王訓誕生
ないはずの左腕が、焼けるように痛い。王双が行く道の背後で真っ赤な夕日が山の谷間に落ちて行こうとしていき、黒々とした木々の影が前方に向かって長く不気味に伸びている。辟邪隊の向かった定軍山の本陣では夏侯淵将軍が討ち取られ、辟邪隊の行方もわからなくなっていた。恐らく、そこで全滅させられたのだろう。
負けて、失った。あるのは具足の下に着ていたぼろ切れのみで、辟邪隊も、左腕も、隊長殿も全て失った。曹操軍は敗北し、周りの山々の至る所に劉の旗が翻っている。
魏軍敗残兵は東にある漢中の市街へと向かっているのだろうが、王双はもうそこに戻る気はなかった。妹の夫を守ることができなかった。気づいた時には既に王双が寝かされていた寝台にも混乱が波及しており、そこから脱出することで精一杯だったのだ。漢川のほとりに顔を突っ込み、水を飲んだ。陣中で飲んでいた水に比べればうまいようでもあり、どこか苦々しくもあった。水を飲むとその場に座り込んだ。敗残兵狩りの眼を避けるために具足は捨てておいたが、いつ襲われるかわからない。味方であるはずの兵に追剥されることも有り得る。もっとも、王双はもう何も持ってはいないのだが。
来るなら来い。そう思ってしばらくそこに佇んでいたが、誰も来なかった。いっそここで見つかり、殺された方が楽なのかもしれない。ここから洛陽までの長い道のりが、限りなく長いように感じられた。殺されてしまいたいと思っても、敗残兵狩りの兵はおろかその川辺に訪れる者は誰一人として現れなかった。
数日間、洛陽に向かって歩いた。帰れることが、嬉しいことだとは思えなかった。王平のことを妹にどう話せばいいのだ。それに辟邪隊の仲間達はもういない。洛陽に帰ったところで、そこに俺がいる場所があるのか。
何が辟邪だ。何が守り神だ。壊滅させられた今となってはただの負け犬ではないか。そして左腕を失った自分の体だけが残った。一人で静かな街道を歩いていると、耳の奥で部下達が倒れていく声が聞こえる気がした。王双はその度にその場にしゃがみこみ、耳を押さえてその声が去るのを待った。
こんな時になっても、歩くと腹は減った。兎を二羽も捕って近くの農家に持っていくと喜ばれ、代わりに王双は少しの粥とその日の寝床を頼んだ。貧困そうな農家でも家族が揃っているところは一人一人に元気があるように見えた。こんな家族を、妹にも持たせてやりたかった。厳しくも優しい王平は妹の夫にぴったりだと思え、子供が生まれると聞いた時は心の底から嬉しくなった。しかし、その王平はもういない。左腕が無いからなんだ。命をかけてでも王平のことを守り、自分が代わりに死ぬべきではなかったのか。そう思っても仕方のないことだった。仕方がなかったとしても、仕方がないという言葉で済ませたくなかった。
洛陽の城壁が見えてきた。相変わらず門の脇には、前と変わらない二頭の辟邪ずっしりと構えている。唾を吐きかけてやりたかった。何の力もない辟邪ではないか。
久しぶりの我が家の戸は、とても重く感じられた。ぼろ切れ一枚を纏って一人で帰ってきた王双を見て、妹は全てを悟ったようだった。腹を大きくした妹は顔を赤くさせて、兄さんだけでも帰ってきてくれて嬉しいと言ってくれた。その言葉は、王双には痛々しいものでしかなかった。
戦のことについては何も聞かれはしなかった。ただ疲れを労う言葉を、繰り返しかけてくるだけだった。定軍山から洛陽への道中に世話になったいくつかの農家とは違い、王双の家は誰も住んでいないのかと思える程に静かだった。
「心配するな、歓。隊長殿はきっとどこかで生きている」
気休めに過ぎない。妹もそれを分かっているのか、固い笑顔をつくって頷くだけだった。
