政志伯父さんの家へ
七月二十九日、日曜日。とうとう新車が納車された。初めは八月上旬の納車という予定だったが、少し予定が早まり七月の終わり頃に納車となった。
この日は、一九八四年開催の「ロサンゼルスオリンピック」が開催された日、要するには開会式の日だ。時差の関係で、実際に開会式の時間は翌日の朝……日本では翌二十九日の朝だった。
敏行はオリンピックも楽しみのようだが、まずは新車だ。
ピカピカの新車トヨタ、カローラを前にニヤケ顔が戻らない敏行。
「スポーティーハンサム、素敵にニューカローラ!」
昨年のフルモデルチェンジの際に、テレビコマーシャルでよく聞かれたせいか、一時期、涼子が「すてぇきにぃ、あぁ……すてぇきにぃ、すてぇきにぃ——」とよく口ずさんでいた。翔太は、プールから出てくるコマーシャルの演出がお気に入りだった。
「おとうさん、カローラかっこいいね!」
翔太が車の周りをぐるぐる回って全周を見回しながら、嬉しそうに言った。この80系カローラは、直線基調のシャープなスタイルで、これまでのモデルよりスポーティでアニメロボット調の印象を受ける。翔太には受けがよかった。
「そうだろう。かっこいいだろう」
敏行は息子の頭を撫でながらにやけている。
「ねえ、お父さん。運転席に座っていい?」
涼子が運転席のドアを開けながら言った。
「いいけどな。ははは、涼子じゃ足が届かんだろう」
「別にいいもん。――よいしょ」
涼子が運転席に座った。案の定、涼子の身長では前がまともに見えなかった。
「ぼくものりたい! ねえ、お姉ちゃん、ぼくものりたい!」
「だめ! 私が先だから、翔太は後ろでも乗ったら?」
涼子は翔太など見向きもせず、ハンドルを握ったりウィンカーレバーを動かしたりしている。カーラジオのボタンなども押してみる。
翔太は、姉が興味津々であちこち触っている様が羨ましくてしょうがない。自分もいろいろ触ってみたい。
「イヤ! ぼくもうんてんしたい!」
「だぁめ! 翔太は後、後っ!」
「いやぁ、ぼくもぉ!」
途端に喧嘩が始まる。姉弟なんてそんなものだ。
「お前たち何やってるんだ。喧嘩をするな」
敏行はふたりの間に割り込んで喧嘩をやめさせた。
我が家にやってきた新車のカローラ。ボディカラーはもちろん白だ。シートにはレースのハーフカバーを装着している。背もたれ上部とヘッドレストをカバーしている、あのシートカバーだ。今ではタクシーくらいでしか見ることはないくらい珍しい装備だが、この頃の装着率は高かった。後部座席の背後にはティッシュボックスが置いてある。もちろんこれにもレースのカバーが装着済みだ。
涼子はこれを見て、どうしてこの時代の人はレースのシートカバーを付けたがるんだろう? と思った。
それに車だけではない。家でもあちこちにレースが目立つ。玄関の靴箱の上にも、今のタンスにも、台所の出入り口にも白いレースの「のれん」がある。泉田に住んでいたころは、珠のれんだった。木製の球などが数珠のように連なってぶら下げられた、あれである。結婚当時に購入したらしいが、次第に破損するなどして、引っ越しを機会にレースののれんに変えた。
そういえば、電話にもレースのカバーがしてある。よく考えてみると、家の中、多くのものがカバーを装着してある。汚れ対策なのか、装飾目的なのかはわからないが。
次の日曜日、家族みんなでドライブに行くことになった。倉敷市の方に向けて走行し、真知子の兄である内村政志宅を訪ねる。この春、家を建てたこともあり、初めて訪ねてみることになった。
内村政志の勧めで一泊していくことになり、荷物をトランクに積みこんでいく。そう沢山あるわけではないが、前の軽自動車に比べて、積みこめる量が違う。敏行は「いやはや、さすがは乗用車だ。軽四とは違う」と仕切りに感心していた。
涼子たちは、ピカピカの新車でドライブに出発した。翔太が助手席に乗りたいと駄々をこねたが、そこは母の席であり、子供は後部座席と敏行によって決められており、その要求は叶わなかった。
