昭和五十九年一月一日、元旦
「あけまして、おめでとぅございます!」
涼子は元気よく挨拶した。
「明けましておめでとう。涼子、おせちを運んで」
「はぁい」
涼子は母に指示され、台所から居間の食卓に、おせち料理を運んだ。
年が明け、昭和五十九年になった。西暦では一九八四年である。
居間の食卓には、真知子の手作りおせち料理が並ぶ。近年では自分で作る場合は少ないのではないかと思うが、真知子はすべて自ら料理している。当然プロの調理にはかなわないが、それでも主婦の料理として十分に美味しいものができていた。
とはいえ、実はご近所の曽我家のお母さん――洋子や隼人の母親――がとても料理好きな上に上手なため、真知子はいろいろと教えてもらったりして作っていたのだった。
「ほう、うまそうじゃないか。やっぱり正月はおせちだな」
敏行は早速、黒豆をひとつまみして口に放り込んだ。翔太がそれを真似して黒豆を指でつかんで食べた。あまり美味しくなかったらしく、表情が歪んだ。
「こら、つまみ食いはダメよ。みんな揃ってから!」
お雑煮を持ってきた真知子が敏行と翔太を咎めた。
「はっはっは、ちょっとくらいいいだろ。……おぉい、涼子。ビール持ってきてくれ!」
「はぁい!」
台所の方から涼子の返事がした。
「いただきます」
家族四人みんなで手を合わせて食事を始める。敏行は気にしないが、意外と躾に厳しい真知子が常に子供たちに言っている。
今日は新年最初の食事なので、特に厳しかった。
藤崎家のおせち料理は重箱には入れていない。それぞれ個別に皿に盛っている。別に何か風習があるわけではなく、家に重箱を持っていないだけだった。新婚の頃、買おうとしていたこともあったが、いざ店で見ると思ったより高くてその時は買わなかったが、そのまま忘れて結局買わずに今に至っている。
「かまぼこ、もぉらいっ!」
涼子は紅白のかまぼこを箸でつかむと、さっと口に入れた。
「うん、美味しい!」
「涼子、育ち盛りなんだからたくさん食べろよ。ほら、これも食べろ。食べんと大きくなれんぞ」
敏行はブリや数の子を勧めてくる。
「うん、数の子食べる」
涼子は今度は数の子を取った。
「これもうまいぞ、昆布巻きも食べてみろ」
敏行はやたらと子供たちに「食べろ、食べろ」と勧めてくる。しかし自分はビールばっかり飲んで、それほど食べていない。
「おい、お母さん、ビールがないぞ」
「はいはい」
敏行に言われて、真知子は冷蔵庫にビールを取りに行った。
「あ、翔太!」
涼子はふと、卵焼きが残りひとつになっていることに気がついた。そういえばちょっと前に翔太が卵焼きを食べているのを見かけたが、また食べている。
「お父さん! 翔太が卵焼き全部食べようとしてる!」
「ぜんぶじゃないもん!」
翔太は怒られると思って言い訳しようとしたが、もう残りひと切れだけだった。
「嘘ばっかり! もうひとつしかないじゃないの!」
「そんなことないもん!」
「私も食べてないし、お父さんもお母さんも食べてないのに! 翔太しか食べてないじゃん」
「ちがうもん!」
「違わない!」
相変わらず責める涼子に、半泣きの翔太。目の前でチビふたりが食べた食べないだの喚いているのに、思わずため息が出た。
「こらこら、喧嘩をするな。たたが卵焼きくらいで何をやってんだ」
「だって翔太ったら、すぐ自分の好きなものばっかり食べるんだから。放っといたら絶対全部食べるよ」
涼子は割と物事をストレートに主張する。この時も弟の不正を主張し、父に怒ってもらうべく訴えた。
「たべないもん!」
「食べるって!」
「だから喧嘩はやめろと言っとるだろうが! 正月から騒々しい」
敏行の言葉に怒気が含まれ出したので、ふたりは黙った。
そんな時にビールを持って真知子が戻ってきた。
「どうしたの? さっきから大きな声を出して——」
すかさず今度は母に訴える。
「お母さん、翔太が卵焼きを全部食べようとしてる!」
「してないもん!」
「してる!」
真知子もため息が出た。兄弟喧嘩はどこの家でもありがちで、自分自身も兄と似たようなことをよくやったものだ。しかし、いざ親の立場で子供達の喧嘩がこうして目の前で繰り広げられると、本当にため息が出る。
「やめなさいっ! 卵焼きはまだあるから持ってくるわ」
「そうなの?」
「たくさん作ってるからお皿に全部のらなかったのよ」
真知子はかなり多めに卵焼きを作っていたようだ。翔太の大好物でもあるし、割合作りやすい料理だったので、いつも多めに作っている。それは、藤崎家においては、作るおせちの種類があまり多くないので、卵焼きのような料理は多めに作って補うつもりもあったようだ。
「たまごやきあるの!」
翔太が色めき立つ。
「まだ食べる気? 翔太はもうダメ! 全部食べるし!」
「えぇ……でもぉ」
「たくさん作ってるから翔太も食べられるわよ」
「わぁ! やった!」
「お母さん、翔太ばっかり贔屓したらだめだよ。すぐ調子にのるし」
涼子には不満だった。ここは余っても翔太には食べさせない方がいいと思っているからだ。しかし、両親はそんなことはどうでもいいようで、涼子に構うことなく大皿に本当にたくさんのせて持ってきた。
「ほら、たくさんあるって言ったでしょ。喧嘩せずに食べなさい」
「涼子、そろそろ来てるだろうから、年賀状を取ってきて」
「はぁい」
涼子は玄関前の郵便受けに年賀状を取りに行った。
「ぼくも!」
部屋を出て行く姉の後ろを追いかけるように、翔太も部屋を飛び出した。玄関でサンダルを履こうとしていた時に翔太がやってきたので、「外は寒いから居間で待ってて」と涼子は言った。
「ぼくもねんがじょおもってくる!」
翔太はよく姉の真似をしたがる。しかし、涼子はそれをあまり面白く思っていないようだ。真似されるのを不快に感じるようで、気がつくと大抵やめさせようとしている。
「寒いよ。風邪ひくよ。翔太なんて、寒すぎて泣いちゃうんだから」
「なかないもん!」
「ふぅん――」
涼子は、翔太がムキになったその隙をついて、素早く玄関を開けて外に出て、すぐに閉めた。閉めた後、戸を押さえて開かないようにしたらしく、磨りガラスに涼子の姿がぼやけて映る。
「あっ!」
翔太は慌てて靴も履かずに戸に駆け寄ると、戸を開けようとした。しかし涼子が押さえているので開かない。
「おねえちゃん! おねえちゃあん!」
一生懸命開けようとするが全然開かない。最後には半泣きになって、諦めて部屋に戻っていった。涼子はそれを確認すると郵便受けの蓋を開けて、中に入っている年賀状の束を取り出した。
――結構たくさんあるなあ。私のはどれかな?
束の名から数枚を見てみると、悟の年賀状を発見した。
「あ、悟くんだ。どれどれ……わあ、意外と上手だ」
悟の年賀状は、裏にイラストが描かれていた。ペンで手書きをしている。ネズミが駒を回しているイラストだが、多分既存のイラストを模写したのだろう。
他にも何かないか探そうとしたら、家の中から「涼子、何をしてるの!」という真知子の声が聞こえた。
「はぁい!」
涼子はまずいと思ってすぐに家に入った。
そして居間に戻ってくると、翔太を追い返したことを真知子に怒られた。
――翔太ったら、すぐ告げ口するんだから!