ディーラーにて
翌日、敏行は服装に迷っていた。どんな服装で行ったらいいか迷っているようだ。
「どうせなら……やっぱり背広で行った方がいいかな?」
「大げさじゃないの? そんなに見栄を張ってもしょうがないわ」
「でもなあ。あんまりくだけた格好じゃあなあ。ネクタイまでは……まあ、カッターだけにしとくか……」
「そんなに悩むこともないでしょ」
敏行は初めて新車を購入するということで、かなり体裁にこだわっているようだった。そこまで気にするようなことはないが、敏行は、自動車のような高額な買い物をする際には、それなりの格好をして、体裁を整えておかないと低く見られると考えていた。
ちなみに、先ほどの台詞で「カッター」という言葉が出てきたが、これはカッターシャツのことで、いわゆる「ワイシャツ」のことだ。岡山県ではカッターと呼ばれる場合が多い。
涼子と翔太も、普段着ているこのではなく、よそ行きのちょっといい服を着せられた。とは言っても、別にフォーマルなものではなく、いつもの服より少しシックなデザインのものだった。
「涼子、お母さんは?」
「まだ、お化粧してるよ」
「またか……まったく、いつも遅いな」
外出時のいつもの光景だった。真知子は入念な化粧と、気合いの入ったよそ行きの服で固めていた。敏行は結局、普段とそう変わらない、ワイシャツとスラックスで行くことしたようだ。
一家はトヨタカローラ岡山岡南店に向かった。ここは敏行の知人が紹介してくれた店で、仕事上の付き合いもあり、敏行はここで買うことに決めていた。
車で三十分程度で到着する。外にいた店のスタッフが、藤崎一家の車を駐車場に誘導し、その後店内に案内された。
「これはどうも初めまして、営業の臼井と申します。今回、藤崎さんの担当をさせていただくことになりました。どうぞよろしくお願い致します!」
名刺を差し出し、臼井と名乗った担当の営業は、四十代半ばくらいかと思われる、小柄な男性だった。濃い顔立ちに、常にニコニコと笑顔を崩さない、非常に温厚な印象だ。
「ああどうも、こちらこそ――」
敏行は臼井の話を聞いている。紹介してくれた知人の名前が出てきたが、涼子は聞き覚えがなかった。
臼井は、カローラのカタログをテーブルの上に広げると、あれこれ車についての紹介を始めた。
「このカローラはですね、今モデルで初めて前輪駆動を採用したんです。そのため運転しやすいですし、室内も広く、奥様やお子様も大変満足いただけると自信を持って勧められますよ――」
「すごいな、いやぁ――やっぱり新しい車はすごいですな。ずっとあのボロを乗ってたもんだから……ははは」
「浦島太郎みたいな感じですか、ははは。車は進化のスピードも速いですからね」
敏行と臼井は色々と話しているが、真知子はチンプンカンプンのようで、臼井の説明に「はあ――そうですか――まあ――すごいですね」など、当たり障りのないことを時々つぶやいていた。
涼子たちは一緒にテーブル席に座って敏行と臼井の話が終わるのを待っていた。すると、店の若い女性がやってきて、「暑いですね。冷たいものをどうぞ」と言って、敏行と真知子にアイスコーヒーを持ってきた。そして「お子様には、オレンジジュースを」と言って、オレンジジュースの注がれた大きめのグラスを涼子と翔太の前に置いていった。
グラスには大きな氷が浮いており、そこにカラフルな色のストローが刺さっていた。しかもそれは途中に蛇腹のついた曲がるストローだ。
涼子たちにとって、透明グラスに曲がるストローはステータスだった。これがなんともお洒落なふうに見えて、友達の間でとても憧れていた。友達の村上奈々子や数人の同級生の女の子たちは、このストローで南国の優雅なバカンスを演じながらジュースを飲むことが流行っていた。涼子も同じことをしていたことがある。
「うぅん、トロピカァル」
涼子は気取った面持ちでストローを吸った。甘いオレンジジュースが口の中に入ってくる。ズルズルと、ハワイアンな気分で啜る。ご機嫌である。
近くのテーブルにいた客の若奥様が涼子を見て、「可愛いわねぇ」とクスクス笑った。
それに気がついた真知子は、「涼子、あんまり品のない飲み方しないの。静かに飲みなさい」と娘を注意した。
「えぇ……」
やむなく普通に飲まざるを得なくなった。はぁ……せっかく美味しいオレンジジュースなのに。
ちょっと退屈になったので、涼子は翔太と一緒に、屋内に展示車を見に行った。
展示してあったのは「カローラll」で、敏行の買おうとしているカローラセダンより少し小型の車だ。元々はターセルという、今でいうアクアやヴィッツくらいか、それより少し大きい感じだろうか。このターセルは、セダンとハッチバックがあり、カローラの下位モデル的な位置にあった。一度カローラ店から販売終了した後、カローラllの名前で復活販売された。ちなみにこのカローラllは、ハッチバックのみである。
「かっこいいね。なんていう車かな?」
涼子は車の周囲をキョロキョロと見回して、展示車を観察した。ふいに翔太が話しかけてきた。
「おとうさん、このくるまかうの?」
「うぅん、どうなんだろうね? これ、カローラなのかな?」
ふと、女性がそばにきて、優しく教えてくれた。店の従業員のようだ。
「この車はね、カローラllっていうのよ」
「カローラツー? ふぅん。なんでツーなんですか?」
「あの外にある車がカローラっていうんだけど、その二番目の車なの。あの外の方が一番目なのよ」
女性の指差した外の車は、カローラのセダンだった。隣にはカローラレビンとセリカが並んでいる。
「じゃあ、カローラワンなんですか?」
「うぅん、車の名前ではそうなっていないけど、要するにそういうことねぇ」
女性店員は、どう言ったものかと考えつつも、子供相手だし、あまり難しく考える必要はないと思った。
涼子は、カローラllについては聞き覚えがあるが、どんな車かはよく知らなかった。あまり興味もなかったから、聞き込むこともなかった。
「涼子、翔太。何をしているの?」
真知子がやってきた。これから試乗をするから、一緒に来るように言った。
「お母さん、この車ってカローラツーって言うんだよ」
涼子は真知子に展示車について話そうとした。が、真知子は興味がないようだった。
「ふぅん。お母さん、車がどうとかよくわからないわ。ほら、ふたりとも外でお父さんが呼んでるわよ。さあ、はやく行きましょ」