憶えのない記憶
十二月に入り、冬の寒さも本格的になってきた。涼子の住んでいる岡山県南部は、あまり雪の降らない過ごしやすい土地だが、それでも寒いときは寒い。
そんな寒い季節に入っても、新しい机に浮かれているように見える涼子だが、この頃どうも気分が落ち着かなかった。どうも頭の中がスッキリしない。記憶がゴチャゴチャになっている、そんな感じだ。
以前からその兆候はあった。時々、憶えのない記憶がふと浮かんできたりする。
この「憶えのない記憶」は、及川悟たち、未来を元に戻すという名目で過去からやってきた連中の説明と一致する。
涼子は前は男性であり「涼太」という。しかし彼らは——これは「世界再生会議」という悪い連中が「過去を操作」して、自分たちに都合のいい未来に変えた行程において起こったことで、本当は違うという。本当は今と同じく女性の「涼子」であり、元の状態に戻すことで、世界再生会議の連中の悪巧みを挫くため、涼子を本来の姿に戻した。それが今現在の状態だと説明していた。
そして……彼らの計画通りに涼子は本来の形で誕生した。
しかし、ひとつだけ彼らの計画通りではない部分がある。涼子は今、「涼太」の記憶を持ったままなのだ。
悟たちは、涼子が記憶を持ち越さないまま、新しく人生をやり直していると思っている。おそらくそうなるようにして、この過去に戻したのだろう。
しかし、涼子は「涼太」の記憶を持ち越している。これがどうしてなのかは不明だった。悟たちが意図したものではないのは間違いない。
そして涼子は、そのことを隠していた。それが明るみになると、どんな影響があるかわからないからだ。それは、涼子が今の生活がとても満足しているからだった。このまま何も変わらず平穏無事に生きていけたら……そう思うと、前の記憶のことなど話せるはずもなかった。自分の胸の内に留めておきたいのだ。
しかし——そうも言っていられないようになってきた。
この一週間ほどの間、様々な知らない記憶が涼子の中に割り込んできた。もっと後のこと——例えば、平成になった後。中学生になって、相変わらず成績は抜群、高校も県内随一の進学校へ入学。そこから大学に進むが、その大学はなんと「東京大学」だ。記憶では高卒で就職したというのに、憶えのない記憶ではバリバリのエリートコースである。そしてその後、科学の道を志し、研究者へとなっていく。ちょっと信じられない未来だった。
だが、それらしいことは悟から聞いていた。科学者となった涼子は、記憶を過去に遡行させる技術を作り上げる。これが例の「世界再生会議」に目をつけられ利用されたという。
こういった記憶が日を追うごとに浮かび上がり、鮮明な記憶として涼子の頭に打ちつけられていった。しかし、これを相談できる人はいない。
涼子は次第に不安が募り、それが憂鬱を呼び込んだ。そんな様が目立つようになり、周囲も少し気にし始める。真知子は風邪でも引きかけているんじゃないかと心配した。
「涼子、熱があるんじゃないの?」
「ううん、大丈夫だと思う」
「体温を測ってみなさい。ほら」
真知子は引き出しから体温計を出してくると、涼子に渡した。しょうがないので脇に挟んで測ってみた。結果、平温のようで、風邪ではないと判断された。
——はぁ、何なんだろう。どうも気分がよくない。
まだ新しい机に向かって、頬杖をついて考える。とても嫌な気分だ。どうしてこんな気分になるのか……。
ふと、また何か頭に浮かんできた。
高校を卒業して、東大へ進学し、東京にてひとり暮らしを始めた時だ。大学生活は特に問題もなかったが、都会の生活は色々と苦労した。そんな時、いとこの内村友里恵が会いにきてくれて、よく相談にのってくれたり遊びに連れていってくれた。
友里恵は母方のいとこだが、彼女は千葉の大学を卒業後、東京でモデルにスカウトされて、雑誌モデルをやっていた。子供の頃はふっくらして可愛らしい印象の容姿だったが、元々背が高く成長するにつれてスタイルがよくなっていった。
世話焼きで人当たりのいい友理恵は、いとこの涼子が東京にやってくると、定期的に会いに行って涼子を街へ連れ出してくれた。もちろん、涼子は自分とは違う天才だ、と信じているから、悪い虫が付かないようにしっかり見てやっていた。
涼子もそんな友里恵をとても信頼し、後々までとても仲がよかった。
「涼太の記憶」では、友里恵と会うことはほとんどなかった。大人になった後では、祖父母の葬式の時くらいだったろうか。
どうしてこんなに違うのだろうか。「涼太」はどこで道を間違えただろうか。いや、そもそも歩んできた道が違い過ぎる。
更にまた、記憶が浮かび上がってくる。
三十二歳の時の記憶で、長男を産んで間もない頃だ。夫と四歳の娘と共に生まれて間もない長男を笑顔で見つめる自分。とても幸せそうな家族の様子だ。理想の家族像なんていうものかもしれない。
——自分が三十二歳の時なんて、どうだったろうか? 結婚したのは三十四歳だから、まだ独身だった頃だ。仕事もうまくいかず、収入も大したことなかった。いい生活とは言い難かった。
そんな「涼太」の記憶を思い出して、また嫌な気分になった。
——なんていうか、やっぱり劣等感……っていうことだろうか。妬みとかそういうものだろうか。本当の自分に対して。……はは、情けないというか、なんというか、これはどう表現したらいいんだろう。
涼子は結局、夕食の時までずっと机で頬杖をついていた。
このままでは、頭がおかしくなってしまいそうだ、と思いはじめていた。どうしようもなくて、とうとう誰かに相談してみようかと考えた。
しかし、誰に相談したらいいか? まず「未来からやってきた」という、このSF的な話の関係者以外では、まともに取り合ってもらえないと考えた。
だったら、悟たちに相談するしかないということになる。佳代にしようか、それともミーユにしようか……いや、やっぱり話が通じやすい悟や朝倉——朝倉は性格が苦手だから、やっぱり悟にした方がいいと思った。
涼子は結局、悟に相談することにした。そして、今、自分が「涼太の記憶」を持ったまま生きていることも話すことにした。
翌日、学校で悟に下校後に相談にのってくれるよう話た。悟は快諾してくれた。