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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
武功の戦い
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援軍来着

 大地に線が引かれていた。その線は長大なもので、三里以上に渡っての塹壕が掘られ、向こう側には逆茂木が重なり、ここから先へは一歩も通さないという司馬懿の意志がありありと伝わってきた。

 王平は五百騎の小勢で、魏軍の前線を舐めるように駆けた。何度も繰り返している、魏兵への挑発行動である。王平が来ているとわかれば夏侯覇あたりが釣られてくるかとも思ったが、柵の向こうから顔すら出してはこなかった。

 出てこないからといって、こちらから攻めることは難しかった。平地に構えた陣とはいえ、前は塹壕、後ろは渭水に守られている、城のようなものだった。蜀軍の東への進路を防ぐように横たわる馬冢原も費耀の軍によって固められていて、片方を攻めれば片方から援護が出てくる構えになっていた。魏軍は背後に流れる渭水から船による補給を受けているため、騎馬隊で急襲して兵站線を切ることもできない。巧妙な背水の陣だった。

 初手で奪った馬冢原は、兵站に問題があったためすぐに放棄した。あれが間違いだったのではないか。兵に無理を強いてでも、馬冢原は確保しておくべきだった。あの高地を確保するため、蜀軍は多くの血を流すべきだった。

 思っても仕方のない、一軍を率いる王平の考えることではなかった。しかし口には出さずとも、この堅く構えた魏の陣を見る度に、そう思わずにはいられなかった。

 王平はぎりぎりまで魏の陣に近付き、矢が飛んできたところで馬首を返して陣に戻った。

 蜀兵がたむろする武功は、これが戦場かと思えるほど長閑なものだった。実った麦は刈り取られ、農夫が木牛と呼ばれる車を押して軍営に運んでいく。自陣へと戻る道から見える麦畑はほとんど刈り入れを終え、地肌の見える畑で農夫の子供たちが遊んでいた。

 軍営に着くと、蔣斌が諸葛亮からの命令書を持ってやってきた。文字が読めない王平のため、蔣斌がそれを口上で述べた。

「武功水にある兵糧庫を強化するために、王平軍から人数を出せとのことです」

 武功水の兵糧庫は、王平軍の副官である劉敏が縄張り差配していた。本来なら他の文官に任せ、劉敏は王平の陣に常駐しておくべきだったが、蜀には人が少ない。ましてや軍の生命線である兵糧を任せるとなると、何人もいないのだ。前回の戦では、位ばかりが高い李厳に兵糧を任せたため、蜀軍は兵糧切れを起こし撤退したのだった。

「杜祺に千を率いて行けと伝えておけ」

 武功で取れた麦はかなりの量になったはずだ。それを貯蔵する倉を造るための人数なのだろう。人数を割けば戦力の減退になるが、戦自体がないのだ。

「あの、私はどちらになりますか」

 行けと言った王平に、蔣斌が言い難そうに聞いてきた。

「お前は俺の下にいろ。お前がいなければ、誰が命令書を読むというのだ」

「わかりました」

「待て。何故、わざわざそんなことを聞く」

 言われた蔣斌が目を逸らした。

「ここにいても、なかなか戦が始まらないもので」

 王平は訝しんで蔣斌の顔を見た。目が、何かを隠していた。

「まあいい。早く杜祺に命令を伝えてこい」

 蔣斌が駆けだして行った。

 蔣斌を武功の偵察に行かせた際、ある村の娘に心を傾けたのだと、王平は句扶から聞いていた。その女のことでも考えていたのだろう。

 昔、王平にも愛した女がいた。

 洛陽に王歓を残し、定軍山へと向かったのは、もう十六年も前のことになっていた。あの頃は、戦場であれ、どこであれ、常に王歓のことが頭にあった。それが王平の心の糧となっていた。

 王平は定軍山で死んだと思い込んだまま、王歓は死んだ。子を産ませただけで、何かをしてやれたという思いは持てなかった。

 蔣斌が女のことで思い悩んでいるとして、自分が何を言えるだろうか。むしろ、思い悩んでいた昔のことを思い返し、妙に懐かしくなったりする。そして、昔のことに対して鈍感になってしまった今の自分を、寂しく思うこともある。