それから静かな日々が続いた。一日に交わす言葉は、残された腕の指で数えることができるくらいに、静かだった。明るい内は山野に出て、口に糊するため獣を捕って洛陽の商人に雀の涙ほどの値で買い取ってもらった。家に帰ると歓は壁に向かって何かぶつぶつと呟いており、声をかけるとはっとしてまた固い笑顔をつくって見せるのだった。
何とかしなくては。王双はこんな時に何もできない自分の武骨さを呪った。何か、気の利いたことはないか。ふと王双は、歓が昔、王平と川に葉の舟を浮かべていた時のことを思い出した。
「そうだ、歓。隊長殿が言っていたんだがな、隊長殿は木の葉で船を作るのが得意だったろう? その葉の船に願い事をして流すと、その願い事は叶うって言ってたぞ」
「本当?」
嘘である。
「本当だとも。明日から、葉の船をたくさん作って流そう。俺は作り方を知らないから、歓が教えてくれ」
「うん、わかった」
その力無い顔に、少し笑顔が戻った。固い笑顔でなく、本当の笑顔である。腹が膨れた妹の代わりに、なるべく大きな葉を探して家に持って帰った。王歓は慣れた手つきで次々に葉船を作っていった。何枚も、何枚も、ひたすらに作った。山ほど作った葉の船を籠に入れ、二人で川へと持って行った。それを、一つずつ流した。自分の作った船は妹の作ったそれと比べ、長くは浮かんでいられなかった。一つだけ、いつまでも浮かんでいる船があった。妹は、手に力を込めてじっとその船を見つめていた。帰ってくるかな。船が見えなくなると、小さくそう呟いたのが悲しかった
だが王平は、いつまでも帰ってくることはなかった。
歓の腹はどんどん大きくなるが食は日に日に細くなり、頬は目に見えて削げ落ちてきた。王双が何を買ってきても王歓は食おうとせず、食べろと強く言うことで、ようやく口に運んだ。することがない時は、狂ったように黙々と葉を折り続け、舟をつくって川に流した。そんな妹の姿は、見ていてとても辛かった。
臨月がきた。妹の顔は悲愴なまでに痩せこけていた。こんな体で出産して大丈夫か。王双は心配になったが、できることなど何もなかった。産気づき始めると、近所に住む老婆に頼んで出産を手伝ってもらった。家の外に苦痛に耐える妹の声がしばらく聞こえ続け、やがて苦しみの声が産声に変わった。男子だった。王平と王歓の子であり、自分の甥だ。よくがんばった。そう声をかけたが、王歓は目を閉じたままだった。
「どうしたのだ、歓。元気な男子だぞ。お前と、隊長殿の子だ」
言うと、歓は薄く眼を開けた。
「今までありがとう、兄さん」
そして、また眼を閉じた。
「おい、何を言っている。俺は何も礼を言われるようなことなどないぞ」
「私は、もうだめみたい」
その声は怖いほどにか細かった。
「馬鹿を言うな。お前はこれからこの子を育てていくんじゃないか。親父の代わりなら、俺がしてやる。だから、そんなことは言わないでくれ」
「名は、『訓』として。川に流したたくさんの言葉が、この子に叶いますようにと」
すっと、妹の顔から生の色が消えていった。王双は妹の体を揺らして何度も名前を呼んだ。隣にいた老婆が王双の手を取り、悲しみの顔を横に振った。王双はその手を全力で振り払った。
「歓、歓、頼むから目を覚ましてくれ。お前まで俺のことを独りにしようと言うのか」
しかしその言葉に帰ってくる言葉はもうなかった。苦しみから逃れられる喜びか、子を生したという充足感からか、妹のもう覚めることのない寝顔は安らかであった。生まれたばかりの王訓が、大きな声で泣いていた。王双はもう動かないその体を抱き締めながら、それよりも大きな声で泣いた。