お正月
年が明けて一九八〇年の正月。
「新年、おめでとう」
涼子の叔父である藤崎哲也は、自宅にやってきた兄家族を歓迎した。
「天気もいいし、いい正月だな。ははは」
敏行は楽しそうに笑った。
「おい、酒持ってきてくれ。兄貴、飲むだろ?」
「おお、もちろんだ」
嬉しそうにする敏行の横から、真知子が割り込んできた。
「ちょっと、だめよ。運転して帰るんだから。事故起こしたらどうするの!」
「ちょっとだけだろ。別にいいじゃないか」
敏行はちょっとくらい、と信じられないことを言うが、この当時は現代ほど厳罰化されておらず、飲んで運転する輩も意外と多かった。
「だめだめ。涼子や翔太もいるのよ。絶対にだめ!」
真知子はあくまで反対だ。
「はは、義姉さんに反対されちゃイカンね」
「おいおい、そりゃないだろ」
敏行はがっくりと肩を落とした。
「わあ、ともちゃん、これなに?」
涼子は、知世の持つおもちゃに感動していた。三、四十センチくらいのプラスチックの本体に、白いスクリーンのついた板状の玩具。一九七七年に玩具メーカーのタカラ(現在のタカラトミー)から発売された、「せんせい」である。磁石の棒を使って、スクリーンに沈んでいる磁性の粉を押し上げることによって、白いスクリーンに黒い線を描くことができる仕組みとなっている。ちなみに、現在も販売されているロングセラー商品である。
「お絵かきできるんだよ。えへへ」
知世と涼子、翔太の三人は、居間にいる大人たちとは別の部屋で一緒に遊んでいた。
知世は幼いながらも絵心があるようで、猫のイラストを描いたが、涼子にも猫だとわかる、可愛らしい絵である。涼子はどうも絵は下手で、上手く描けない。さっきも小鳥の絵を描いたつもりだったが、横で見ていた翔太は、バッタか何かと勘違いしていた。
「しょうくんもやるぅ」
翔太は、絵が描けるその不思議なおもちゃに心を奪われたらしく、知世からペンを貸してもらって、好きなように線を引いた。縦横無尽に右へ左へ、ぐるぐる回して、また線を引いて――もはやむちゃくちゃな状態で、何を描いているのかまったくわからなかったが、本人はとても満足しているようだった。
「しょうくん、貸して。お姉ちゃんにも描かせてよ」
涼子は自分も描こうと思って、翔太からペンを取ろうとした。
「やだぁ、まだやるぅ」
翔太はペンを離そうとしない。
「わたし、まだちょっとしか描いてないのに」
涼子は翔太からペンを取り上げようとするが、翔太の抵抗でなかなか奪えない。
翔太は基本的にわがままであった。今はまだ小さいから、そういう印象は、周囲の大人にはあまり感じていない。が、言い出したら聞かないところに、涼子は少し不満を感じていた。
「みんな、向こうでお餅食べましょ」
知世の母、弘美が部屋に顔を出して子供たちを呼んだ。
「あちち……」
涼子は思わず餅から口を離した。
「ははは。りょうちゃん、火傷しないように気をつけてな」
哲也はそう言って、箸で持った餅を砂糖醤油につけて頬張った。
「あっちち!」
哲也も思ったより熱かったのか、噛みついた餅を離した。
「お前は言ってるそばから何やってんだ。ははは!」
その様子に敏行は大笑いした。
「りょうちゃん、しょうくん。はい、お年玉」
哲也は涼子たちに、小さな袋をそれぞれ渡した。
「わあ、おとしだま!」
涼子は嬉しそうにその袋を受け取ると、早速中を見て見た。中には、お札が一枚入っていた。岩倉具視の肖像が描かれるそのお札は、五百円札である。現在では硬貨に変わったため、まったく流通していないが、この時代にはまだ一般に使われていた。
「ごひゃくえん、ごひゃくえんだぁ!」
涼子は少し大げさに喜んだ。
「おいおい、哲也。多すぎないか。涼子はまだ今年幼稚園だぞ」
敏行は意外に思ったらしい。さらに翔太のお年玉にも五百円札が入っていた。翔太は嬉しそうにしているが、それが何なのかわかっているのかは不明だ。
「いや、もうそのくらいはいるだろ。しょうくんも一緒じゃないとかわいそうだし」
「でもこんなに多いと困るわ」
真知子は困惑して苦笑いしている。
「そうだ、ともちゃんにも、伯父さんからお年玉があるんだよ。あれ、車に置き去りだったかな? ちょっと取ってくる」
敏行はそう言って部屋を出ていった。真知子も「もう、あなた。何やってるの」と言って、ついて出て行った。
涼子は、多分お年玉の金額を増やしに行ったな、と思った。それも、叔父の家に行く前に、知世へのお年玉の金額で、「今年も五百円でいいかな」「だめよ。五百円じゃ恥ずかしいでしょ。今年は涼子が幼稚園だし、きっと多いわよ」とか、ふたりで言っていたのを聞いていたからだ。
