風邪
「涼子、ご飯よ。……どうしたの?」
夕飯に涼子を呼びに子供部屋にやってきた真知子は、しょんぼりと項垂れている涼子を見て少し驚いた。
「……別に」
「別にってことはないでしょ。どこか痛いの?」
「ううん」
「熱があるのかしら。うぅん、そんなには……ないか」
真知子は涼子の額に手を当てて熱をみたが、特に高熱を発してるようではなかった。
「ご飯食べたらよくなるかもしれないわね。とにかく食べなさい」
真知子はそう言って、部屋を出ていった。
本格的に冬が訪れる。冷たい北風が子供たちを襲う。しかし、男子たちはなぜか長ズボンを履かない。いかにも寒そうな太腿剥き出しの半ズボンで元気に登校する。ジャンパーなどの防寒着も着ていない。標準の学生服だけである。
今にして思えば、こんな寒い日によくあんな寒そうな格好で登校できるもんだと、驚きを隠せないだろう。
しかし、手袋だけはみんなしているようだ。さすがに手は冷たい。
「涼子、おはよ!」
教室に入ると、同級生が声をかけてくる。
「おはよ!」
涼子もそれに応えて挨拶する。
教室の中はわりと暖かい。それは教室の中にストーブが設置されたからだ。
ストーブには煙突が備え付けられていて、それが窓の方に向かって伸びている。窓には煙突を貫通させるパネルがあって、煙突はそこから外に飛び出していた。
ストーブは注意しないと生徒が火傷をするなど事故が起きる。だからストーブの周囲に柵を設けてそばに近寄れないようにしてあった。この柵が割と大きくて、あまりそばには近寄れない。もっと小さな柵だと、この金属製の柵自体も熱を持って暑くなったりするが、大きすぎるせいか、冷たくはない程度しか温められなかった。
「あったかぁい。もうはなれたくないねえ」
「ここで授業うけたいよね」
同級生がストーブの柵にしがみつくようにして雑談している。
涼子たちも、教科書やノートなどをランドセルから自分の机に移すと、教室の後ろにある自分の棚にランドセルを放り込んで、ストーブの前にやってきた。
「ふぅ、やっぱりストーブはいいね」
友達の裕美は柵にしがみついてつぶやいた。
「そうだねぇ——ああ、あったかい」
涼子も同じようにしてつぶやいた。
ふとその時——また憶えのない記憶が浮かんできた。
県内トップの進学校に進学した涼子は、今と同じようにストーブの前で、同級生と一緒に和気あいあいと進路について話していた。
涼子の成績は優秀で、東京に行くという。話し相手の同級生は圏内に残るので、大学生では離れるね、岡山に帰ってきたら絶対会おうよ、といったことを話している。
工業高校に進学し、卒業後に就職をした記憶しかないはずの、今の涼子には、到底ありえない記憶だった。
——またか。
涼子はうんざりしていた。本来の自分はずいぶん頭のいい人だったらしい。何もかも成功して、さぞかし楽しい人生だったのだろう……涼子は、いつの間にか嫉妬のような感情を抱いていた。自分のことなのに。
しかし、もしかしたらこの幸せいっぱいのエリート涼子に取って替わられるかもしれないのだ。どうしても負の感情を抑えられなかった。
「どうしたの?」
ふと、裕美が声をかけてきた。
「え? ああ、ええと。なんでもない。……っていうか、今度のみっちゃんの誕生日会にね、どんなプレゼント持っていこうかなって」
「ああ、そうそう。わたしも何にしようかなって思ってたのよ。ゴロピカドンの下じきもいいけど、レターセットもかわいいしねぇ——」
裕美は楽しそうに話している。そこへさらに別の同級生たちがやってきて、話に混じってきた。涼子はそれでうやむやになっているうちに、授業のチャイムが鳴った。
数日後、涼子は風邪を引いた。最近の寒さは本格的で、同級生にも風邪を引いた、風邪で休んだ、という生徒が出ていた。
「三十八度——高いわね。今日は学校は休みなさい。後でお医者さんに見てもらいましょ」
「うん……」
涼子はゴホゴホと濁った咳をしながら、ゆっくりと布団の中に潜りこんだ。
「おい、涼子は熱があるのか?」
敏行は朝食を食べながら妻に状態を尋ねた。朝食にも起きてこれないくらいなのは珍しい。
「そうね。最近寒くなったから。今日は学校は休ませるわ」
「そうだな。しかし毎年風邪は引くけど、ここまで悪くなったのは初めてだな」
「そうねえ。……ああそう、涼子を車で病院に連れていってくれない? やっぱり診てもらったほうがいいわ」
「おう。今は忙しくないし、適当なところで連れていこう」
「涼子かわいそう。つらいのかな」
「ぜったいそうだよ。涼子、かぜひいたのよ。本当かわいそう」
奈々子たち涼子の友達が、口々に涼子に対する同情の念を表している。朝、涼子が登校していないことに同級生たちは騒然としていた。涼子はこれまで風邪で休んだことはなかった。風邪をひいたことはあるが、休むほどは今回が初だった。
担任の斎藤から、あらためて涼子が風邪を引いて休む、という旨を聞かされた。
「きのう、ちょっと元気がなかった気がする。きっと病気なのにむりしていたんだ。涼子かわいそう」
「涼子、病院に行ってるのかな。手じゅつするんじゃ……」
「ええ、こわい。涼子だいじょうぶなのかなあ」
いつの間にか、涼子は「悲劇のヒロイン」の如く持ち上げられていた。ただの風邪なので、もちろん手術などありえないが、ちょっと酔いしれている感のある奈々子たちは、どんどん大袈裟な話に膨らませていた。
帰りの会が終わった後、担任の斎藤は奈々子を呼んだ。
「ねえ、奈々ちゃん。涼子ちゃんにこのプリントを持っていってあげてくれない?」
休んだ涼子に、帰りの会の時に配られていたプリントを持って行って欲しいと依頼したのだ。奈々子は仲がいいし、帰り道の途中に涼子の家の近くを通るので都合がいいと思われていた。
もちろん奈々子は快諾した。
「はい! わたし、ぜったいもっていくわ。だってわたしは、涼子の友だちだもん」
「わたしも友だちよ、わたしもいく!」
「わたしも!」
結局、奈々子たち九人もの同級生たちが涼子の家に行くことになった。帰る方向が違う、真壁理恵子や中村孝子たちも行くという。病人のもとに、そんなに大勢でぞろぞろ押しかけてもだいじょうぶだろうか、などとは考えもしていない。
斉藤は「あまり大勢で押し掛けては迷惑よ」と注意していたが、そんなことは聞こえていないようだ。