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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
武功の戦い
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蔣斌の指揮

 兵の笑い声が北から風に乗ってやってくるのを、蔣斌は櫓の上から聞いていた。兵糧庫の正面に備えた陣で、武功の東からは魏軍が押し寄せてきている。

「向こうの戦線で魏延殿がやっているな」

 北からの笑い声を怪訝に思っていると、些細な変化も見逃すまいとしていた王平が呟いた。

 眼下の陣には壕が掘られて逆茂木が張り巡らされ、弩を備えた兵が配されている。恐れずとも、敵は容易にこれを破ることはできないはずだ。

「来た」

 言って王平は櫓をするすると下りていった。押し寄せてくる歩兵とは別の方向から、魏軍騎馬隊が土煙を上げながら怒涛の如く迫ってきている。銅鑼が五度鳴り響き、迎え撃つ王平騎馬隊が飛び出して行った。

 蔣斌も櫓から下り、王平軍の歩兵を指揮する杜祺の所へ走った。

「騎馬五千、その後ろから歩兵一万」

「わかった。お前もすぐに配置につけ」

 蔣斌は頷き、予め決められていた場所へ走った。杜祺の下での、初の実戦指揮である。前の戦では杜祺の傍にいて、張郃に蹂躙されただけだった。初の指揮は今までの調練と同じことをすればいいだけで、大きな不安はない。ただ胸の底が少しばかり熱いだけだ。

「隊長、こんなぎりぎりまでどこに行っていたんです」

 指揮する百人の中の古参兵が蔣斌に近付いてきて言った。

「お前の知ったことではない。黙って配置についていろ」

 髪に白いものを混じらせた古参の兵が、呆れたような顔を向けてきた。明らかに若い蔣斌のことを侮っている顔だ。

「こういう時、兵は不安なのです。なるべくここにいてもらわないと」

 その口調はまるで自分の方が戦に詳しいと言わんばかりで、蔣斌は苛立った。

「うるさい。そんなことは、お前からとやかく言われることではない」

 胸の熱さが頭に移ったようにかっとなり、早口でまくしたてた。それでもその古参兵は、それに動じる素振りも見せず、平然と歩み寄ってきた。

「初めての指揮で気が昂ぶっているのはわかります。でも実際に命を懸けるのは我々なわけですし、経験ある者の言うことは聞いてもらわないと」

 体を纏う具足の銅札を鳴らしながら、古参兵は蔣斌の隣に腰を下ろした。

「何をしている。配置につけと言うのがわからないのか。何故、ここに座るのだ」

 あまりに予想外のことで蔣斌は怒鳴ることすら忘れた。兵は、将の言うことを聞くものではないのか。

「ここで助言をさせて下さい。決して損はさせません。今は気が立っているから私のことに腹を立てるかもしれませんが、後になればきっと間違っていなかったと思えるはずです」

 あくまで表情を変えず、まだ若い蔣斌を宥めようとするその言い草に、蔣斌はさらに苛立った。同時にふてぶてしい古参兵の態度が、酷く不気味なものに見えた。

「くどい。早く戻らねば、首を飛ばす」

 言ったが、剣は抜かなかった。古参兵は一瞬だけ怯みを見せたが、一瞬だけだった。剣を抜いて見せればよかったと、蔣斌は兵を睨みつけながら後悔した。

「私は今まで、戦場で何度も死ぬ思いをしました。しかし、生きています。こういう兵は近くに置いといた方がいいですよ。それに」

 喋り続ける首を、蔣斌は抜き打ちで飛ばした。座っていた体が仰向けに倒れ、地に血溜まりが広がった。

 兵の中から一人が飛び出してきた。その兵は、古参兵のことを兄貴と呼び、転がった首を抱きかかえていた。

「その死体を片付けておけ」

 蔣斌はそちらに一瞥もせず言い捨て、近づく魏軍を見ようと逆茂木の向こうへと目をやった。王平の騎馬隊が魏軍歩兵に攻撃をかけようとし、夏侯の騎馬隊がそれを阻んでいる。魏軍歩兵は王平に止められることなく前進し続け、その手前を駆ける二つの騎馬隊は絡み合うようにして戦場を移して行った。

