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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
五丈の夢
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無能の高官

 雨が止み、武功水の流れが落ち着いてくると、取り残された成都軍三万の渡渉が開始された。五丈原から見える武功水の対岸に、十万近い魏軍が陣を布いてそれを見送っている。

 向こう側に取り残された二十日間、成都軍に兵站を繋ぎ続けていたのは王平だった。山中に道を開き、部下の二千を使い全て手運びでやっていたのだという。一番心配だった黒蜘蛛の襲撃も、一度撃退していた。

 成都軍指揮官の孟琰は陣を見廻るばかりで何もやっておらず、本人は何もしていないことを気にしている様子もない。しかし楊儀は、苦境に陥った時こそいつも通りの冷静さが大事なのだと言い募り、孟琰のことを誉めていた。自身が選んだ指揮官だからこそ誉めているのだとしか見えなかった。

 つくづく自分は人を見る眼がない、と諸葛亮は思わざるを得なかった。馬謖は起こるはずのなかった失態を犯し、李厳には裏切られた。楊儀は与えられた仕事はしっかりとこなすが、己を殺すということを知らない。昨日の辛毗との面会時にはそれが顕著に出て、辛毗の言葉に何度も前のめりになっていた。それとは対照的に、費禕は終始冷静で、辛毗の言うことの裏まで読もうとしていた。

 楊儀を起用したことは失敗だったと、諸葛亮ははっきり思うようになっていた。本当ならもっと早く気付いておくべきことだった。費禕にしろ、成都を任せている蔣琬にしろ、前線を張る魏延と王平にしろ、人が少ないと言われる蜀の中にも有能な者はいるのだ。しかし、無能を高い地位に置いたことが、一度や二度ではなかった。蜀には人がいないと鼻から決めつけ、使えそうであれば幾らかの疑問には目を瞑りながらも使った。目を瞑るべきところと、そうでないところを見極める力が、自分にはなかったのだ。

 魏国の創始者である曹操は、人の見極めを実に上手くやっていた。戦には兵力も兵糧も必要だが、それ以上にそれらを巧みに運用する者を選び、良い仕事の邪魔をする者を排除することが重要だった。

 諸葛亮は、戦は全て自分の手でやるべきだと驕り、自分に従順かどうかで人を選んでしまうところがあった。その基準で判断すれば、楊儀は優秀なのだ。しかし戦陣の幕僚としては、辛毗とは比べようもないほど無能だった。兵糧の計算だけが得意で、せいぜい兵站官が関の山の男を片腕としてしまったのだ。馬謖と李厳の失敗から、何も学んでいなかった。いや、本当の無能は自分ではなかったのか。

 卓に書簡が積み上げられている。これを読み尽くすことで、蜀軍内の隅々を頭に入れておくことができる。兵糧の流れから、兵の犯した罪、壊れた武具の一つ一つにまで眼を配った。どこかに落とし穴はないか、いつも気になり探していた。

 今は亡き曹操や劉備がこの姿を見れば笑うかもしれない。何故、誰かに任せないのか。人を選ぶ時は十分にあったのだ。

 楊儀が、王平を伴って入ってきた。諸葛亮は積まれた書簡を端に寄せ、二人を前に座らせた。

「御苦労であった、王平。三万の腹をよく満たしてくれた」

「あの三万が壊滅していれば、我々は撤退を決めているところだった。蔣斌の罪を被ると言っていたが、この功績はそれを帳消しにしてもいい程のものだ」

 楊儀がまた分を越えたことを言っている。思っただけで、やはり口には出せなかった。王平は、作ったような笑みを楊儀に見せているだけだ。

「王平から、丞相の耳に入れておかなければならないことがあります」

 楊儀が目で合図をし、王平が頷いた。

「武功水の川岸に集められた成都軍三万に、司馬懿がおかしなことを吹き込んでおりました。漢の帝はもう死に、蜀軍が戦わなければならない理由はもう失われたのだと」

「なんだと」

 諸葛亮は、年甲斐もなく腰を浮かしかけた。

「どのように言っていたか、詳しく話せ」

「諸葛亮は漢の帝がこの世を去ったことを隠蔽し、蜀の民から税を搾り取り、無駄な血を流させている。戦をしたいだけの諸葛亮に騙されてはいけない。かつては同じ国の民であった我々は助け合える同胞なのだ、と」

 諸葛亮は歯噛みした。献帝崩御の真偽を得るため放った蚩尤軍はまだ戻っていないため隠蔽しているはずもなく、司馬懿はそのことを知った上で成都軍に嘘言を吹き込んでいる。司馬懿が成都軍を無傷で帰してきた意図はここにあったのだ。このままでは、蜀軍は内部から崩壊してしまう。

「それを耳にした兵の反応はどうであったか」

「動揺していました。司馬懿の言葉を真に受けている者は、少なくないと見えました」

 この成都軍三万が五丈原に戻ればどうなってしまうのか。辛毗が叫んだことにより、既に献帝の死は噂として広まりだしているのだ。司馬懿の言葉を持ち帰った成都軍がその噂を裏付けてしまえば、将兵は何を思うのか。何故、諸葛亮をはじめとする蜀軍首脳陣は、こんな大事なことを黙っていたのだ。今まで課されていた重税による艱難辛苦は一体何だったのか。六万の兵の不満が表面化すれば、戦どころではなくなってしまう。大規模な叛乱の危険すらあり得る。

 あと半日もすれば蚩尤軍の一部が帰還し、献帝の生死が判明する。それで今更公表したところで、司馬懿が言ったから慌てて公表したのだと思われるに違いない。蚩尤軍が情報を持ち帰ってきたのは今日だったのだと言ったところで、怒った大衆が聞く耳を持つはずもない。

