涼子、とばっちり
教室は騒然としていた。なんせ同級生同士でキスをしたなんて噂が出たものだから、みんな興味津々である。小学三年生でキスなんて、とんでもない話だった。まだまだ異性を意識し、男女の交際などという年齢ではない。
当然のように、同級生たちはふたりのことをからかう。しかしこれに意を唱える者がいる。当の及川悟と富岡絵美子だ。
「僕はそんなことしてないよ」
困惑気味にみんなに言う。しかし興味津々な連中には、そんな言葉に納得などしない。
「ウソつくなよ。ひでちゃんが言ってたぞ」
「そうだ。ひでちゃんが言った」
この「ひでちゃん」と言うのは、同じ教室の同級生、野崎秀利のことだ。お調子者で口が軽く、同級生の間で噂になるいくつかは、この野崎が発信源だ。男子の間では割と人気者だったりするが、女子からはあまりよく思われていない。
「なあ、ひでちゃん。悟と富岡絵美子がキスしたって言ったよな?」
誰かが野崎に問いただした。野崎は得意満面な顔で、
「ああ、言ったぜ。オレ確かに聞いたんだ。悟と富岡絵美子がキスしたって」
と言った。
「ひでちゃん、そんなの誰に聞いたんだい?」
悟は野崎に言った。悟は相当に迷惑を感じているはずだが、極めて冷静に尋ねた。やっぱり意識は大人である。
「ヨッちゃんだよ。あれ、そういや今日はヨッちゃんいないな?」
野崎がキョロキョロ見回すと、同級生のひとりが言った。
「今日休んだって。風邪をひいたって、ヨッちゃんのおかあさんから言われたぜ」
ちなみに、ヨッちゃんというのは東野のことだ。たのきんトリオの野村義男と同じあだ名であることが気に入っているようだ。当時のトップアイドルたちへの憧れが強い東野は、トシちゃんやマッチにも憧れているようだ。
「ヨッちゃんか……そんな嘘、どこで聞いたんだろう?」
「ヨッちゃんがウソついてる? ヨッちゃんは嘘つかないよ。悟、決めつけるなよ!」
東野と仲のいい男子が反論した。詰め寄られたが、本当にやっていない悟からしたら、嘘で間違いない。
「でも、僕は本当にそんなことしてないって」
3Bの教室では相当に揉めていた。が、チャイムがなって、これから朝の会が始まる。担任の斎藤がやってくる足音が聞こえた。みんなすぐに自分の席に戻っていく。
一時間目の授業が終わると、ふたたび教室は騒然となる。女子の間でも噂で持ちきりだ。当の富岡絵美子は、困惑した表情であれこれ聞いてくる同級生の女子たちに対応しているが、やっぱり絵美子も否定していた。
そんな中、ひとり退屈そうに自分の席で、騒動を見物している男子がいた。それは朝倉隆之、今年やって来たばかりの転校生であり、未来を元に戻すためにやってきた、悟の仲間である。
その朝倉に、近くにいた男子が声をかけた。
「みんな、いろいろ言ってるね」
「ふん、馬鹿馬鹿しい。そんなどうでもいいことでよく騒げるな」
朝倉隆之は、まったく興味がないらしく、そっけない態度だ。彼の頭の中は未来のことでいっぱいなのだろう。そんな日常のことなど本当にどうでもいいのかもしれない。
そんな朝倉の態度が癇に障った男子がいた。
「なんだと、おい! 朝倉おまえ、ちょうしにのるなよ!」
宇野毅が朝倉に詰め寄った。宇野はちょっと悪ぶった印象のある男子で、同じように悪に憧れている風である、似た者同士の羽多野や武藤と仲がいい。
「やめろよ、何やってるんだ」
優等生の瀬田市郎が割って入った。
「うるせえ!」
喧嘩が始まりそうな雰囲気の中、ふいにチャイムが鳴った。険悪な雰囲気が一気に鎮まり、それぞれ自分の席に戻っていった。