「敵が来るぞ。弩を構えろ」

 盾を出した魏軍歩兵が迫ってきた。蔣斌は矢の間合いを見計らい、叫んだ。

「放て」

 弦を弾く音が一斉に鳴った。矢は届いたが長距離のため勢いが死に、ほとんどは敵の盾により防がれていた。

「早過ぎ」

 自陣のどこかから声が上がり、周囲から幾つかの含み笑いが聞こえてきた。

「誰だ、言ったのは」

 蔣斌は振り返ったが、答える者は当然のようにいなかった。そうしている間にも敵は近づいてきている。蔣斌は舌打ちをして意識を魏軍の方へ向け直した。

「矢の装填。でき次第、構え」

 言いながら、蔣斌は周囲を見渡してぞっとした。誰もがやる気なさそうに弩をいじっている。こんなことは、調練ではなかったことだ。こんな時は、どうすればいいのだ。蔣斌の頭は予期せぬことで混乱し始めていた。

「放て」

 混乱しながらも、声は出せた。今度は効果のある距離だ。そう思っていると、足元に何かが突き立った。矢。それは後ろの味方から射られたものだった。

「誰だ、これを射った者は」

 蔣斌は足元の矢を引き抜いて叫んだ。

「お前か」

 矢が来た方向にいた者の一人に言った。

「違います」

「では、誰だ」

「それは」

 にやけるばかりで答えようとしないその兵に歩み寄り、剣を向けた。

「隊長、矢が」

 兵が指さしたので振り向くと、大量の火矢が空から降ってきていた。盾。いや、間に合わない。

「矢に背を向けるな。しっかり見て叩き落とせ」

 言ったが兵は矢を恐れてその場に蹲り、背を貫かれる者が多数出た。火矢は兵だけでなく逆茂木にも注がれ、所々で火を上げ始めている。

 ふと蔣斌は殺気を感じ振り返った。弩をこちらに向ける兵。咄嗟に横に飛んで矢をかわし、その兵の懐に飛び込んで剣を振った。弩を持つ両腕が吹き飛び、血が舞った。

「お前、何をしている」

 両腕を失った兵はその場にへたりこみ、何がおかしいのか、顔を俯かせて低く笑い始めた。

「何故、俺に矢を放った」

「面白いからさ。それ以外に何がある」

「面白いだと」

「面白いさ。高貴なくせに無能なお前が焦って慌てる顔がな。それだけだよ」

 未知のものに触れた気がし、蔣斌は全身を粟立たせて後ずさった。戦だというのに、こいつは何を言っているのだ。

「俺が慌てるのが、そんなに面白いのか」

「面白いとも。お前のような育ちの良いぼんぼんが、俺らみたいな雑兵に遊ばれているんだからな」

「今は戦だぞ」

「そんなもの、俺の知ったことか。戦が無い時は散々働かされて、戦になればお前みたいな戦知らずに命令され、殺される。つまらない生だ。つまらないことを面白くしようとして何が悪い」

 黙らせるため、ほとんど反射的に兵の首を飛ばした。

 嫌なものを斬ったという気がして、蔣斌は顔を歪めた。将の下にいる兵とは、こういうものなのか。思いつつ、蔣斌は頭を切り替えた。敵からの火矢はまだ飛んできているのだ。

 兵は隊長などいないかのように各々が逆茂木の消火作業をしていた。

 敵からの火矢を対処するばかりで時は過ぎ、日が暮れ始めたところで魏軍は退いていった。本格的な力攻めはなかったが、逆茂木は散々に燃やされ、空堀には土嚢が放り込まれていた。陣の防御力は半分以下になったといっていい。明日、魏軍の大兵に圧されれば、ここを支えることは難しい。

 陣に篝が焚かれ、兵糧が配られ始めた。蔣斌は自分が指揮する百人隊を離れ、杜祺のいる焚火の方へと足を向けた。とてもじゃないが、自分の隊内で飯を食う気にはなれなかった。

 陣内にはいつもより倍の篝が焚かれ、橙の光の中に多数の歩哨の影が蠢いていた。王平の指揮により、夜襲への備えはしっかりとなされていた。王平と自分の指揮は何が違うのかと考えてみたが、納得できる答えを俄かに見つけ出すことはできなかった。

