葛藤
また前の世界と違う状態が目の前にある。そして涼子は、知世の命を救える可能性のある状態にある。これは嫌な過去を変えられるチャンスだった。
しかし涼子は思った。
――これはもしかすると、未来が変わってしまうんじゃないだろうか。
もちろん、涼子が女の子として生まれている時点で、すでにおかしい状態だ。しかしそれ以外は、特に前の世界との相違点は見受けられない。いや、表町での迷子は記憶にないことだ。だが、もちろんこれも、単に忘れているだけなのかもしれない。
前の世界で知世は死んでしまった。そして――多分、ここだ。用水路の中で倒れていた、と大人たちが話していたのを耳にした。ということは……知世はここで死ぬことになる。どういう経緯で命を落とすのかはわからないが。
しかし、それが正しい世界なのかもしれない。かもしれないが……。
でも涼子は、知世が死ぬことがわかっていて、そのまま何もせずにいられる訳がない。しかし、これまでと違って、もし知世をここから連れ出したとしたら、自らの手で未来を変えてしまうことになる。自分の意思の及ばないところでの変化は、止むを得ないこととしても、自分の意思で人の生死を変えてしまうのは、これが将来にどういう影響を及ぼしてしまうのか、このことにじわじわと恐怖を感じた。
「……あ、どうしたの? りょうちゃん」
知世はニコニコしながら振り向いた。その無邪気な笑顔に、このあと、残酷な現実が彼女の――知世の幼い命を押しつぶしていくのか。
――そんなの間違っている。あってはならないことだ。叔父さんや、叔母さんの悲しい顔なんて見たくない。でも……。
涼子は、様々な葛藤の中で知世の顔を見ることができなかった。何も答えることができず、その場にただ立ちすくんでいた。
――なあ、これでいいのか?
――ああ、いいはずさ。
――しかし、凄えなあ。こんなんで本当にできるの?
――そうだよ。
――お前は天才だなあ。どうやったらこんなのできるんだ?
――僕に不可能はないのさ。
増田は友人たちの賞賛に、得意な顔で答えた。
どのくらい時間が経ったのだろう。ずいぶん長い時間が経ったように感じるが、実際はほんの数十秒といったところなのだろう。
「——ともちゃん」
「なぁに?」
ニコニコと、相変わらずの笑顔で答える知世。
「——もう行こうよ」
「うん」
知世は素直に従った。涼子は知世の手を引くと、足早にその場を立ち去った。一刻も早く、危機から逃げ出すように。
あぜ道を少し歩いたところで、直樹に遭遇した。
「あれ、なおちゃん?」
「ふ、ふたりとも……こんなところで何してんの?」
直樹は少し焦ったように言った。
「向こうの川に、お魚がいたの。なおちゃんはどうしたの?」
「ぼ、ぼくは……まあ……」
何やら照れ臭そうに口ごもる直樹。
「あぁ、もしかして、ともちゃんのこと……」
「う、うるさいなあ! なんでもないっ」
直樹は腕を組んで顔を背けた。そして、「知らないやい!」と言って、走り去っていった。
「あのお兄ちゃん、どうしたの?」
知世が走っていった直樹を見て、涼子に聞いた。
「……ううん、なんでもない」
涼子は微笑むと、ふたたび知世の手を引いて歩き出した。
帰る途中、涼子の心の中は緊張感で一杯だった。何せ、前の世界になかったことを自らの手でやってしまったのだから。これがどういう風に、将来に影響を及ぼすのか想像がつかない。
また、SFの物語では、将来を変えようとしても、その時は変えられても、その後、やはり本来の形に戻ってしまう――結局、過去は変えられない、ということもある。今、この瞬間に知世を救うことができたとしても、この後にどうなるか……それを思うと、どうしても不安から逃れることができない。
涼子は、重い気持ちに押しつぶされそうなまま、周囲を警戒しながら帰っていった。
結局、知世は死ななかった。あれから数時間後、両親とともに笑顔で帰っていった。さらにその二、三時間後に、真知子に電話をかけてもらった。
「――もしもし。もう、涼子がどうしても、ともちゃんとお話ししたいって言ってねえ」
『りょうちゃん、知世と仲よくしてるから。ちょっと待って。呼んでくるわ』
「涼子、ほら。ここを持って、こっちを耳に当ててね。もうちょっとしたら、ともちゃんの声が聞こえるわ」
真知子は、受話器を涼子に渡して言った。藤崎家の電話は、ダイヤル式の黒電話だ。今はもう見ることはないが、この時代にはまだ普通にあった。以前から居間の片隅に置いてあったから、うちにあるのは知っているけど、これまで使ったことはない。
「う、うん」
涼子はたどたどしい感じで受話器を持つと、言われたように構えた。
『……もしもし』
「あ……も、もしもし。ともちゃん」
『なぁに、りょうちゃん』
「また、いっしょに遊ぼうね」
『うん、お人形さん遊びしたいんだ。あのね、ともよね、さっきクマさんのお人形かってもらったんだよ。かわいいんだ。こんど、いっしょに遊びにいくね』
「わあ、いいなあ。こんど、来たらみせてね」
『うん』
「じゃあね、ばいばい」
『ばいばぁい』
涼子は真知子の顔を見た。真知子は「じゃあ、代わってね」と言って、涼子から受話器を取り上げた。
「あ、もしもし……それでね、うん。そうそう……」電話の向こうも交代したらしく、真知子の長電話が始まったようだ。
あれから数日が過ぎた。知世が死んでしまったという話は聞かない。そんなことになれば、すぐに両親が話しているのが耳に入るだろうから、まだ健在であるようだ。
涼子は今後どうなっていくのか、しばらくの間、モヤモヤした気持ちのまま過ごすことになった。そんな涼子の様子を少し心配していた真知子だが、時とともに次第にいつもと変わらない様子になってきたのを見て安心した。一ヶ月ほど経って特に事件らしいこともなく、平穏に過ぎていく中で涼子も次第に関心が薄れていった。