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夢の中で

「涼子ちゃぁん!」

 奈々子は藤崎家の玄関から呼んだ。ちなみに、涼子の家にも呼び鈴はあるが、正直なところ、あまり使われていなかった。来客も「すいません」「ごめんください」など、声をかける場合が多かった。当然子供たちも同様で、その家の子を呼び出す場合も、直接その子の名前を呼ぶことが大半であった。

 すぐに「はぁい」という真知子の声がして、ちょっとして玄関が開いた。玄関から出てきた真知子は、まず奈々子の姿を見たが、その後ろに涼子の友達が、ぞろぞろと十人近くいることに少し驚いた。

「こんにちは、奈々ちゃん。あら、ずいぶんたくさんで来てくれたのね」

 奈々子は手提げ袋から、斎藤から受け取ったプリントを取り出した。

「おばさん、プリントを持ってきました」

「どうもありがとうね、奈々ちゃん」

 真知子はプリントを受けとった。

「……あのう、涼子ちゃんはだいじょうぶなんですか?」

「ええ、お昼にお医者さんに診てもらったけど、ちゃんとお薬飲んで寝ておけば治るって言われたわ」

「涼子に会ってもいいですか?」

「風邪が移ったらいけないから、ごめんなさいね。涼子には、みんながお見舞いにきてくれたって言っておくから。本当にごめんね」

「はい、涼子ちゃんには、早く治して元気になってとつたえてください」

「ええ、絶対に伝えておくわ。涼子も喜ぶわ。みんなは風邪をひかないように気をつけてね」

「はい」

 奈々子たちは帰っていった。真知子はしばらくその姿を見送っていた。



 それに先立つ昼頃。藤崎工場では、十時頃に敏行が車で涼子を病院に連れていっていた。熱があるが、安静にして寝ていれば問題ないとのことで、戻ってきていた。

 昼休みが終わって、いつも自宅で昼食を食べているベテランの大河原源造が紙袋を抱えて戻ってきた。中身はミカンだった。いわゆる「温州みかん」である。ミカンといえば冬だ。まさに旬の果物だ。

