お父さん!
父が無事家に帰ってこれるのか、それが涼子の心配だった。
前の世界では敏行は帰ってこなかった。この人生においても、同じことが起こるのか? 普通に考えるならば、やはり同じ運命に進んでいくことになるのだろう。しかしこれまで、自分の記憶している出来事とは違うことがいくつか起きている。
まず自分自身が、女の子として誕生したこと。これについては、悟がタイムトラベルがどうとかいう話で、何か細工をしたと言っている。そして、この女の子の姿が本来の姿だとも言った。
小さい時、いとこの知世が亡くならなかったこと。自分の記憶では、知世は短い人生だったはず。
しかし、実際には生きている。それだけではない。実はこの秋、知世に妹が誕生していた。涼子はこの知世の妹が、どんな人物になっていくのかまったく知らない。
それもそのはず、前の世界においては、知世の妹は存在しない。生まれていなかったのだ。
幼稚園の頃に仲のよかった聡美がいない。代わりに悟という男の子がいる。
悟は、未来から意識を維持したまま、自身の生まれた時代に戻ってきた。その目的は、未来で悪事を働く「世界再生会議」なる連中に都合のいい未来に変えられてしまっていたため、それを本来の未来に戻すためだという。
しかしまだ聡美がいない理由はわからない。
これだけ違うことがあっても、父、敏行は亡くなってしまう運命を変えられないのか。いや、これまでのことを考えると変えられるに違いない。
しかし、自分の手でそれをするのは難しい。ひとりではとても行けるはずもない場所で起こる事故を防ぐなんて無理だ。事前にわかっていれば、その時に何かやって出発を遅らせるなどできたかもしれないが、もう遅い。
それに、そんなことで本当に運命を変えられるかはわからない。
悟に話て助けてもらうという選択肢もあっただろう。しかしもう時間がない。
無力なひとりの小さな女の子には、もはや祈るしかない。
午後八時を過ぎた。布団の中でじっと目を瞑っているが、眠気は一向にこない。隣の布団では、翔太がぐっすり眠っている。
ふとこの後、父が帰宅して、それを聞いた涼子と翔太は一目散に玄関に飛んでいき、父が買ってきたお土産に飛びついた場面が頭に浮かんだ。
それはとてもリアルで、ただの想像とは思えなかった。自分の頭の中に埋もれていた過去の記憶を掘り出してみたような、とてもリアルな光景だった。
涼子と翔太は、お土産の包みを開けて、それが津山の銘菓「いちま」が出てきた。翔太は早速「食べたい、食べたい」の大合唱で、涼子も食べたいと言っている。真知子は夜中にお菓子など論外! と切り捨て、泣きわめく翔太。
結局、食べさせてはくれず、翌日までお預けだったことも頭に浮かんだ。
……涼子は前から気になってはいた。自分の中に別の自分がいるんじゃないか、ということに。
以前から時々、知らない記憶を思い出すことがあった。どれも「涼太」ではなく、「涼子」のことだった。大人になった後のことまであり、どういうことなんだろう、と考えていた。
しかし今年の春、悟が転校してきて、自分は変えられてしまった未来を元に戻すために未来からやってきた、と言っていた。同時に、涼子は今の女の子である状態が、本来の状態だとも言っていた。それを考えると、多分その知らない記憶は、「本来の涼子」の記憶なのだろう。
しかし、女の子の涼子は二種類になっている。その「本来の涼子」と、「現在の涼子」だ。
現在の涼子は、本来の涼子とは違う。現在の涼子には「涼太だった時の記憶」を持っている。
最近、よく「本来の涼子」の記憶が浮き上がってくることが増えた。
これが何を意味するのか――涼子はそれを考えたくはなかった。それは自分にとって、よいことではなさそうだったからだ。
そんなことを色々と考えているうちに、涼子の意識も途切れ初めてきた。眠くなってきたのだ。
ふいにガラガラと玄関の戸を開ける音がして、「ただいま」という声が聞こえた。
よく知った声だ。そう、聞き違えることなどない……。
「はぁい」
真知子はすぐに、夫の声だと気がついて早速玄関に向かったようだ。廊下を歩いていく音がする。
――お、お父さんが! お父さんが帰ってきた!
涼子はすっかり眠気など消えて、ちゃんと父が帰ってきたことに飛び起きそうになった。心臓が異様なほどに大きく震え、胸から飛び出しそうなほどだった。
居ても立っても居られなくなり、布団から出るとすぐに部屋を出て玄関に向かった。
——奇跡が、奇跡が起こった!
廊下を曲がるとすぐに玄関だ。玄関には、何事かとこちらを見る真知子と、そして寒そうな顔をして靴を脱いでいる敏行の姿があった。頭や肩に白いものが見える。外はまだ雪のようだ。
「お、お父さん!」
そう言って、涼子は敏行のもとに駆け寄ってしがみついた。
「うん? おお、涼子。ただいま、今帰ったぞ――って、どうした?」
しがみつく娘に驚く敏行だが、満更でもないせいかちょっと照れている。
「もう、涼子ったら。だから言ったでしょ。お父さんはちゃんと帰ってくるって。ほらほら、お父さんが家に上がれないでしょ。ここは寒いから、向こうの暖かいところにいこうね」
真知子も嬉しそうに涼子の頭を撫でた。
「――いやあ、雪が凄くてな。降ってたのなんのって、目の前が真っ白なんだぞ。もう、本当に帰れるのかって。ブレーキ踏んでも滑った時があってな、もう照の顔が青くなってて――」
敏行は、道中を愉快に話す。津山はもう雪が積もっていたように言っているが、実際はそこまでではなかった。ただ路面は滑りやすく、実際、坂道で止まれずに停止線から一、二メートル前に出過ぎて止まった時があったのは事実だった。
「まあ……やっぱり県北は大変なのねえ」
真知子はあまり県北には行ったことがないので、そんなに大変な土地なのか、と少し驚いていた。
敏行は、袋から土産物の箱を取り出した。すでに開けていた箱の中から菓子をひとつ取り出して、涼子の前に出した。
「それから、これはお土産だぞ。涼子、食べてみろ。美味かったぞ」
「本当? じゃあ……」
涼子がひとつ食べてみようと手に取ると、真知子が口を挟んだ。
「こらこら、もう夜中でしょ。もう歯磨きして寝る時間なのに、お菓子は食べちゃいけません。明日にしなさい」
「はぁい……」
絶対言われるだろうと思っていたが、やっぱり言われた。やむなく諦めることになった。
敏行は無事帰ってきた。一瞬、もしかすると今日ではなかったのかもと思いもしたが、やはり間違いないと直感していた。
それはもちろん、前の世界での事件と、もうひとつ、夜中にお土産を買ってきて、翔太が駄々をこねた……あの記憶だ。
――やはり……やはり、私の意識に「元の涼子」が目覚めつつあるのだろうか。
それが目覚めたとき……「今の涼子」はどうなるんだろう?