涼子の心配
涼子は、下校後に奈々子と遊んで日が暮れる前に家に帰ってくると、ふと嫌な予感がした。
奥から翔太が走ってきて、靴を脱いでいる涼子に「お姉ちゃん、おかえり!」と元気よく言った。二年生になって、下校後によく遊びに出かけるようになった涼子に翔太は少し寂しいようで、構って欲しいのか涼子が帰ってくるとすぐに駆けつけてくる。
「ただいま」と涼子はひと言だけ言って家に上がった。
「お姉ちゃん、あそぼ!」
「うん、ちょっと待って」
じゃれてくる翔太を伴って台所の方に近づくと、美味しそうな夕飯の匂いが漂ってきた。涼子は台所に入った。中では真知子が夕飯を作っていた。
ふと何かが気になって、つい聞いた。
「お母さん、お父さんは?」
娘の声に気がついた真知子は、
「あら、おかえり。お父さんはまだお仕事よ。ああ、それから——今日はちょっと遅くなるって」
と言った。
「遅くなる?」
「ちょっと遠いところに、車でお仕事に行っているのよ。晩ご飯は途中で食べて帰るから、今日は三人でご飯よ」
真知子の言葉に、涼子は真っ青になり言葉が出なかった。
――今日だったんだ。今日……今日がお父さんの……。
「涼子? どうしたの?」
反応がないので、真知子が変に思って振り向くと、涼子は台所から出て行くところだった。
「涼子!」
呼ばれたことに気がついて、涼子は振り返った。
「ちょっと、どうしたの? 気分が悪いの?」
「ううん、別に」
「別にってことはないでしょ。最近、寒くなったから風邪引きそうなのかもしれないわね。涼子、今日は暖かくして早く寝るのよ」
「う、うん……」
「大丈夫? お医者さんに診てもらう?」
「ううん、大丈夫。別に風邪は引いてないと思う」
涼子はそれだけ言って、そのまま立ち去ろうとした。
「ちょっと待ちなさい。熱を測った方がいいわ」
それから真知子が体温計を持ってきて、涼子は体温を測ったが平熱であったものの「今日は遊びに行っちゃだめよ。家で安静にしてなさい」と言われた。どちらにせよ、今日は遊びに行くつもりもなかったので、母の言い付けに従った。
「いただきます。――こら、翔太。いただきますは?」
言わずに食べようとする翔太を叱る真知子。真知子は割とそういう部分に厳しい。食べる時に手を合わせることも、細かく注意する。なので涼子も癖というか、無意識にやるようになっていた。
今日は翔太も大好きなハンバーグで、少々興奮した様子で美味しそうに食べている。涼子も、母の手作りハンバーグはかなり美味しいと思っており、大好きだった。正直なところ、外食でも何度もハンバーグを食べているが、母の手作りほど美味しいハンバーグはないと思っていた。
しかしそんな美味しい夕飯も、今日は簡単には喉を通らない。
「涼子、気分悪そうだけど、大丈夫?」
やはり心配して真知子は声をかける。
「うん――ハンバーグ美味しいね。えへへ」
涼子は大げさに嬉しそうにする。それが逆に違和感を感じるのだが、必死な涼子にはそれがわからない。
「もう寝ていなさい。やっぱり風邪をひきかけているのかもしれないわ。布団に入って暖かくするのよ」
「大丈夫だよ。大丈夫」
涼子は一気にハンバーグの残りを食べてしまうと、食器を持って台所に持って行こうとした。
「今日はいいから寝ていなさい。それから風邪かもしれないし、お風呂には入ったらだめよ」
「はぁい」
涼子は返事だけして、布団の敷いてある和室に入っていった。
夕食から一時間ほど後。食事の片付けも終わり、涼子は布団の中、真知子と翔太は炬燵に入ってテレビを見ている。
ふいに電話が鳴った。
「はぁい、ちょっと待ってね――」
真知子は炬燵から出て、慌てて電話の元に向かった。
「――はい、もしもし、藤崎です」
涼子の耳に、真知子が何かを電話で話している声が聞こえる。しかし、内容まではわからない。
涼子は布団を出てすぐに廊下へ出ると、電話のある玄関へ聞き耳を立てた。が、声が聞こえない。おかしいな、と思っていると、玄関の方から真知子が姿を現した。
「こら、涼子。寝てなさいって言ったでしょ」
「お母さん、電話はお父さん?」
「え? お父さんじゃなくて西田の小母さんよ。どうしたの?」
「――そ、そうなんだ。ふぅん」
涼子は、もそもそと布団の元に引き返そうとした。
「寒いから早く布団に入りなさい」
そう言って真知子は涼子を連れて、布団の中に寝かせた。
「ええ、わかったわ――それじゃ」
あれからさらに一時間ほど後に、真知子はふたたび電話に出ていた。終わると、涼子の寝ている和室に向かった。
「涼子、ちゃんと寝てる?」
「……うん、お母さん」
「お父さんから電話があったわよ」
「お父さん! お父さんから電話なの?」
「そうよ。かなり雪が降ってるらしくて、もうちょっと遅くなるって」
「……そ、そう」
涼子は少し安心したような、戸惑ったような複雑な表情をしていた。それを見た真知子は、涼子の表情がずっと暗い原因が夫が遅くまで帰ってこないことにあると考えた。涼子は同年代の子供と比べても、比較的しっかりしているし、他人の目からの評判もいい。
しかし、まだ二ヶ月ほど前に八歳になったばかりの子供だ。
――ふふふ、涼子はやっぱりお父さんが恋しいのねえ。
「涼子、お父さんは涼子を置いてどこかに行っちゃうことはないのよ。大事な大事な涼子を置いて行っちゃうわけがあるもんですか。今はちょっとお仕事で出かけてるだけだから、安心しなさいね」
真知子は涼子の頭を優しく撫でた。乱れた前髪を軽く整えてやり、微笑みかけた。
涼子は、まだ不安に心を囚われたまま、暗い天井をずっと眺めていた。