芳樹の弟
「にいちゃん、ぼくね。今日、先生にほめられたんだ」
「そっか、そりゃあよかった」
金子芳樹は、嬉しそうに話す弟の和樹に笑顔で答えた。芳樹の笑顔はかなり珍しかった。こんな笑顔、涼子たち同級生は見たことがない。
芳樹の弟、金子和樹。ふたつ年下で今一年生だ。芳樹とは違い、素直で優しい子供だった。
両親に問題があり、兄がああいう性格だと、かなり影響がありそうだが、以外にもとても普通に育っていた。
また芳樹はこの弟を大切に思っていた。自分は後年、碌でもない人生になったが、この弟だけはまともな人生を歩んでいってほしい。それが芳樹の願いだった。
金子芳樹の家は貧しかった。ボロアパートに母親と家族三人で暮らしている。父親は、数年前に離婚して離れていった。
この母親が困った人物だった。女手ひとつで子供ふたりを養うためにキャバレーで稼いでいるのだが、離婚して一年くらい後から、若い男に入れ込んで家に帰らないことも多かった。収入も多くは男に貢いでいるようだった。
挙句、近年「キャバクラ」と呼ばれる形態の接待飲食店が登場し、旧来のキャバレーよりも人気が出始めていた。芳樹の母の働くキャバレーも次第に客足が減りつつあり、厳しい経営状況と、それによる芳樹の母自身の収入の悪化もあった。
そんなせいで、母親は余計に育児放棄が進み、ひどい時には週に二、三度帰ってくるだけで、お金だけ置いてすぐに出かけて行くということが、最近ますます増えてきていた。
芳樹は、テーブルに置かれた千円札を乱暴に手に取ると、強く握りしめ、
――あのクソババア……。
と憎しみを込めた眼でグシャグシャになった千円札を睨み、そのままテーブルの上に叩きつけるように放り投げた。
「にいちゃん、どうしたの?」
和樹がそばに寄ってきた。
「あ、ああ――なんでもない。今日の晩飯は和樹の好きなボンカレーだ」
「わぁ、本当? にいちゃん、ぼくはあまくちだよ。あまくちがいいの!」
「ああ、もちろんだ。和樹のは甘口だ」
「わぁい!」
「ボンカレー」は、大塚食品が世界初の一般向けレトルト食品として、昭和四十三年に発売したレトルトカレーだ。
とても有名であるし、現在も販売されているので説明する必要もないだろう。レトルト食品の代名詞と言ってもいい存在だ。
息の長い商品で、メインの「ゴールド」だけでなく、過去には「グラタン」や「ファイブスター」、「デラックス」や「ジュニア」、「カルシウム」なんていうものもあった。
涼子も大好きなレトルト食品だが、真知子はあまり好まないのか、作ることは少ない。まあ涼子も、母の作るレトルトではないカレーが一番好きなのだが。
母親が夕飯を作ってくれないため、兄弟の食事は芳樹が作っている。もちろん小学生なので、そんなにちゃんとしたものは作れない。しかし、弟に喜んでもらいたいという一心で、芳樹は頑張って作った。もちろんボンカレーのようなレトルトも多いのだが。
芳樹ははしゃぐ弟の姿を眺めて、今後起こる事件を思い出した。
――絶対に起こさせねえ。絶対にだ。俺は……このために、過去に戻ってきたんだ!