「おう、蔣斌。初めての指揮はどうだった」

 蔣斌の姿に気付いた杜祺が話しかけてきた。蔣斌は答えに困り、顔を俯かせた。

「何かあったと見えるな。とりあえず、飯でも食おう」

 二人で焚火の傍に腰かけ、兵糧の支度をした。

「何故、我らは戦っているのでしょうか」

 杜祺が兵糧の器を手にしながら少し首を傾げた。

「それは漢の帝をお助けするために決まっているだろう。そんなことは兵の下々まで知っていることではないか」

 それは諸葛亮が喧伝し続けていることで、蔣斌も当然知っている。

「兵を見る限り、そうは思えません」

「雑兵にそこまで期待することはない。一応、そうなっているという程度に思っておけばいい。多くの者が同じ想いを共有することで、人は結び付き、その結び付いたものを軍と呼んだり、国と呼んだりするのだと俺は思う。皆がちゃんと理解していない建前であろうと、大事なことだ」

「私の百人隊は、とても結び付きがあるとは思えませんでした」

「何故、そう思う。逆茂木を燃やされたことを気に病んでいるのか」

 蔣斌は俯けた顔を振った。

「自分の兵に、矢を射られました。何をやっているのだと問い詰めると、つまらない生を面白くしたかっただけだと言われました」

「そうか……」

 杜祺は言葉を詰まらせていた。

「兵を斬りはしたか」

 違う方から声がしたので顔を上げると、いつの間にいたのか焚火の向こうに王平が腰かけていた。

「二人、斬りました」

 敵兵はまだ斬っていないと思った。

「俺も昔、部下の兵に舐められたことがあった。その時の俺はまだ魏軍で、洛陽で少数の山岳部隊を調練していたんだ。まだ若造だった俺の言うことなど聞きたくないということだった」

「それで、どうされたのですか」

「文句を言う奴の中で、一番強そうなのを殴った。殴られもした。それで次の日から、そいつは俺の言うことを聞くようになった。他の奴らも従うようになった。その殴り合った相手は王双というんだがな」

「王訓の叔父上殿ですか」

「そうだ。剛胆な男だった。この額の傷は、王双につけられたものだ。長く王訓のことを放っておいたから、あいつは怒っていたんだ」

 初めて王平に会った時、額の傷は既にあった。軍人だから、こういう傷があるものなのだと、何となく思っていた。

「話が逸れてしまったな。兵は、斬るな。殴られるつもりで、殴るのだ。こちらが指揮官だから無条件で言うことを聞いてもらえるなどと思うのは、甘えに過ぎん。兵はその甘えをよく見ているぞ」

「わかりました」

 口ではそう言ったが、蔣斌は納得していなかった。兵は将の言うことを聞くものではないのか。その前提が無ければ、軍という組織は成り立たないではないか。

 或いは、自分は兵の指揮には向いていないのかもしれない。口に含んだ兵糧の塩味が、何か酷くまずいものに感じられた。

 それからしばらく王平は杜祺と何かを話し込み、その場を離れて行った。

「お前の話を聞いてやりたいがな、蔣斌、これから夜襲の支度をせねばならん。俺は行くぞ」

「私も」

「お前は陣で留守番だ。夜襲が終われば斥候を任せると王平将軍は仰せだ」

「私は頼りにならないということですか」

「つまらんことを言うな。斥候も、軍の大事な仕事だ」

 そう言い残し杜祺は準備に行ってしまったので、蔣斌は仕方無く自陣に戻った。

 百人隊の中心にある大きな篝が周囲を照らす中で、兵は思い思いにしていた。半数を歩哨に、半数を休息に交替で回すよう指示し、蔣斌は一人になるため櫓に上った。

 闇の向こうに、魏軍の篝が星のように点々としていた。その光に血生臭いものが感じられるはずもなく、むしろ綺麗なもので、蔣斌は一時、指揮の苦悩を忘れることができた。

 苦悩が消えると、琳のことが頭に浮かんだ。この陣地から、琳の村は近い。そこにも魏兵は入っているのだろうかと心配しても、陣を離れるわけにはいかなかった。琳に対する心配と、考えても仕方がないことだという思いが繰り返し交錯し、時は過ぎていった。

 夜が更け、枚を噛んだ王平軍歩兵が静かに陣を出て行った。蜀軍陣地の篝に照らされた歩兵の背中はやがて闇に溶け、完全に見えなくなった頃に、魏軍の陣地から大きな光が上がるのが見えた。恐らく、句扶率いる蚩尤軍が火を使っているのだ。広がる光から湧くようにして、兵の争う声が聞こえてきた。

