奇跡、そして暗雲
「和樹っ!」
芳樹は叫んだ。
起こってしまった事態に、金子芳樹を取り押さえていたふたりも、力なく呆然としていた。ふたりを突き飛ばして、動かない弟の元に駆け寄る芳樹。
「和樹! 和樹っ!」
普段まったく見せることがない泣き顔を、隠すことなく弟の名前を呼ぶ。
「ウソだ! こんなの絶対ウソだっ! 和樹は——和樹は、これからもずっと生きていくんだ! そして真っ当で幸せな人生を送るんだ! そうでなきゃならねえはずなんだっ!」
大して人通りの多くない田舎道が、突然大騒ぎになる。和樹を轢いた自動車に乗っていた若い男は、顔を真っ青にして狼狽している。
それから少しして救急車がやってきた。近隣の誰かが呼んだのだろう。どこにこれだけの人がいたのだろうか、と思うほどの人だかりに見送られ、ピクリとも動かない金子和樹は運ばれていった。
涼子は目の前で起こったことが信じられず、ただ呆然としていた。不思議と涙は出なかった。周辺は騒然としていたが、涼子の耳にはまるで届いていなかった。
知らない小母さんが、青い顔をして「大丈夫? ねえ大丈夫?」と涼子の肩を揺すっている。しかし涼子は、それに気づいている様子はない。横山佳代や、矢野美由紀もそばにやってきたが、それもわかっていないようだった。
それから後は、しばらく憶えていない。どうやって帰ったのか、気がついたら布団の中で寝ていた。後で知ったが、真知子が迎えにきてくれたらしい。
布団の中で呆然としていたら、真知子が寝室に入ってきた。
「起きたの?」
「うん……」
「涼子、可哀想なことだけど……しょうがないのよ」
「でも……」
「いいから寝なさい。それで忘れなさい」
真知子はそう言って部屋を出た。
居間にやってきた真知子は、テレビを見ていた敏行のそばに座ってため息をついた。
「おい、涼子はどうだ?」
「やっぱりショックだったのねえ、まだ暗い顔をしてるわ。ひと晩寝て落ち着いたらいいのけど」
「そうか。まあ、目の前でだとなあ。……そういや撥ねられた子、同級生の弟だったとか聞いたが——涼子の知っている子なのか?」
「そういうわけじゃなさそうねえ。金子くんっていう、ちょっと素行の悪そうな子の弟よ。涼子はああいう子とは仲よくしないでしょ。うちに遊びにくるわけでもないし」
真知子は、金子芳樹にあまりいい印象を持っていない様子だ。大して関わりのない子であり、直接人柄を知っているわけではないが、周囲の評判が悪いので真知子もそれに倣ってしまう。
「まあ、なんだ……しばらくすりゃ、気持ちも治るだろ」
敏行はあまり問題にしていないようだった。
それから夜も更けて、午後十一時くらいだった。真知子と敏行も、そろそろ寝ようかと考えた矢先、突然電話が鳴った。
「まあ、こんな時間に誰かしら」
真知子が電話に出ると、子供の声だった。
「……藤崎涼子さんの家ですか?」
「ええ、そうですよ。どなたですか?」
『藤崎涼子さんの同級生で、金子芳樹といいます。はじめまして』
なんと、金子芳樹だった。以前から聞いていた印象とは全然違う礼儀正しい様子に、内心、むしろそのことに驚いた。
「金子くん? こんな時間に……そういえば、今日は大変なことが——」
『そのことで、なんですが。弟の意識が戻りました。重症なんですけど、とりあえず大丈夫でした』
「え? そうなの? それはよかったわ! ……怪我の具合はどうなの?」
『しばらく入院しないといけないって言われたけど、治るって言われました』
「そう、それはよかったわねえ、涼子も心配しててね。寝込んじゃって」
『はい、涼子さんに助けてもらいました。大丈夫だったって伝えてください。それじゃ』
そしてすぐに電話は切れた。なんと、助かったと。結構激しく激突したという話を聞いていただけに、まさに奇跡だと思った。娘の嬉しそうな顔を思い浮かべて、真知子は喜んだ。
戻ってきた妻がニコニコしていたものだから、敏行は気になって言った。
「おい、誰だったんだ?」
「さっきの子、金子くんよ。今日、弟が事故にあったっていう子。なんと、助かったって! 意識が戻ったって言っていたわ」
「なんと、本当か。そりゃよかった」
「涼子が助けてくれたって言ってたわよ。きっと涼子も喜ぶわ。今日はもう寝てるし、明日朝に教えてあげましょ」
翌日、涼子は嬉しい驚きを聞かされた。起きても憂鬱な気分だったが、起きて早々聞かされて布団から飛び出しそうになった。
「本当? 和樹くん、生きてるの!」
「そうよ。昨日の夜中に、電話があったのよ。もしかしたら病院から電話かけてくれたのかもしれないわね」
「よかった! 本当によかった!」
涼子は朝食も忘れて、和樹が助かったことを喜んだ。
「こら、涼子。それもいいけど早く食べなさい。遅れるわよ」
「はぁい!」
金子芳樹は今日は休みだった。
朝の会で担任の吉岡が言うには、昨日、弟が交通事故にあって重症だと連絡があったそうだ。金子和樹はしばらく入院ということだそうだが、意識も戻っているし、心配はないだろうという。芳樹は今日一日は休むことになって、明日から登校するという。
「今回の事故は、自動車の急な飛び出しが原因だと聞いた。交通事故というのは自分だけ注意していても起こることだ。しかし、自分が気をつけることで、事故にあう可能性を減らせることは間違いない。だから、普段から自動車には気をつけるんだぞ。ポパイじゃないんだから、嫌いなほうれん草を無理して食べても、車に撥ねられたら絶対負けるぞ」
吉岡がちょっと冗談を入れると、生徒たちから笑い声が響く。
「みんな、気をつけてな!」
「はぁい!」
朝の会が終わった後、現場にいた涼子は一躍時の人だった。
横山佳代は、涼子が和樹を助けようと、勇敢にも飛び出したことを褒めちぎった。立場とはいえ、事故に会うよう行動していたことに対する罪の意識があるのかもしれなかった。
「絶対、涼子のおかげで助かったのよ。涼子ったら凄いんだから!」
周囲の女子たちはそれを聞いて、口々に涼子を称賛している。当の涼子はその様子にちょっと照れていた。
涼子にとってはとても喜ばしいことだったが、これを良しとしない人もいる。教室でひとり不機嫌そうな顔をしている生徒、朝倉隆之がまさにそうだった。
——金子和樹が生きている——、これは因果を踏むことに失敗したことを意味した。