入園
一九八〇年四月。涼子は幼稚園に入園した。幼稚園の制服に身を包み、新しい環境で、新しい生活が始まる。
涼子は心中ワクワクしていた。この幼稚園には覚えがあるのだ。割合大きめの建物で、園児の数も多かった記憶がある。
幼稚園児になると、やっぱり気になるのは同年代の友達だ。今までは近所の子供数人と仲がよかっただけだが、これだけの人数が一堂に揃うと、たくさん友達ができるだろう。
涼子は、幼稚園には母親に連れていってもらっている。泉田幼稚園は、自宅からおよそ一キロないくらいで、歩いて約二十分かかるかどうかという距離である。なので真知子は、翔太を乗せたベビーカーを押しながら、涼子を毎日連れていっている。自転車は乗せられないことはないが、涼子も成長して一キロ程度は余裕で歩けるし、だったら、真知子もその方がいいと考えてそうしていた。まだ一歳の翔太を家に置いてはいけないので、朝の散歩を兼ねて、翔太も連れていっているのだ。
「涼子、車が来るから気をつけなさい」
「うん」
自宅を出て少し歩くと、岡山臨港鉄道の踏切までやって来る。そこを通過して数分で、国道三十号線に出てくる。現在の岡山南署の北側辺りだ。この昭和五十五年には南署はもっと南の三浜町にあった。現在の位置に移転して来るのは十年以上後のことだ。
国道三十号線は、交通量は多い方だと思うが、現代のことを考えると非常に交通は少ない。
「赤信号だから、渡っちゃだめよ」
真知子はいちいち涼子に言う。毎日のことで、いい加減耳にタコができそうなくらいだが、赤信号だと毎日必ず言った。青信号がもう少しで変わりそうな時は、むしろゆっくり行って、信号が改めて青に変わるのを待つくらい慎重だった。小さい子供を持つ親としては当然だ。が、大人の思考を持っている涼子には、それが少々煩わしく感じていた。ただ自分でも頭で覚えている身体能力と、実際の身体能力には大きな差があることを自覚しているので、素直に従っている。
国道三十号線を越えると、あと十分も経たずに泉田幼稚園に到着する。
途中、知っている園児と出会った。
「あ、りょうこちゃん。おはよう!」
「おはよう!」
涼子も挨拶した。
「まあ、おはようございます」
「あら、まあこちらこそ。今日はいい天気ですねえ」
「本当に、今がいい時期ですよねえ」
母親同士の交辞令も始まる。さらに知っている親子がやってきて、「まあまあ」「これはこれは」「嫌ですわ、ほほほ」などの言葉が飛び交っている。毎日のことだった。
涼子の格好は、紺色のジャケットに同じく紺色のプリーツスカートだ。首元に白い襟が見えるのは、下に着ているブラウスの襟である。地味なデザインだが、現代ほど凝った作りを求めるのは昭和の時代には酷だろう。
左胸には水色の名札がつけられている。この名札は桃色のものもあり、ふたつあるクラスのそれぞれ「青組」と「赤組」を表している。涼子は青組ということだ。涼子は年少組になるが、一歳年上になる年長組の園児は黄組と緑組になっている。
岡山市立泉田幼稚園は、名前の通り岡山市泉田にある市立の幼稚園だ。藤崎家も泉田なので、歩いて来れる距離にある。園児の数は四歳児が三十八人で、五歳児が四十三人の合計八十一人となっている。周囲は住宅街で、ここ十年ほどで幼稚園の周囲は随分変わった。できた当時は、南側など延々と田んぼが広がっていたというが、今は周囲をぐるりと住宅が囲んである。すぐ近くに小学校もあって、園の近くまでくると、小学生が登校している姿もよく見かける。
午前中は、室内でお絵かきの時間だった。涼子は絵は下手なので、あまり好きな授業ではなかった。画用紙にクレヨンで絵を描く。今回は題目はなく、好きなものを描いたらいいらしく、周囲の園児たちを見てみると、かなり自由度の高い様相を呈していた。右隣にいる女の子は、家族を描いている風だったが、頭に丸っこい――熊の耳みたいなのを描いている。狸か狐みたいな尻尾も描いていた。また、正面にいる男の子は、四角い絵を大小たくさん描いている。それがなんなのかはわからない。またそれらの四角も赤青黄色と、色を使い分けている。涼子には、その絵はあまりにも前衛的すぎて理解できなかった。