「し、死ぬって……」
横山佳代は、驚きのあまり声がまともに出ない。
「死ぬと言っても、我々が殺すわけではない。金子芳樹の弟は、事故にあう」
「事故? 何、交通事故とか?」
「そうだ。この日の午後四時、兄弟の母親が自宅に戻ってくる。この弟が家にいることで、因果を踏み損ねる結果になるようだ」
「じゃ、じゃあ別に事故にあわなくても……それまでに帰らせなきゃいいんだよね?」
涼子が言った。正直、芳樹の弟には面識がないが、人が死ぬとか怖い話だ。どうにか穏便な事態にできないかと思った。
「だめだ。再生会議は、四時までに帰らせなければ妨害できることになるが、我々が因果を踏むには、芳樹の弟……和樹と言ったか、この少年が事故で亡くなることが必要なんだ」
「そんな……」
「しかしだ。どうして金子の弟が事故死する必要があるんだ?」
「母親が戻ってくると、この母親は金子の弟を叱る。それで家を飛び出した金子の弟は、別の車に轢かれて大怪我を負うことになる。この場合、命は助かるが――当分の間、車椅子生活を余儀なくされる。このことが後に、世界再生会議に都合のいい未来に進んでしまう」
朝倉は淡々とした口調で話す。
重い話だった。正しい未来へ導き、世界再生会議の野望を打ち砕くためには、人が……まだ小さな子の命が失われなくてはならないとは。
また別の場所。こちらは世界再生会議がメンバーを集めて会議を開催していた。あまり人の立ち入らない古い廃墟の敷地内だ。
話しているのは、宮田の側近である門脇だ。常に姿を見せず、組織の中においても謎の多い人物だった。この時代、おそらく小学生であろうかと思われる。しかし説明は明確でわかりやすく、聴衆には彼が非常に頭のいい人物であろうと感じさせた。
「――これは金子くんに大いに頑張ってもらわなくてはなりません」
物陰に隠れ、十数人のメンバーに向かって、今年起こる因果について説明した。それに引き続いて、宮田が口を開いた。
「この因果を邪魔できると、我々にとって非常に有利になる。君たちの健闘を祈る」
それだけ言うと、宮田は黙った。ふいに少し騒然とした。最近では珍しかったのだ。
ここ二、三年は、邪魔に失敗することが多く、宮田は苛立っていた。それもあって癇癪を起こすことが多く、金子芳樹の様なメンバーとはよく喧嘩になっていた。
それが、今日は拍子抜けなくらいあっさりしていたのだ。まあ、しかし、荒れないならその方がいい。メンバーたちはホッとしていた。
実は――宮田はこの時、気分は沈んでいた。内心、この因果は邪魔したくなかった。
なぜかというと、因果を踏み損ねた場合に、和樹を轢いて大怪我を負わせるのは、宮田の父だった。これを機に宮田は「お前の親父は人を轢いた」「犯罪者の子」と周囲から言われ、これ以降の中学生時代、壮絶な「いじめ」を受けることになる。
一度は、ここまでとは思わず因果を邪魔したが、その後の凄まじい「いじめ」の嵐に、もう二度と御免だ、と心に誓っていた。今でもあの不良たちの邪悪な顔が蘇ってくる。うなされそうな記憶だ。
が、こうなっては……またふたたびあの辛いいじめの日々が始まる……そのことを思うと、憂鬱で仕方がない。
しかし、大変強力な実行力のある金子芳樹を仲間に引き込めたのも、これが餌でもあったのだ。
――弟の命を救える――と。
これをやらなかった場合、金子芳樹は組織を離れていく可能性が高い。すると、以降の因果妨害がうまくいかなくなる可能性がある。
それに、宮田はこの試練から逃げたとされ、求心力を失いかねなかった。
集会が終わった後、ひとりでいる宮田のところに、門脇がやってきた。
彼は加納いわく、密かに世界再生会議に不満を抱き、ふたたび過去に戻って未来を変えることを持ちかけた人物でもある。要するに、宮田を密かに裏切っているとされる。
「今回の因果は非常に重要です。決して失敗は許されません」
「そ、そんなことはわかっている!」
宮田は感情的に吠えた。
「ならばいいのですが。まあ……」
「き、貴様! な、何が言いたいっ! この俺様が……あっ、あの——クズどもなんかに屈するかっ!」
「ええ、それはよく承知しています。それでは」
門脇は、密かに笑みを浮かべると、そのまま立ち去っていった。