」
男の子はキョトンとした表情で、涼子に聞き返した。涼子は慌てて誤魔化すように、男の子の名前を聞いた。
「あ、ええと――ごめん、わたしは涼子、藤崎涼子っていうの。あなたのお名前なんていうの?」
「ぼくは、さとる。及川悟と言うんだ」
彼は及川悟という。はたして聡美との関係は……。
「そうなんだ。悟くんっていうんだ。よろしくね」
「うん。涼子ちゃん」
悟はニコニコと無邪気に笑った。その笑顔も、どこか面影があった。
午後二時が降園時間である。この少し前くらいから何人かの保護者が我が子を迎えにきている。
「ばいばぁい」
涼子に仲のいい子が声をかけていく。母親に連れられて行ってしまった。涼子もそろそろ来るはずだと思ったが、なかなか来ない。
――おかしいな? もう二時三十分が来るのに。
来ないので、どうしたものか立ち尽くしていた。気がつけば、周囲には園児はいない。いつの間にか、ひとりだけ突っ立っていた。
涼子がひとりでいるのに気がついた先生が、そばにやってきた。
「あら、涼子ちゃん。お母さんはまだ?」
「うん」
「いつくらいに来るか聞いているの?」
「ううん、わからない」
「そう、おかしいわねえ」
先生は困った顔をした。どうしたものか思案しているようだ。
「ここで待ってるの」
涼子が言ってすぐ、この先生を呼ぶ声が聞こえた。
「はぁい。ちょっと待って。……涼子ちゃん、あんまり遅いようならお家に連絡してみるから、ちょっと待っててね」
先生はそう言うと、呼ばれた方に走っていった。
「――あ、涼子ちゃん?」
ふいに声をかけられた。最後のひとりだと思ったので、少し驚いた。一瞬たじろいで、それから振り向くと、そこには及川悟が立っていた。悟も涼子と同じようにひとりでいた。
「あれ、悟くんもまだお母さん来ないの?」
「うん。ぼくのお母さんは、用があって三時に来ることになってるんだ」
悟は、いつも楽しそうに微笑んでいる。子供というのは、そういうものなんだろうか? 涼子は他の園児の顔を思い浮かべるが、別にそういうわけでもないな、と思った。
「ふぅん、そうなんだ。大変ねえ」
「ううん、こんなのなんでもないんだ。時々そうだから」
「悟くんはすごいね」
「えへへ。涼子ちゃんは、まだお母さん来ないの?」
「うん」
涼子は、本当にどうしたんだろう? と、少し心配になってきた。
ふと、悟の横顔を見た。彼の横顔はどこか記憶にある横顔だった。女の子だと言われたら信じてしまいそうな、可愛らしい顔だ。もしかしたら本当は聡美で、実は女の子で、涼子のことをからかうつもりで、悟という男の子を演じているのでは、なんてことを考えたりもした。もちろん、彼が悟で、男の子であることはわかっているが。
及川悟――彼は一体、何者だろう? 聡美との関係は? 自分の横に座るこの男の子の素性がわからない。そういえば、聡美は兄弟がいたっけ? などと考えたりしたが、詳しいことは聞いたことがなかったのでわからなかった。
ふと、悟が声をかけてきた。
「……涼子ちゃんは、おうちどこにあるの?」
「うちはねえ、あっちの大きい道路の向こうだよ」
東の方角を指差した。
「ふぅん、あっちの方なのかあ」
悟はわかったのか、わかっていないのか、よくわからない返事をした。
「悟くんは?」
「ぼくはねえ、あっちなんだ」
そう言って、正面――南の方を指差した。
「お母さんがね、自転車に乗って来るんだよ」
「自転車かあ」
自動車が普及している現代でも、自転車に子供を乗せて、送り迎えしている親は多いだろう。この頃でも、後ろのチャイルドシートを装着して、子供を保育園や幼稚園に送っている親は多い。涼子は徒歩で登園しているが、真知子の自転車もチャイルドシートを装着している。買い物に行く際などに乗せて行ったりする。
「悟くん……悟くんって、お姉ちゃんか妹がいるの?」
涼子は無意識のうちに聞いてしまった。今このタイミングで切り出すのが相応しかったのかわからないが、何も意識せず、ごく自然に言葉が出た。しかし、その返答は半分期待していて、半分落胆する言葉だった。
「……ううん。ぼくはひとりっ子なんだよ」
「そうなんだ」
悟には姉も妹もいないという。じゃあ、聡美は誰なんだろう? どうなっているんだろう。
「ごめんなさい、涼子ちゃん、遅くなっちゃった」
慌てて入ってきた真知子は、すぐに涼子の姿を見つけると、小走りに涼子の元にやってきた。原因は、迎えに行く時間の少し前に、翔太が家で遊んでいて転んだ拍子に膝を擦りむいて血が出たため、それを治療していたら、いつの間にか時間を過ぎていたのだった。
「ううん、悟くんとお話ししてたから」
「悟くん?」
真知子はそう言って、ふと涼子の隣にいる男の子に気がついた。
「ぼく悟。涼子ちゃんのお母さん、こんにちはぁ」
悟はニコニコと微笑んだ。
「あら、お行儀のいい子だわ。涼子のお友達? いつも遊んでくれて、どうもありがとうね」
真知子はそう言ってニコニコ微笑んだ。そして少しの間、悟を褒めちぎった後、涼子を連れて帰ろうとした。
「涼子ちゃん、ばいばい」
「ばいばい」
ふと真知子は、悟がひとりだけでいることに、今更ながら気がついた。
「悟くん、お母さんは?」
「ぼくのお母さんはねえ、三時に来るの」
「ああ、そうなの。もうちょっとねえ」
真知子は建物に備え付けられている時計を見て言った。二時五十分が近かった。
「あら、涼子ちゃんのお母さん? どうされたんですか?」
先ほどの先生がふたたび涼子の元にやってきた。
「ああ、実は……」
真知子が事の次第を簡単に説明すると、先生は「まあ、それは大変でしたねえ」だとか言って少し雑談した後、ようやくいざ帰ろうかという時に、自転車に乗った母親が門から入ってきた。
「あ、お母さんだ」
どうやら悟の母親のようである。すると、真知子と悟の母親は、早速社交辞令の挨拶から入って、「まあまあ」「これはこれは」「あらまあ、そうでしたの」だの、世間話が長らく始まり、幼稚園の先生に促されてようやく帰路に着いたのは、もう午後五時半が近かった。
「まあ大変、翔太を山田さんに預かってもらっているのに! さあ、涼子。急ぎましょ」
そう言って、自転車の速度を少し上げた。前から思っていたが、世の母親は本当に世間話が好きだな、とつくづく思った。
それにしても及川悟には、姉も妹もいないという。どういうことだろう。もしかして、悟も……。涼子は、どうもこの世界は前の世界とは、微妙に相違点があることを認めざるを得なかった。
——私が知世を助けたから、こうなってしまったのだろうか? いや、これは初めからこうなる運命というか、世界の決まりごとなのか。
涼子には、それがどうなのか解る術はなかった。