その日は一日中、キスの話が話題の中心だった。絵美子に対して男子がからかうと、絵美子の友達が庇い、その男子に怒鳴る。悟もこのせいで、これまで誰とも一定以上の親しい関係にあったが、その友好度が明らかに下がってしまったように感じられた。
下校時に、悟が涼子たちと一緒に帰ろうとすると、それを「キス、キス! 悟ちゃん、今度は誰とキスするのぉ?」などと、露骨にからかわれ辟易した。
涼子は悟をからかう男子をぶん殴ってやろうかと息巻いたが、「今度は藤崎涼子とキスするのかぁ!」と余計に増長させてしまい、どうすることもできず歯痒かった。
「コイビトドオシ、コイビトドオシ! リョーコチャン、ブチュー!」
からかうことをやめない男子が、涼子も攻撃対象にした。涼子は怒って、その男子を追いかけ回す。ひとりが涼子に蹴飛ばされ、膝を擦りむいて半泣きになる。しかし他の男子が執拗に涼子をからかい続けた。
ここまでくると、さすがに奈々子たちも怒りが爆発し、数人の女子が涼子に加勢して一斉にその男子を怒鳴って追い払った。
「まったく、碌でもない! なんなの、あのバカ男子は!」
騒動が収まっても、涼子の怒りが収まらない。
「ごめんね、涼子ちゃん。どうしてこんな嘘が噂になってるのか……」
「悟くんはいいんだよ。悪いのは、あのアホ男子! それから野崎だし!」
「そうよ! わたしも及川くんの言うことのほうが正しいと思うよ。野崎がわるい!」
涼子に続いて、裕美も悟を擁護した。そしてそれに続いて、一緒にいた奈々子や典子も「野崎がわるい」と次々に同調した。
そのあと下校中の間、ずっと野崎の悪口合戦に終始していた。しかし野崎は東野に聞いた話らしいから、それが本当なら諸悪の根源は東野のはずだが。
悟は帰ってから、友達の家に遊びに行った。その友達は、朝倉隆之だ。帰る方向が反対なのでちょっと遠いが、自転車ならそうでもない。
「悟、災難だな」
朝倉はあまり表情を変えず、挨拶がわりとでもいうように言った。
「まったく。なんだろうね、この噂話は」
悟は困惑した表情でつぶやいた。
「まあ、放っておけ。ガキどもの噂など放っておけばそのうち収まる。あれこれ動けば動くほど噂は消えないぞ。火に油を注ぐようなものだ」
「まあ、そうだけどね。でも、困ったもんだ」
悟は苦笑いをした。それと入れ替わるように、朝倉が言った。
「そういえば、北川とはまだ親しくなれないのか?」
「駄目だね。教室が違うのもあるけど、もう赤井くんに取って代わるのは無理そうだ」
悟はちょっと諦め顔で言った。
北川がどうというのは、本来、悟と北川は一番の親友になるはずだった。しかし、一年生のときプールで赤井が溺れかけたのを助けたのをきっかけに、北川は赤井と仲よくなった。これは、元の世界――本当の未来とは違う状態だった。
本来ならこのプールの事件は特にどうということもなく、その後、悟が転校してきて、ある事件をきっかけに悟と北川が仲よくなるはずだった。本来なら去年の秋頃にあったはずで、この事件も起こらず仕舞いだった。
「もっと因果を把握していればよかったが……」
「済んだことはしょうがないさ。それにしても、この富岡さんとの事件も……記憶にない事件だよね」
「ああ、因果を踏めなかった歪みが――目に見えて現れ始めた」
「この先どうなるのやら。少しずつ読めなくなってきたね。大丈夫かな、ちょっと不安を感じるね」
「厳しいが、しかし。まだ問題ないはずだ。まだな」
朝倉は厳しい顔をして、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。