初めはちょっと不貞腐れていたが、真新しい新車のシートにワクワクしてきたようだ。
「翔太、永安橋だよ!」
涼子は、正面にピンク色の鉄橋を見て叫んだ。翔太は運転席の背もたれに後ろから抱きついて、「どこ? どこ!」とキョロキョロと探した。敏行が「前だ、前」と眼前に見えている橋を見るよう言った。
「えーあんばし! ねえ、お姉ちゃん、えーあんばしだよ!」
「だからそう言ってるじゃん。私が先に言ったの。これだからガキンチョは」
興奮して喋る弟に、涼子は鬱陶しさを感じて突き放した。
「ガキじゃないもん!」
「ガキだね。ガキ。翔太はガキ。ガキガキ翔太」
「ガキじゃなぁいっ!」
「こらっ! 喧嘩はよしなさい」
真知子が助手席から、子供たちの喧嘩をやめさせた。
永安橋を渡ると西大寺観音院が目の前に見える。すぐ曲がって天満屋ハピータウン西大寺店方面を進むと、ここを抜けて国道二号線バイパスへ向かう。今ではこのバイパスが国道二号線となっているが、この頃はまだバイパスだった。
バイパスから県道二十一号線、いわゆる児島線へ入る。その後はしばらく道なりに進んでいき、途中で児島方面に向かう。内村政志宅は、児島中心部から西よりの場所になる。児島駅が近い。が、この児島駅は、現在ある宇野線の「JR児島駅」ではなく、かつてこの辺りで運行していた、「下津井電鉄線」の児島駅だ。JR児島駅より北西にあった。その後、平成三年の下津井電鉄線の廃線とともに、児島駅も廃止されている。しかし五年ほど前に、昭和六十三年にJR児島駅が開業しているので、これと入れ替わるような形になっている。
下津井電鉄線はすでに廃線だが、下津井電鉄はバス事業などで現在でも存続している企業である。いわゆる「下電バス」だ。
内村宅は、児島駅からさらに山裾に入ったあたりになる。割と狭い道が多いが、問題なく進んでいく。
そして見えてくる、周辺の古い住宅とは違う、いかにも新しい新築の家が。
「まぁ、よく来たわねえ! 涼子ちゃん、翔くん、大きくなったわねえ!」
伯母の千恵子は、嬉しそうに涼子たちを歓迎した。温厚でいつも優しい伯母には、涼子や翔太も好印象を抱いていた。
真知子は義姉に簡単に挨拶すると、玄関内をキョロキョロと見回して感嘆した。
「義姉さん、やっぱり綺麗ねえ――羨ましいわ」
「もう、いやだわ。そりゃ建てたばっかりですもの。まだ――」
真知子と千恵子は、玄関の中で雑談を始めた。いつものことだが、よくそこまで話すことがあるものだ、と感心するくらい話が途切れない。敏行が玄関に入ってくると、またお決まりの挨拶と雑談が始まった。
が、いとこの友里恵や英彦が姿を現わすと、子供たちも盛り上がる。
「いらっしゃい、涼子ちゃん、翔くん。さあ、上がって。二階に私の部屋があるのよ。そこでおしゃべりしよ」
「こら、友里ちゃん。それはあとにしなさい」
早く自室を自慢したい友里恵を千恵子が遮った。
応接間に通された涼子たちは、そこにあるソファーに座らされた。フカフカのソファーに驚く涼子。そんな様子を笑顔で見ている、伯父の内村政志。涼子の母、真知子の兄である。敏行と同じで背が高く痩せ型の体型だ。分け目のクッキリした七三分けが、生真面目な伯父の性格をよく表している。
「ははは、敏行くん。元気そうで何よりだ。仕事はどうだ?」
「義兄さんこそ変わりないようで。仕事はボチボチだなあ。来週からしばらく忙しいから、休むんなら今のうちですねえ」
「そうか。最近はずっと暑いし、大変だろう――」
敏行と政志の会話がしばらく続く。このふたりは、実はかなり親しい。敏行はカメラが好きだが、政志もそうで、知り合って親しくなったのもカメラの話でだ。余談だが、ふたりともカメラの腕は……ちょっと厳しいかな。
積もる話を続けているとき、友里恵が応接間に入ってきて、涼子と翔太を二階に連れていってもいいかと聞いた。親の了解を得たので、涼子と翔太も興味津々で友里恵についていって二階に上がっていった。