従姉妹
一九七九年、六月二十二日。この日、涼子の記憶はあやふやだ。
とても重大な……とてもショッキングな出来事があったにもかかわらず。いやもちろん、幼い頃の記憶なんてあやふやなものだ。そんなもの当たり前だろう、と思う人も多いと思う。
しかし、涼子の記憶の扉は固く閉じられて、心の奥底にしまいこまれていた。
「りょうちゃぁん!」
知世は涼子の姿を見るや、一目散に走り寄ってきて抱きついた。
「ともちゃん、こんにちはぁ」
涼子も笑顔で知世に答えた。
藤崎知世は、涼子の父方の方のいとこだ。敏行の弟である、藤崎哲也の娘になる。涼子よりひとつ年下だが、近い年齢であることに加えて、住んでいるのが岡山市の西端にある妹尾であり、涼子の家とは数キロ範囲内の距離であったため、時折家族で遊びにやってきていた。
「こらこら、知ちゃん。涼子ちゃんみたいに、ご挨拶しなさい」
そう言うのは、知世の母である弘美叔母さんである。
「うん! りょうちゃん、こんにちは!」
知世は常に笑顔だ。とても明るくよく喋る。そしてよく笑う。父親である哲也も、いつもニコニコしてお喋りな性格なので、娘にもそういう性質はよく受け継がれているのだろう。
「ねえ、りょうちゃん。これ!」
知世はそう言って、手に持っているフサフサを涼子の目の前に出した。それは、毛むくじゃらの細長いもので先端に糸がつけられている。うねうねと、まるで生き物のように動く小さなおもちゃだ。
「あ、モーラー?」
「うん、モーラー!」
モーラーとは、一九七五年に発売された玩具で、毛の生えた小さなヘビみたいな姿である。口の先が細長くなっており、そこにテグスがつけられている。このテグスを引っ張ることで、さも生きているかのごとくウネウネと這い回るのである。棒状のものに巻きつくように動かせたり、ただ紐で引っ張っているだけなのに、とても生き物らしく動く不思議なおもちゃだ。発売当初、爆発的にヒットしたが、その人気は落ち着くものの、今だに発売されているロングセラー商品でもある。
知世は、テグスを引っ張ったりして、モーラーをウネウネと器用に動かした。まだ三歳の幼児にも関わらず、意外とうまく動かしている。
「わあ、ともちゃん、涼子にも貸して」
「うん」
涼子はモーラーを手に取ると、紐をあれこれ動かしてみた。涼子も売っているのを見たことがあるし、前の世界では実際に遊んだことがある。たださほどハマった訳ではなく、そのうち別のものに興味が移って忘れていった。
「翔くん、こっちにおいで」
叔父の哲也は、よちよち這う翔太に笑顔で声をかけた。それに反応して、ゆっくりと哲也に近づく翔太。そばまで来た翔太を抱きかかえて、自分の膝に乗せると、兄の敏行に「やっぱり男の子はいいなあ」と言った。
「ふたり目はまだなのか?」
敏行が言った。
「そう簡単にできるもんじゃないよ。それにふたり目ができたって、男の子とは限らないしなあ」
哲也は翔太をあやしながら、つぶやいた。哲也の子供は、まだ知世だけだ。妻とは、そろそろ知世に兄弟を、とがんばっているものの、まあそう簡単にいくものでもない。
「哲也、仕事はどうだ?」
「まあまあかな。あんまり大きな会社じゃあないけど、業績は安定してるからなあ。でも給料が安いんだよ」
哲也の会社は、自動車部品の製造工場である。旋盤やフライス盤といった、金属を切削加工する機械を使って加工し製造する。県内に二ヶ所工場があって、哲也が働いているのは、自宅から二、三キロのところにある岡山工場である。全従業員はおよそ四、五十人くらいで敏行の会社と比べてもそんなに規模は変わらない。
「そりゃあいいじゃないか。安定してるのが一番だぜ」
「まあ、そうなんだけどな。子供の教育費もだんだん増えていくだろうし、なかなか辛いよ」
「そこはお前の頑張り次第じゃないか。俺だって子供ふたりでやっていけてるんだ。まあ、頑張れよ!」
敏行はそう言って弟の背中を叩いた。
「ともちゃん、遊びにいこ」
「うん!」
知世は笑顔で答えた。居間の方から、真知子がやってくる。
「どこへいくの?」
「外であそぶの」
「ともちゃんは、この辺のことよく知らないんだから、遠くに行っちゃダメよ」
「うん」
「知世、涼子ちゃんから離れちゃだめよ」
知世の母も顔を出して、娘に忠告した。
「うん!」
元気よく返事する知世。ふたりは早速靴を履くと、玄関から外に飛びした。
つい数日前に梅雨入りしたが、今日はよく晴れていて、少し暑いと感じるくらいの気温である。しかし、元気一杯の知世には、そんな程度の暑さなどなんともないようだ。
「ともちゃん、公園にいこうよ」
「公園? いく!」
涼子は知世の手を繋いで、近所にある公園に向かった。
公園は歩いて二、三分のところにある。敷地面積はあまり広くなく、遊具もブランコ、滑り台、シーソー、鉄棒、砂場と、公園の基本のみを忠実に用意したような公園だ。西側面に出入り口があって、北と南は民家が建っている。東側はフェンスがあって、その向こうは田んぼだ。
近隣の子供が何人かいるかもしれないと思ったが、行ってみると誰もいなかった。入り口付近の道を、向こうからゆっくり歩いてくる六十代くらいのおばあさんがいるだけである。
おばあさんが近づくと、知世はおばあさんに向かって、笑顔で「こんにちは!」と挨拶した。
「こんにちは、いい子ねえ」
おばあさんは、微笑みながら答えた。知世は、公園に入りながら、「じゃあね、おばあちゃん!」と言った。おばあさんは、知世に手を振りながら、そのまま歩いて行った。
涼子は知世はさすがだなあ、と思った。子供なんだから、そのくらいの方がいいのかも、とも思った。でも、なかなか知らない人に挨拶なんてできないなあ、とも考えた。