計算外
涼子は頭の中で、先ほどの金子芳樹の言った言葉を反芻していた。
――この時のために。
――この時のために、金子くんは過去にやってきた。
――弟の命を救うために。
それはそうだ。どこかで不幸な運命を変えられるものなら、自分だってそうする。
涼子はそう考えると、急に体が固まって動けなくなってしまった。
金子芳樹は行ってしまった。因果を踏ませないために行ってしまった。涼子も早く追いかけて、因果を踏めるよう行動しないといけない。しかし、ここから動けなかった。
――私は……私、は……。
一方、事故現場となるはずの地点では、すでに両者が睨み合っていた。
公安の佐藤信正は、世界再生会議の構成員に向かって吠えた。
「悪党どもめ! もうお前らの好きにはさせん!」
佐藤の後ろから、一緒にいた矢野美由紀も前に出てきた。佐藤と違って、黙ったまま目の前の敵を睨んでいる。
「はっ、ウルセェよ。たったふたりで何ができるんだよ」
再生会議の構成員は余裕たっぷりに、ふたりを見下した。再生会議の方は五人もいた。しかも子供だけではない。ふたりは小学生だが、他の三人は中学生以上、しかも内ひとりは、大学生か社会人に見える。明らかに不利だった。
再生会議のひとりが腕時計を見た。予定時間まであと三十分程度だ。金子和樹の姿はまだ見えない。
その時、突然大きな声が響いた。
「コリャアッ! 何やっとるか!」
ゴツい体格をした貫禄のある中年の男が、眉毛を釣り上げて怒鳴っている。それに驚いた子供たちは、一斉に黙ってそちらを見た。
「こんなところで喧嘩なんかするな! 煩い! バカもんがっ!」
怒鳴る中年オヤジに、ただ茫然としている佐藤信正は、録でもないおっさんに見つかった、と内心舌打ちした。佐藤は知っている人物だ。この近辺に住む人で、昨年六十歳で定年を迎えて今はずっと家にいる。やることがなく暇なのか、家庭で揉めてでもいるのか、自宅付近で何かあるとすぐにやってきて、煩いだの、迷惑だの、怒鳴り散らす。
昔から住んでいる古参の住人であることもあって、内心鬱陶しがられているも、近隣住民も強く言えないらしい。
「おじさん、別に僕らは喧嘩をしているわけじゃないですよ」
再生会議の、一番年長と思われる男が紳士的に声をかけた。
「そんなわけあるか! 喚き散らしやがって! ……お前は見ない顔じゃあな。どこのもんじゃ!」
「そんな……」
再生会議の青年は困惑した。しかし、そんなことはお構いなしに、この中年オヤジは青年を攻めた。
佐藤信正は、また始まった……と厄介そうに怒鳴る中年オヤジを見ている。そこへ、矢野美由紀が、「時間が……」と佐藤に小声で言った。「わかっているが……」と同じように小声で答えるが、この状態では、どうすることもできない。
ただ嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
そうしていると、悟と朝倉がやってきた。騒がしい様子に、朝倉が佐藤に声をかけた。
「――どうなっているんだ?」
「見ての通りだよ……」
佐藤はうんざりした顔で、青年に向かって怒鳴り続ける中年オヤジの方を指差した。厄介なアクシデントの発生に邪魔されて、それどころではない。
「もうそろそろでは?」
美由紀が朝倉に言うと、朝倉はポケットから腕時計を出して時間を確認する。もう十分ほどだった。
「不味いな。もう十分後だ。――しかし、金子和樹の姿が見えん」
朝倉はキョロキョロと周辺を見回すが、姿は見えなかった。
「おかしいな、どうも変だ」
及川悟は、難しそうな顔をしながらつぶやいた。
「ああ、もう姿を見せてもいいはずだ。時間が合わない」
「……隆之、因果が変化しているという可能性は?」
「何? ……ううむ、ありえん話ではないが」
ふたたび時間を確認すると、時間は四時になったところだった。
「よ、四時が来てしまった。しかし、おかしい。ここを通らないはずはない」
金子和樹は、この朝倉たちのいる地点で事故にあうはずだった。と言うよりも、ここを通らずには家には戻れないはずだった。
「まさか、知らない道があったとか」
「いや、そんな馬鹿な。俺はこの辺をよく知っている。通らずにはずっと向こうの……あっ!」
「まさか永安橋方面からずっと迂回して……?」
「いや、まさか。でもあんな方向からだと、田んぼの畦道を通ることになる。車が通れん。それだと因果の妨害自体が無理じゃないか?」
「確かに――おかしいことになる」
事故を回避するのに、自動車が通れないような道を通った場合、それは因果を回避したことにならない。因果発生のスイッチがまだ入っていないからだ。
その場合、様々に運命が動いて、起こるようにはたらく。世界再生会議は、因果が発生して、それを妨害しなくてはならないのだ。
道路の向こうから、横山佳代がやってきた。
「ねえ、どうしたの? 何事?」
「厄介なのに捕まった」
まだ怒鳴っている中年オヤジの方を指差して言った。佳代もこの男を知っているようで、「あちゃあ……」とでも言うように、頭を抱えた。それから、すぐに困った顔をして話しはじめる。
「和樹くん、家にも帰ってこないよ。どうなってるの?」
「何?」
佳代は回り道して家の方を見てきたようだった。しかし、和樹はまだ姿を見せない。
「……やっぱり、因果の条件が狂った可能性がある。かなり不味いな……」
朝倉の顔に焦りの色が滲んでいた。
涼子は走っていた。和樹がどこにいるのかわからないが、とりあえず和樹の自宅の方へ行ってみようと思ったのだ。
こっちは田んぼばかりで、アスファルトの道路がない。細い畦道の向こうに幾つかの建物が見える。二階建てのアパートのような建物も見える。
開けた畦道を颯爽と駆けていく。が急にガクンとバランスを崩した。そのまま前のめりに転んだ。
「あいたた……」
特に怪我はないが、うっかりしていた。よく見ると、転んだ場所に二、三センチくらいの分厚い木板が敷いてあった。多分、地面が悪かったので敷いたのだろうが、置いてあった位置がよくなかったのか、思い切り踏んだとき、木板がガクンとズレてバランスを崩してしまったようだ。
そんな時、ふいに声をかけられた。
「お姉ちゃん、だいじょうぶ?」