 楊儀が膝をかたかたと震わせていた。諸葛亮が目をやると、気付いた楊儀は気まずそうに膝を掴んだ。

「行っていいぞ、王平。今は兵の傍にいて、不安を和らげてやれ」

 王平が直立し、幕舎を出て行った。この男は、司馬懿の言葉など意にも介していないようだった。

 恐れていたことが起ころうとしている。献帝の死を蜀の兵が知ればどうなるか、司馬懿はよく計算し、狙っていたのだ。

 蜀国の全ての者が共有していた価値観を根底から破壊し、さらに首脳部への猜疑と不信を植え付けた。干戈を交えずとも、こうして戦に勝つこともできるのだという、司馬懿の高笑いが聞こえてくるようだった。

 諸葛亮ははっきりと負けを意識した。この負け方は、ただ武力によって追い返されるよりよほど質が悪い。兵数への損害ではなく、目に見えぬ人心の破壊。これを修復するのにどれほどの時を要するのか。

「丞相、我らは兵力で劣りますが、まだ策はあります。蚩尤軍が戻れば魏軍に流言を撒き返し、なんとかして戦に持ち込むのです。明確な敵が目前にあれば、人の心はまとまります」

「その目前の敵が、我らだと思われていたらどうする」

 諸葛亮ににべもなくされたのがよほど衝撃だったのか、楊儀は顔を愕然とさせた。もはや楊儀の存在は、諸葛亮にとって煩わしいものでしかなかった。

 ここで戦をしたとして、どこまで戦えるというのか。少なくとも、寡兵で多勢を破るような戦ができるとは思えない。魏軍に投降する兵も出始めるだろう。

「恐ろしい男だ、司馬懿は。将と首脳部の間にではなく、兵卒と首脳部に離間をかけてきた。仮にここを凌げたとしても、この確執は戦を終えた後にも残る」

「せめて蚩尤軍がもう少し早く帰ってきてくれれば」

 楊儀がか細い声で言った。

 お前がばらしたのではないか。そう思ったが、諸葛亮はしばらく何も言わず、目を閉じていた。今は仲間割れをしている場合ではない。

 撤退すべきだ。問題はそれをどうやるかで、撤退の方法だけでなく、戦を終えた後の混乱をどう抑えるかまで考えるべきだった。

 この大衆の怒りを鎮める方法がないわけではない。誰もが納得できる形で、この戦を主導した者が罰を受ければいい。第一次北伐で、馬謖の首を落とした時のように。

「撤退だ、楊儀。こうなれば、誰かが責任を負わねばならん」

「責任などと。秦嶺山脈での大雪に足を取られたことや、武功水の増水は、明らかに運でありました。この敗戦は誰かの過失ではなく、人の力の及ばぬ運によるものなのです」

 責任の取り方まで含めて撤退の仕方を考えろと言ったつもりだったが、楊儀は自らに責任が降りかかることを恐れたのか、運が悪いのだから仕方が無いと何度も言い始めた。自分の人を見る目の無さに、思わず笑いが込み上げてきた。

「昔、曹操が戦陣で兵糧を枯渇させてしまった時、どうやってその場を凌いだか、お前は知っているか」

 不安を浮かべた楊儀が首を横に振った。

「罪の無い兵糧番の者に、着服の汚名を着せて殺したのだ。それで腹を空かせた大勢の兵の怒りは、曹操にではなく殺された兵糧番の方へと向かった」

「無茶苦茶な話です」

「それだけ曹操は、集まった人間の怒りの恐ろしさを理解していたのだ」

「何を仰せになりたいのか、私にはわかりません」

 楊儀が額に汗を浮かべながら叫んだ。楊儀の体たらくを少しばかり揶揄してやろうと思っただけだったが、楊儀の反応は想像以上で、つまらないことを言ってしまったと束の間後悔した。

「心配するな、楊儀。何もお前の首を落とそうと言っているのではない。撤退の準備だ。兵糧をまとめてこい」

「わかりました」

 楊儀は顔を俯かせながら席を立った。その動作には、少しの怒りが籠められているように見えた。

 楊儀の心を瀬踏みしてみたが、期待していたものは何も出てこなかった。わかっていたことだった。だから、諸葛亮はすぐに諦めた。責任は、自らに降るべきだ。

 曹操なら、躊躇せずに楊儀の首を落としていたのだろう。しかし諸葛亮は首を落とした後の周囲の反応を恐れた。身内を殺せば、次は自分ではないかという不安に駆られる者は必ず出てくる。曹操は、人の心から湧く不安すらも、何かしらの原動力に変えてしまうという力があった。自分にはない力だ。

 蜀国には劉備から受け継いだ仁徳の力で人を動かすというところがあり、それは曹操の力とは相反するものだ。劉備から受け継いだ諸葛亮の中途半端な徳の力は、馬謖や李厳や楊儀のような者を調子付かせてしまった。劉備なら始めからこういう者らは近くに置いておかなかっただろう。徳は万人に対し平等に用いられるべきものではなく、徳を理解しない者への断固たる厳しさも同時に持たなければならなかったのだ。取り返しがつかない程に負け続け、諸葛亮はようやくそこに思い至ることができた。

 楊儀が兵糧番に相応しい男なら、自分は何なのだ。少なくとも、一国の宰相をやれる器ではなかった。この敗戦の責任は自分が取る他ない。楊儀も同じことを考えていたからこそ、微かな怒りを見せたのかもしれない。

「失礼します。辛毗を迎える準備が整いました」

 入ってきた費禕が、諸葛亮の顔を見て息を飲んだ。自分はどんな顔をしていたのだと、諸葛亮は思った。

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