昭和五十九年の夏休み
昭和五十九年、七月十九日。この日は一学期の最後の日であり、翌日から夏休みに入る。子供たちにとって、夏休みは楽しみにあふれた素晴らしい期間だ。みんなこの日を待っていた。
担任の斎藤は三年B組の生徒たちを前に、夏休みにあたっての注意事項などを話している。
「はぁい、みんな! 明日からは夏休みです。みんながとっても楽しみにしているのは先生もよくわかっています。でも、夏休みだからって、なにをやってもいいわけではありません。お父さん、お母さんの言うことをよく聞いて、楽しい夏休みにしてください。それから——登校日には、みんなの元気な笑顔が見れることを楽しみにしています」
生徒たちは「はぁい!」と元気よく返事をした。
夏休みは楽しみだが、その前に重要なものを受け取る必要がある。そう、通知表だ。
涼子は渡された通知表を見た。一部の項目以外は良好なので、恐る恐るはないが、そんな時、ふと前の席の中村貴子がニヤニヤしながら涼子に声をかけてきた。
「ねえ、涼子。つうしんぼ、どうだった? ねえ、どうだった?」
「えっと、ねえ。まあ、いつも通りかな?」
涼子は自分の通知表を中村貴子から見えないようにしつつ、控えめに答えた。
「えぇ、涼子っていつもせいせきいいじゃない。今回もいいのかあ。うらやましいわぁ」
「そんなことないって。大したことないよ」
「えぇ、ウソぉ、見せて見せて。わたしの見せたげるから!」
「ダァメ! 見せたげない」
貴子と涼子が、見せろ見せないで戯れているとき、教壇から注意の声が飛んできた。
「コラ、貴子ちゃん、涼子ちゃん。そういうのは終わってからにしなさい。帰りの会が終わらないと、みんな帰れないでしょ」
「はぁい」
涼子と中村貴子は、ちょっと気不味そうに返事した。
ガヤガヤとした教室から、生徒たちが次々に帰路についていく。涼子も、奈々子たち仲のいい同級生たちとワイワイ喋りながら帰り仕度をしている。そこに真壁理恵子が現れた。
涼子は、――来たか! と身構えた。理恵子は、成績に置いて涼子をライバル視していた。しかし、三年生になって仲よくなっている。
「藤崎さん!」
理恵子が一歩前に出ると、涼子は少し身を引いた。
「な、なんだろ――リエ」
「夏休みだけど……あ、遊びに行ってもいい……かな」
顔を真っ赤にして、たどたどしく言った。予想外の言葉に、思わずズッコケそうになった。
「へ? ……あ、ああ、そう、そうだね。も、もちろんいいよ。というか、一緒に遊ぼう!」
涼子は快諾した。そして、いつ頃遊びに行くか、だとか奈々子や、理恵子の友達たちも含めて、あれしよう、これやろう、と雑談に花を咲かせた。
そこに典子が余計なことを言った。
「ねえ、リエ。つうしんぼで涼子とくらべないの?」
「の、典子――それは」
涼子は慌ててごまかそうとした。理恵子がまた、面倒臭いことを言い出しても困るからだ。
しかし、理恵子の反応は涼子の予想外だった。
「もうわたし、三年生だもの。くらべてもしょうがないもん」
「リ、リエ……」
涼子はちょっと感動した。やっぱり成長するもんだな、と過去を振り返って感慨深かった。なにせ、通知表をもらうたびに「見せろ見せろ」だったのだ。
「ねえ、はやく帰って遊ぼ! 裕美の家に集まるんでしょ」
奈々子が言った。
「帰ろ! じゃあ、またあとでね」
「あ、ちょっとまってぇ」
夏休みの初日。朝から早速、ラジオ体操だ。場所は去年と同じく小学校の運動場。すでに起きていた翔太が、自分も行きたい、と駄々をこねたが、涼子は拒否してさっさと出かけてしまった。
涼子が家を出てすぐ、ご近所の曽我隼人とばったり出会ってしまった。隼人はこれから中学校へ、サッカー部の朝練に向かうところだった。
跨るジュニアスポーツ自転車の二灯式フロントライトが、陽を浴びて輝いていた。中学生になった時に買ってもらったばかりの新車だ。
ジュニアスポーツ自転車とは、主に昭和四、五十年代頃に小、中学生の間で流行っていた自転車だ。「少年用スポーツサイクル」「スーパーカー自転車」など、様々な呼び方がある。
基本的には、ロードバイク風のスポーティなフレームにセミドロップハンドル、自動車のような変速機、スポーツカーのようなシャープなヘッドライト、テールランプなどが特徴だ。特に自動車のシフトレバーのような六段切り替え変速機は、レバーを動かすと何段に合わせてあるか、表示窓から確認することができ、そのメカメカしさから子供の興味を惹いた。ピカピカと電動で光らせることができるテールランプなども、未来感満載で当時の小、中学生を夢中にさせた。
各社とも競争の激しさから、その進化具合もすごかったようだが、次第にこういったゴテゴテした装飾が好まれなくなり人気は収束していった。
平成になった頃にはすでに絶滅気味だったので、この頃にはもう人気は衰退していたものと思われる。隼人が買ってもらったりしている通り、この西大寺のような田舎ではまだ人気は持続していた。
「よう、涼子。どこ行くんだ?」
「あ、隼人。おはよ! ラジオ体操だよ」
涼子はそう言って、首からぶら下げているカードを見せた。
「ああ、ラジオ体操か。そういや懐かしいよな。ガキどもはあんなもんよくやるもんだ」
「懐かしいって、隼人も去年は行ったでしょ。それに隼人だってガキじゃん」
中学生になった途端、小学生をやたらと下に見るのはなんだろうか、と思った。しかし、所詮はまだ子供だから、そういう優越感が出てくるのだろうと考えた。
「なんだぁ、お前と一緒にすんなよ。俺はもう中学生なんだぜ」
「中学生だからって偉そうに。なんだろうねえ、すぐ調子に乗ってさ。そういうところがガキなんだよね」
「うるせえな。まあ、それはいいとして。おっと、もう行かないと遅れる」
隼人は自転車のペダルを踏み込むと、涼子に「じゃあな。行ってくるぜ」と言った。涼子も、走り出す隼人の背中に向けて「行ってらっしゃい」と言った。
ふいに、家の方から母の声がした。
「あら、涼子。まだ行ってなかったの? もうラジオ体操始まるわよ」
それを聞いてハッとした。そうだ、ラジオ体操に行かないと。
「おっと、いけない。じゃあ、行ってきまぁす!」
涼子は走り出した。慌てて駆け出す娘に向かって「車に気をつけるのよ」と声をかけた。
ラジオ体操の帰り道、友達の太田裕美とお喋りしながら歩いている。
「ねえ、涼子はどこかつれて行ってくれるの?」
「うん。来週、いとこの家に遊びに行くんだ」
「いとこの家かぁ。うちもおばあちゃんちに行くのよ。それで海水よくに行くんだ」
「海水浴かあ、私も連れてってもらお。でも、お父さんが忙しいからなあ」
「つれてってもらえるといいね。――あ、それじゃすぐ遊びに行くね。ちょっと待ってて」
裕美は家の近くまで来ると、そう言って涼子と別れた。