「社長。こりゃあのう、一昨日に息子が貰いもんじゃからと言って置いてったんじゃがな。よかったら涼子ちゃんに食べさせてやられぇ。形は歪じゃあけど、味はええぞ」

「おお、源さん、すまんね。涼子も喜ぶだろう」

 敏行はありがたく受けとった。

「まだたくさんあってな。明日また持ってくるから、みんなで分けてくれ。箱いっぱいあるんじゃ」

 大河原源造は、職場の仲間にも明日持ってくると言った。かなりもらったらしい。

「じゃあ三製の蒸気配管、続きをやっててくれ。あと、来年の定修のやつ。あれも今週のうちにははっきりするだろうから」

 敏行はそう言って、ミカンを持って自宅に向かった。



 敏行が自宅に戻ってきた。居間で雑誌か何か本を見ていた真知子に声をかけた。

「おい、涼子はどうだ?」

「今は寝ているわ。あら、その袋はどうしたの?」

「おお、これな。源さんがミカンくれたんだ。涼子が起きたら食べさせてやってくれ」

 敏行はそう言って、紙袋からミカンをひとつ取り出すと、真知子に紙袋を渡した。敏行は取り出したミカンの皮をむいて、食べ始めた。

「あら、源さんが? この間もブドウをいただいたし、いつも本当に悪いわねえ。今度また何かお返ししないと」

 真知子は紙袋からふたつミカンを取り出すと、炬燵の上に置いた。そして、隣の和室に寝ている涼子の様子を見にいった。



「涼子は晩飯を食べんのか?」

「ええ。ミカンは食べたけど、お腹空いてないからいらないっていうから。熱はいくらか下がってきてるんだけど」

「まあ、しょうがないな」

 敏行は涼子の寝ている和室の方を見た。

「おねえちゃん、だいじょうぶなの?」

 翔太が心配そうに言った。

「大丈夫よ。お医者さんが大丈夫って言ってるし、熱もちょっとづつ下がっているし。ほら翔太、好き嫌いはだめでしょ。ニンジンも食べなさい」




 涼子は深い暗闇の中で、ひたすら熱と戦っていた。朝から比べると大分熱は下がったが、まだ平熱までは下がっていない。

 混濁した意識の中で、涼子は夢を見ていた。


 ……涼子は自宅の縁側に座っていた。少し薄暗い視界は、今が何時ごろなのかよくわからなかった。暑いのか、寒いのかもよくわからない。そしてなんの音も聞こえなかった。

 どうしてこんなところに座っているんだろう。そんなことをふと思った。なんと表現したらいいのか、とても不思議な感覚だった。

 そして、目の前に誰かがいた。いつからいたのか、それも涼子にはわからなかった。

 ——涼子、こんにちは。

 その人は声をかけてきた。その声から、女性であろうことがわかった。

 涼子は無言のまま、目の前の人をよく見た。大人の女性だった。この人には覚えがある。誰なのかわかる。

 そう、その人は——涼子だった。しかも自分の未来の姿、大人の涼子だった。二十代か三十代か、はっきり見えていないので判断つかないが、それは紛れもなく大人の藤崎涼子だった。

「涼子……さん?」

 涼子は初めて声を発した。目の前の女性が、将来の自分なのは間違いないが、それが自分と同じだとは思えなかった。いや、思いたくなかった。だから、ちょっと他人行儀なこと口にした。

 ——そうよ。子供の頃の私。

「あの……どうして……」

 ——どうしてとは? 私がこうして目の前にいること?

「は、はい……」

 ——それは、涼子の記憶が戻りつつあるからよ。多分、わかっているとは思うけど。

「ああ、まあ……」

 ——それより、何? その他人行儀な喋り方は。自分に対してでしょう。もっと気さくに喋ってほしいな。私、子供の頃はそんな子じゃなかったわ。

「ええと、あの……」

 ——冗談よ。そんなに緊張しなくてもいいのよ。それよりも……今、どう?

「今、とは?」

 ——今の生活。あなたが、これまでの人生を歩んできて、どうだった? 楽しかった?

「そうですね……まあ、楽しかった……いや、楽しいです」

 ——それはよかった。

 大人の涼子はそれだけ言って微笑むと、そこで口を閉ざした。

 ふたりの間に、ふたたび沈黙が訪れた。


 ふたりの涼子は、何も喋らず、ただ沈黙したままだった。子供の涼子は縁側に座ったまま、大人の涼子はその目の前に立ったまま。

 涼子は俯いていた。何も言わず、顔を隠すように俯いていた。それは見方を変えれば、目の前の人物から目をそらしているようにも思えた。

 ふいに大人の涼子が動いた。涼子の隣に行き、同じように縁側に座った。そして子供の涼子の方に手を回し、そっと抱き寄せた。

 ——怖いんだよね。

 子供の涼子は何も言わなかった。

 ——それはわかるわ。自分の中に別の人格で形成されていくように感じられるものね。

 ——でも、違うのよ。別に心配することなんてないの。安心して。

 大人の涼子は、優しくつぶやいた。しかし子供の涼子はなんの反応も見せない。


 それからどのくらい時間が経過しただろうか。長い沈黙から、ようやく子供の涼子が口を開いた。

「……ねえ、「私」はどうなるの?」

 ——どうもならないわ。ただ記憶が融合され、ひとつになるだけなのよ。

「そんなの信じられない! 嫌だ! ひとつになんてなりたくない!」

 ——安心して。大丈夫だから。

「嫌だ! 嫌だ! 私はまだ消えたくない!」

 ——消えたりしないわ。

「嘘だ! 私は騙されない!」

 ——本当よ。


「私は私でいたい! ずっと私のままでいたい!」

 大人の涼子の腕を振り解き、突然立ち上がると、そのまま振り返りもせずに駆け出した。

 その後ろ姿を、大人の涼子は黙って見送った。

 ——涼子。



 涼子は走った。どのくらい走ったのかわからないが、気がつくと、そこは学校だった。学校の教室、涼子が授業を受けている三年B組の教室だった。どうして学校に来てしまったのか、それは涼子にはわからなかった。

