誰か……
前の世界において、涼子の父、藤崎敏行は十二月十六日以降の人生はない。
それは――彼がその日、交通事故によって亡くなるからだ。
敏行が亡くなることによって、涼子たちの将来は大きく変わり、先の見えない暗闇の中を手探りで歩む道となってしまう。
まず会社をどうするのか。残された社員二名が、この小さな町工場をどうできるのか。はっきりいって、これまでである。創業者である敏行あっての藤崎工業だ。大河原老人と照久では続けていくことは無理である。
結局、後継者のいない会社はどうにもならず、事業を続けていくのは不可能だ。残された妻、真知子は会社を畳んで、子供たちを養育していくために働きに出ることになる。
それから二年ほどして、知人の紹介で別の給料のいい会社に勤めることになる。そこが自転車では遠すぎて通勤できないために、家を売って会社の近くにあるアパートに引っ越すことになった。
涼子――いや、この時は涼太だった――は、そんな親の苦労を子供心に理解して、手のかからないように、母の負担にならないように、あまり思い切ったことをせず、物事に消極的になっていく。
結局それが、社会人になった後の不本意な人生に繋がっていった。
涼子が後に不本意な人生、まあそれはともかく……子供の時、一番強く感じたこと。
それはやはり――父が亡くなったことだった。
はじめは特に涙も流さなかった。泣くことなんて格好悪い、なんていう子供にありがちな意地っ張りもあったが、時間の経過とともに、父への恋しさや、もうこの世にいないということの重さが、涼太の小さな体にのしかかっていく。
小学校を卒業する頃には、塞ぎ込むことも増えた。友達も減り、中学生時代はひとりでいることも増えた。高校も無難に卒業し、成績は悪くはなかったが、工業高校だったこともあり就職した。
その後はもう……厳しい社会人生活だった。
最初の就職先でうまくいかず、その後も職場を転々とし、結局ろくに仕事を覚えることもなく中年まで生きてきた。結婚もしたが、その後はうまくいかず喧嘩も多く、夫婦生活は順調とは言えなかった。
弟の翔太は当たり前のように大学に進学し、家計を圧迫した上に自由気ままに生きて、母や兄など気にもしない。
老いた母が体を悪くして介護することもあったが、妻はそれを嫌がり実家には寄り付きもしない。翔太は県外へ出て自分には親兄弟はいない、とでも言いたいように姿を見せることはなかった。……涼太ひとりだけが、いくつも苦労を背負い込んだ。
それがあの日、珍しく雪が積もったあの日の夜――何者かの手で、生まれた頃に逆戻りして、こうしてまた生きている。懐かしい記憶の風景をふたたび眺めながら。
父は元気に生きている。
小言の多い母も幸せそうだ。
翔太も可愛い可愛い弟なんだ。
あの前の世界の涼太は、「世界再生会議」なる組織によって変えられてしまった世界だという。
今のこの状態が本当の状態だという。
だとしたら――だとしたら、この幸せな人生を壊されたくない。もうあんな生活はまっぴらだ。涼子はそう誓って、この新しい人生を八年ほど生きてきた。しかし、やはり父は――敏行は、ここで亡くなってしまうのか。
そしてやっぱりこの人生においても、前と同じく辛い人生への道に流されていくのか。
そんな不安が、涼子の心を押し潰そうとしている。
――誰か、誰か私を救ってほしい。
――父の命を救ってほしい。
――お願いします……おねがいします、どうか、だれか……。
十二月に入って、このことがずっと頭から離れず、普段から上の空だった。ナナたち友達も、涼子どうしたんだろう? と心配し、相談に乗ろうと声をかけてくれたりしていた。
具体的な日付は憶えていないが、小学二年生の十二月だったことは憶えている。
ふと、敏行の死は、例の世界再生会議の差し金ではないかと考えて、悟に聞いてみようとも思ったことがある。
しかし前の世界の記憶はないと考えているらしい悟には、このことを尋ねることはできなかった。
一応――涼子は、涼太だった頃などまったく知らず、この本来の形で生まれてきた世界で、平穏に生きているということになっている。
それに今更、やっぱり前の記憶のままでした、なんて告白するのも、悟たちがどういう反応するのか怖い。
――やっぱり聞けない。
でもどうなるのか、心配で……心配で心が押しつぶされそう……お父さん……。