 蔣斌は櫓を下り、馬の支度をした。蜀軍兵士が敗走してこないのを見ると、夜襲は成功したようだ。前線の様子を見て来いという伝令がすぐにでも来るかもしれない。

 鞍を手にする蔣斌に、兵の一人が近づいてきた。

「隊長、あれは夜襲ですよね」

「そうだ。見ればわかるだろう」

「俺らの隊は、留守番ですか。いいなあ、あいつら。俺も手柄を立てたいなあ」

 蔣斌はそれを無視した。無視しながらも兵の言葉に心を乱し、担いだ鞍を馬の尻にぶつけてしまった。驚いた馬が嘶きを上げ、兵が微かな笑い声を出した。

「俺たちは軍団長から戦力として見なされていないんですかねえ」

 お前は将として戦力に数えられていないのではないかと言われている。

 殴られるつもりで、殴れ。王平から言われた言葉が浮かんだが、無視した。すぐにでも馬に乗れる用意を整えておかなければならず、喧嘩をしている暇などないのだ。そもそも雑兵の言うことにいちいち付き合うなど、馬鹿馬鹿しいという気しかしない。

 無視していると兵は諦め離れて行った。離れた所で、別の兵と話しながら大きな笑い声を立て、蔣斌を更に苛つかせた。

 やがて空が白み、伝令がやってきて、斥候を命じられた。蔣斌は自陣から逃げるようにして馬を走らせた。

 他の斥候と行先を確認し合い、敵陣へ向かった。蔣斌が選んだ先には、琳の村がある。村が近づくにつれ蔣斌の胸が高鳴り、早く琳の顔を見て安心したくて、馬の腹を強めに蹴った。

 蜀軍陣地に戻る王平軍歩兵の集団と行き交い、琳の村についた。

 蔣斌が心配していた通り、そこは戦場となっていた。村の道に転がる兵の屍肉を犬や鳥が啄んでいて、まだ燃えている茅葺の家もある。王平軍の夜襲はここにいた魏兵を追い払ったのだ。

 しかし今の蔣斌にとって、そんなことは二の次で良かった。

 琳の家についた。かつて琳の体を抱いた草むらが、朝の陽を受けて瑞々しく光っていた。

 家の中に、琳はいた。いや、かつて琳だった体がそこにあった。鼻と口から血の筋を垂らし、半分見開かれた目はもう瞬くことを忘れていた。体は乱れ、股には木の枝が刺され、そこからも血が流れていた。

蔣斌はゆっくりと歩み寄り、無惨な姿となった琳の体に触れた。前に抱いた時は暖かかったその体が、驚くほどに冷たくなっていた。

 不思議と涙は流れてこなかった。代わりに、おかしな笑いが込み上げてきた。琳が魏兵に犯され、弄ばれ、殺されている時、自分は何をしていたのか。櫓の上からそれを眺めていただけだった。闇の向こう側から、琳が犯されているのを、指を咥えて眺めていたのだ。

 蔣斌は笑いながら頭を抱えた。無理をしてでも、この女を攫ってしまえばよかった。軍紀がどうだと言って、琳を連れて帰る知恵を絞る努力すらしなかった。自分がやったことは、会いたいからといって、戦が始まる前に会いに来ただけだ。琳が望んでいたのは、そんなことではなかったはずだ。

 悔いとも憤怒とも言えないどす黒いものが腹の底からとめどなく湧き、口から笑い声として溢れ続けた。

 兵の指揮も上手くできないくせに、軍のために女を後回しにし、結果として妻にしたかった女を死なせてしまった。それも無惨な方法で、汚されながら、殺された。

 俺は一体なんだというのだ。

 蔣斌は琳の体を地に投げ出した。既に固くなり始めている琳の体が粗末な床に色の無い音を立てた。

 蔣斌は剣を抜き、切っ先を自分の喉に当てた。このまま貫いてしまえばいい。それが琳に対する償いになるのではないか。しばらくそうしていたが、できなかった。切っ先を当てた喉仏から、血が一筋流れただけだ。

 血が流れるのと同時に、涙も流れてきた。そしてそのまま、琳の体の横で子供のように泣いた。隣で、瞬かない琳の両眼が、どこか一点を見続けていた。

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