 なんとなく自分の席に向かった。そして、その席に座った。やはり、どうして座ったのかわからないが、無意識に行動していた。

 そこから正面の黒板を見た。薄暗い教室の中で、黒板の前、教卓に人影を見た。なんと、大人の涼子だった。

 涼子は反射的にのけ反り、席を立った。

 立った瞬間、目の前に大人の涼子が立っていた。子供の涼子は動けなかった。

 ——どんなに逃げてもだめよ。逃げてはだめ。前を向いて。

「……で、でも」

 そうつぶやいた瞬間、涼子は、ギュッと抱きしめられた。小さな温もりが涼子を包み、やがてそれが大きく広がっていく。

 目の前は真っ白になった。

 ——涼子はどうなっても、根本的には変わらないのよ。だから……。



 ……目が覚めた。ぼやけた視界に、見慣れた天井がぼんやりと映る。何か音がする。とてもよく知っている音だ。それは生活の音だった。台所から音がした。朝食を用意している音だろう。体をゆっくり起こし、周囲を見回した。

 隣には翔太が寝ていた。その向こうには、敏行の寝顔が見える。

 いつもの朝の風景だった。

 ——夢? 夢だったんだろうか。

 大人になった涼子との会話。あれはなんだろう。何を暗示しているのだろう。

 涼子は今、自分がどうなのか、少し考えてみた。しかし、特にどうとも変わっていないことに気がついた。別に昨日までと変わらない。

 なんだ、どうもないのか……いや、違う。やはり変わっている。これまでの自分の記憶に、もうひとつ別の記憶がある。自分が持つ「涼太の記憶」と一緒に、「涼子の記憶」まであった。今生きているこの九年ほどの記憶とは別に、二〇二五年——令和七年までの記憶が。

 これまで時々記憶に入り込んできた記憶が、いきなり全部頭の中に入ってきたという状態だ。もちろん、忘れていることもあるだろうが、藤崎涼子というひとりの女性の未来までの記憶が、いうならば復活したという感じであろうか。

 そうなのだ。涼子が恐れた記憶の上書きではない。そのまま追加されただけだった。

 最後に聞こえた言葉。それは、「涼太」も「涼子」という土台の上にあるだけで、表面上の問題でしかない。「本来の涼子」と「涼太」は別の存在だと思って、だからこそ恐れていたが——涼太も涼子の一種であったということか。だから何も心配することはなかったということだろうか。


 ふと、部屋に真知子がやってきた。起きている娘の姿を見て声をかけた。

「——涼子、起きたの? 熱は大丈夫なの?」

 真知子は涼子のそばにやってくると、額に手を当てて熱を見た。

「大丈夫だよ。もう全然辛くないし!」

 涼子は元気よくピースサインをした。

「そうね、もう熱はなさそうだけど……体温計を持ってくるから、ちょっと待ってなさい」

 そう言って、真知子は部屋を出た。

 涼子は立ち上がった。実際に、昨日までの辛さが嘘のようだった。部屋の窓の前に行って、カーテンを開けた。眩しいくらいの朝日が涼子を照らした。とても気持ちのいい朝だった。

 ふいに声が聞こえた。


 ――ほら、大丈夫だったでしょ。もう私たちはひとつなのだから。今後ともよろしくね……なんちゃって。


「うん! よろしく、未来の私!」

 涼子は元気よく、記憶の中の未来の自分に挨拶した。

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