ぬいぐるみ
涼子は自宅の方に戻ると、台所の方に向かった。台所では真知子が何かやっていた。よく見たら、おやつを用意していた。
「あら涼子、クッキー貰ったから食べなさい」
「ほんと? それじゃ一枚――」
テーブルに置いていた土産物と思われる箱を覗き込むと、そこにあったクッキーのひとつを摘んで口に入れた。大きくないのでひと口だ。
涼子はクッキーの美味しさを堪能しながら、真知子に聞いた。
「お母さん、段ボールない?」
「段ボール? そんなもの何に使うの?」
「宿題。貯金箱を作るんだ」
「宿題の工作? ふぅん……そうね、上の物置にまだあったかしら」
上の物置とは、玄関の真上にある物置だった。物置というと他にもあるので、ちょうど玄関の上にある物置ということで、そう言っていた。ここは物置とはいうものの実際には部屋だ。四畳か六畳そこらの、奥行きが長めの狭い部屋だった。ここにはもちろん、階段を登らないといけないこともあって、大きくない、重くないものを置いてある。
「じゃあ、見てくる」
涼子は台所から出ていった。
「こら、待ちなさい」
真知子も涼子の後を追った。
上の物置は、玄関から真正面に見える小さめの階段から行くことができる。この小さめの階段が曲者で、軽くても大きなものだと壁につっかえてしまって運べない。どうしてこんな使い勝手の悪い作りになっているんだろう、と真知子は前から不満に思っていた。
結局ここには、季節ものの衣類や、お歳暮などのタオルや石鹸セット、書籍類などといったものを仕舞っている。引っ越してきて、とりあえず使わないものなども置いていた。
涼子が階段を上がって、部屋の引き戸を開けると熱気が漂ってきた。
「うわ、暑い……」
涼子はすぐに奥の窓を開けた。そよ風が入ってきて少し涼しい。
「やっぱり暑いわねえ」
真知子も物置に入ってきた。涼子はキョロキョロと段ボール箱を探している。大小様々な大きさの段ボール箱があるが、多分どれも中身が入っているのだろう。
ちょっと興味が湧いて、適当な箱を開けてみた。
「あ、これ……」
涼子は箱の中にあった、犬のぬいぐるみを取り出した。
「あら、懐かしいわね。ええと、なんていう名前だったかしら」
「バ、バロンだ。お母さん、これバロンだよ」
「ああ、そうだったかしら」
真知子はよくわかっていない。バロンと言っても、どういったキャラクターなのか覚えていない。
涼子は薄汚いぬいぐるみをまじまじと眺めて、昔のことを思い出した。
――そうだ、これはバロン。「ペリーヌ物語」に出てきた犬のバロンだ。
バロンは、世界名作劇場「ペリーヌ物語」に登場する犬で、主人公ペリーヌの飼い犬だ。物語の最初から最後まで、主人公とともに苦楽をともにしてきた。原作には登場しないオリジナルではあるが、エンディングテーマソングも「きまぐれバロン」というバロンのことを歌詞にした歌だったり、結構重要なキャラクターでもある。
「ああ、そういえば……それは確か、ジャスコで涼子が「欲しい、欲しい」ってせがむものだから買ってあげたのよねえ。あんた、あまりぬいぐるみなんかを欲しがらないから、あの時、お母さんちょっと嬉しくなったわね」
真知子は嬉しそうに話した。
昭和五十三年の秋頃、涼子がまだ幼稚園に行く前の頃、ジャスコのおもちゃ屋の店頭で飾られていたバロンのぬいぐるみを、必死にせがんだ。涼子はこの時、バロンのぬいぐるみが、どうしようもないくらいに欲しくなった。
バロンは同じ世界名作劇場のパトラッシュやラスカルなどと違い、マンガ的で愛嬌のあるデザインだったこともあり、子供が気にいるのも不思議ではないが、そんなものではないくらいに欲しくなった。
涼子は時々、こういう自分の欲求の出所がよくわからないことがあった。以前は「どうしてだろう?」と思いつつも、あまり深く考えていないが、改めて不思議に思っていた。
しかし今では、その意味がおよそ推測できる。
未来からやってきたという及川悟やその仲間たちは、涼子が「本来、女性の『涼子』だったのを、悪い組織が野望のために、男性の『涼太』に過去を変えられていた、と言っていた。とりあえずそれを元の状態に戻し、さらに正しい未来へ進めていくために行動しているという。
涼子は今――心の中は、男性の『涼太』なのだ。体は彼らのいう本来の涼子として生まれたが、心は変わっていなかった。
こういった、理解できない感情の出所は、多分「元々の涼子」の感情が、今の涼子から時々顔を覗かせているのでなないだろうか。
これはどういうことなのだろう。そういえば、『涼太』の知らない記憶が時々頭に浮かんでくる。こうしていろいろと考えを巡らせると、やはり『涼子』が次第に表に出てきているのではないか。
完全に『涼子』が出てきたとき、今の自分――『涼太』はどうなってしまうんだろう。
「涼子、どうしたの?」
「えっ? ……あ、ええと」
突然声をかけられて驚いた。その様子を見た真知子は、
「そのぬいぐるみ、まだ捨てずに置いてよかったわ。部屋に持っていく?」
と言って、涼子の頭を撫でた。
「うん」
「それじゃ、今度は段ボールね。……ああ、これはいいわよ」
真知子がひと抱えくらいのあまり大きくない段ボール箱を奥から引っ張り出した。中には何も入っていない。
「確か前に中身を出したから、何も入ってなかったのよね。これで足りるの?」
「うん。じゃあ、早速作らなきゃ!」
涼子はぬいぐるみを段ボールの中に入れると、抱えて物置を出ようとした。
「待ちなさい、足元が見えないから危ないでしょ。段ボールはお母さんが持って降りるわ」
そう言って、涼子から段ボール箱を取り上げて、一階に降りていった。涼子もそれに続く。