「何かいてんの?」
男の子が、涼子の画用紙を覗き込んできた。
「チューリップだよ」
涼子は、赤いクレヨンで、花びらの部分をグリグリと塗りつけて言った。特徴的なチューリップの花は描きやすい。単純だし、涼子みたいに絵心がない子にとってはいい題材である。
「ええぇ、チューチップ? そうかなあ」
その男の子は、涼子のいうことに疑問を抱いているようだ。これがチューリップに見えなくて何に見えようか、と涼子は主張しようとしたが、
「これイチゴかと思った」
と男の子は言った。
「えぇ、チューリップだと思うけど。ちゃんと花びらがこう……」
勘違いされたことに、少々ガックリきた。
「じゃあ、それは何描いてるの?」
「ぼくはクルマだよ。カウンタックだ!」
男の子は誇らしげに自分の書いたスーパーカーの絵を見せびらかした。正直、あまり似ていなかったので、どう言ったものかと迷ったが、「へぇ」と驚く程度にとどまった。
七十年代半ば頃から、日本ではスーパーカーブームというのが巻き起こっていた。この頃にはブームも沈静化していたものの、まだ情熱を注いでいる子供はいて、この男の子も年の離れた兄が見事にハマったことで、弟も未だに大好きだった。男の子の描いた、「ランボルギーニ カウンタック」は、まさにこのブームの象徴的スーパーカーだ。
男の子の絵は、車を真横から描いた絵だ。楔形のボディは黄色に塗っている。しかし、よく見ると下部にタイヤが四つ付いてた。向きからしてすべてのタイヤは見えないはすだが、車はタイヤが四つという意識があったのだろう。見えないものまで描いている。
「タイヤが多いよ。これ」
「ええ、どうして? 四つないと走らないじゃないか」
「この絵だと、ふたつしか見えないはずだよ」
「そんな、うそだあ。りょうこちゃんはバカだなあ、あはは!」
大笑いする男の子に、ムッとしたが、幼稚園児相手にムキになってもしょうがないと思って堪えた。まあ、涼子も幼稚園児ではあるのだけど。
午後は外で遊ぶ時間だ。園児たちはワイワイと慌ただしく、そこかしこを駆け回って遊んでいる。涼子は、運動は得意でよく外で走ったりするが、今日は仲のいい子と一緒に砂場で遊んでいた。
「ここにね、クリームがあって……チョコレートが……」
一緒に遊んでいる女の子が、大きなケーキの形をこしらえている。丸い台形を歪ながら形成して、その上に砂を握って丸めたものを上にのせている。イチゴのつもりらしい。涼子も三角形に握って、「おにぎりだよ」と言って、巨大ケーキの上にのせた。
「わぁ、おにぎりケーキだぁ!」
女の子は嬉しそうに言った。涼子はさらにもうひとつ三角おにぎりを製作して、さらにのせてみた。しかし、今度は握りが甘かったせいか、割れてしまう。
「あら、こわれちゃった。もう一個作ろうかな」
涼子はそう言って、別のところの砂を取ろうと振り向いたとき、すぐ後ろに別の園児がいることに気がつかなかった。
「きゃあ!」
涼子はうっかりその園児にぶつかった。拍子に転んだが、そのぶつかった子が「大丈夫?」と言って手を差し伸べてくれた。
「う、うん」
涼子はその子の手につかまって起き上がると、改めてその園児を見た。穏やかな顔立ちの男の子だった。涼子と同じくらいの背丈で、無邪気な瞳は涼子の顔をじっと見ている。
涼子はどうも既視感があった。
――あれ、この子は……どこかで見覚えがあるような……。
しばらくじっと見つめたまま、考え込んだ。
「どうしたの?」
その男の子は、少し心配そうな顔をして涼子に尋ねた。それをまったく気にすることなく、ずっと思考していると、次第にその既視感の理由がうっすらと分かり始めてきた。
――聡美。そう、及川聡美に似ている。
――及川聡美。前の世界において、涼子の幼なじみだった女の子で、後年再会して恋人同士だったこともある。
目の前の男の子は、その及川聡美によく似ていた。