どうやら五百円にすることにしたようだが、こちらがふたりに対して、向こうはひとり。少し多めに入れないと釣り合わない、と考えているようだった。そして、実際には、ふたりに五百円づつだったため、これは不味いと思ったらしい。涼子の予想では千円札を入れて戻ってくるのではないかと考えている。見栄である。
お年玉は、親戚同士で事前に話をして、すでに金額を決めている場合も多いと思う。しかし藤崎家ではそういうのはしていないようだった。
「わあ、これなんていうの?」
知世が、受け取ったお年玉袋からお札を一枚取り出して、両親に見せた。伊藤博文の肖像が描かれた札である。
「おいおい、兄貴。千円は多すぎだろ。知世はまだ幼稚園にもいってないんだぜ」
さすがに驚きを隠せない哲也。
「いや、うちは姉弟で千円も貰ってるんだから、当然だろ」
「いやいや、あんまり多すぎると困るよ」
「いやいや、問題ないだろ」
敏行と哲也が、いやいや、これはこれは、とやっている最中、真知子が涼子と翔太のお年玉袋を取り上げた。
「さ、これは貯金しましょうね」
「ええぇ、涼子のお年玉ぁ」
取られたお年玉を真知子の手から取り戻そうとするが、さっさとバッグに仕舞われてしまい、がっかりする涼子。毎年の恒例だった。祖父母や、母方の親戚からのお年玉も、もらってすぐに取り上げられた。まあ、まだお小遣いをもらう年齢ではなかったので、しょうがないとは思いつつも、せっかくもらったのに……と残念に思うのだった。
「またお買い物に行きましょ」
不満げな子供たちの機嫌をとるように、真知子は言った。しかし、翔太は買い物と言う言葉に反応して、早速言い出した。
「いく! おもちゃ!」
「翔太、今日はまだ店が開いてないからだめだ」
最近は一日から開けている店も少なくない。が、敏行の言うとおり、この時代には一月一日に開けている店は皆無と言っていい。三日四日も休んでいる店も普通にあった。
「やだっ、いく!」
翔太は駄々をこね始める。まあ、最近よくあることではあった。まだ二歳の小さな子であり、この場ではまさにみんなのアイドル状態であるため、そんな駄々っ子なところも微笑ましく思われている。それに涼子は、よその子に比べてそれほど欲しがらないので、翔太のような子供っぽく我儘を言う子は、むしろ可愛く感じるようだ。
そのことを薄々気づき始めていた涼子も、このままでは翔太に主導権を握られてしまう、と考えて、「りょうこも、お店行きたい!」と主張してみた。
お前もか、とゲンナリする敏行。それを見て笑う哲也。
「涼子、次の日曜日にお買い物に連れていってもらおうね。涼子ちゃんの好きなお洋服を買いましょ」
真知子が提案すると、涼子は「うん!」と言って嬉しそうに笑った。翔太は相変わらず駄々をこねていたが、叔母の弘美がグレープジュースを持ってくると、ブドウが大好きな翔太はグラスの紫色のジュースを見て、すぐに目を奪われ、おもちゃのことは頭から消えてしまったようだった。
「哲也、お前は親父のとこにはいつ行くんだ?」
「うちは明日行こうかと思ってるけど……」
「そうか、うちはどうしようかな?」
「いいじゃないか。兄貴も明日にすれば。わざわざ別の日にせんでも」
「別にそう言うわけじゃないんだが」
敏行としては、哲也の家族と一同に揃うと、父は調子に乗るのが嫌だった。それで「いい加減、お前も百姓をしろ」だの「こっちに住めばいいだろう」だの言い始める。それから「今日は泊まっていけ」も正直鬱陶しいと思っている。子供たちは大喜びだから、反対もできず結局は主導権を握られてしまうのだった。
「やっぱり忘れてたふりして、行かないことにしようかな」
ますます億劫になってしまったのか、どうにかして行かない方法を模索しているようだ。それを聞いた真知子は反対した。
「あら、だめよ。義父さまも義母さまも、心待ちにしているのよ。涼子たちに会うのも楽しみにしてるし」
「でもなあ……」
「だめです!」
真知子がぴしゃりと撥ね付けた。結局、行くことになるようだ。
敏行は結局明日、実家を訪ねることになり、哲也一家とともに一泊して帰ることになった。そして翌日は真知子の実家を訪ねて、翌日は仕事始め。こうしてあっという間に、敏行の正月休みは終わって行くのだった。
桜の咲く頃、涼子は幼稚園に入園する。色々あったが、なんとか平穏無事に生活してこれた。
涼子も大分成長しており、言葉も普通に話せるし、運動も自由にできる。身長もぐんぐん伸びて、見違えるようだ。
幼稚園児になった涼子はどう生きて行くのだろう。期待と不安が入り混じった複雑な感情を滲ませながら、止まることなく時間は確実に経過していく。
流れる川が止まることがないように。逆流することがないように。確実に時間は、未来に向かって流れていくのだった。
次話から、涼子は幼稚園に入園します。これ以降、投稿の頻度が落ちると思いますが、今後とも読んでもらえたらと思います。