 杜祺が兵糧庫へ向かうのを見送り、やがて日が暮れた。兵糧をとって寝台に身を入れると幕舎内に風が一つ入ってきて、王平はゆっくりと体を起こした。

「句扶か」

 幕舎の灯火に、句扶の姿が浮かんできた。

 油が燃える仄かな光を受け、句扶の左目で蚩尤の姿がてろてろと揺れていた。句扶がこうして来たということは、何か隠匿しておくべき情報があるということだ。

「呉軍が動いたことは、兄者も耳にしていることと思います」

 蜀と呉による魏の挟撃は、戦が始まるまでの三年に計画され、実行されていた。馬冢原からあっさりと兵を退いたのも、呉軍との長期に渡る共闘を計算に入れてのことだった。

「聞いている。それがどうした」

「呉軍が撤退を開始しました」

 聞いて、笑いが込み上げてきた。喜んでいるわけではない。何から何まで上手くいかない蜀軍が、そして諸葛亮が、なんとも滑稽に思えてきたのだ。三年もかけた大計であり、諸葛亮にも自信があったのだろうが、呉は約束を履行したという事実を作りたかっただけなのだろう。仄暗い幕舎内が、王平の低い笑い声で満たされていった。

 額の傷に左手を当てながら一頻り笑うと、身を正して言った。いかに蜀軍が可笑しかろうと、王平もその中の一員であり、逃げるわけにはいかないのだ。

「援軍が来るな」

 句扶は頷いた。

「二万です。呉軍が退くとすぐに許都を発しました」

「八万と、十万か。いつまでも武功の平地にいては兵力差で押されてしまうな。俺のところから人数を割けと言ってきたのも、その備えのためか」

「麦の刈り入れが終わり次第、蜀軍は武功水を西へと渡り、五丈原に布陣します」

「背を見せれば、さすがに魏軍は出てくるだろうな。それを俺に防げと丞相は言っておられるのか」

「殿軍は、兄者と魏延殿です。兄者には、特に兵糧庫に敵を近付けるなとのことです。武功水の東側に集積された兵糧を、西岸に運び終えるまで守りきれと」

 集積された兵糧は武功の麦だけでなく、漢中から運び込まれてくるものもあり、その量は膨大だった。武功水を渡すには、かなりの時を要するだろう。

「ところで句扶、前に頼んでおいたあれは、まだそのままか」

「そのままです。丞相もそれを知っているため、兄者が兵糧庫の防衛なのだと思います」

「了解したと丞相に伝えておいてくれ」

「御意」

 燭台の火が小さくなり、照らされていた句扶の姿が暗闇に溶けると、火はまた元の大きさを取り戻した。

 朝がきた。王平は五百騎をつれ、前線の視察に行った。相変わらず籠っている魏軍からいつもと違うものが発せられているのを、王平は肌で感じた。東に見える馬冢原も、どこか蠢いているように見える。

 蜀軍の渡河が始まったと部下が伝えてきた。時が、満ちてきているのだ。


 許都からの援軍が到着し、丸一日が経った。

 今まで眠ったようであった魏軍はにわかに目を覚まし、装備を整えた兵が顔に緊張を滲ませ右へ左へと動いていた。

 東で蜀軍に呼応した呉軍は、あっけないほど容易く撤退し、魏は西へと兵力を送る余裕ができたのだ。蜀軍は八万で、魏軍は十万となり、これで兵数での優位を得たことになる。

 本陣から夏侯覇の陣に伝令が走ってきた。本営の幕舎で軍議をやるから来いとのことだった。

 名を告げ、幕舎に入った。中には司馬懿と、援軍を率いてきた秦朗が向かい合うようにして座っていた。その周りに郭淮や司馬師、馬冢原から来ている費耀もいた。少し離れた所に夏侯玄の姿もある。

「これ以上待つ理由がどこにあるのですか、司令官」

 口髭を豊かに蓄えた偉丈夫の秦朗が、小柄な司馬懿を見下ろすようにして言っていた。黒々とした口髭は綺麗に整えられ、いかにも都人だという印象を夏侯覇に与えた。

「まだ、早い。こちらから出るのは、蜀軍全体が後退を始めてからだ」

「しかしそれでは遅いでしょう。こちらが陣から出て蜀軍の殿軍と接触する頃には、蜀兵のほとんどが渡河を終えています。兵力で圧倒して、大きな戦果を得るには、今すぐ出るべきではありませんか」

 夏侯覇が入ってきたことに気付いた夏侯玄が、末席に座れと目配せで伝えてきた。夏侯覇は音を立てないよう腰を下ろし、文句を並べている秦朗を眺めた。

「麦の刈り入れは終わり、蜀軍が武功に布陣する理由はなくなった。我が軍は増強され、数的優位を得た。誰もが攻め時だと思うだろう。誰もが思うことだからこそ、慎重にやるのだ。蜀軍の諸葛亮は、秦朗殿が思っているほどに甘くはない」

「それで今まで攻めなかったということですか。それではまるで司馬懿殿が」

 秦朗は出かかった次の言葉を既の所で止めた。それを見た司馬師が、椅子を軋ませ立ち上がった。

「まるで、何ですか。怯懦であると、司令官に向かってそう言おうとしませんでしたか、秦朗殿」

「そこまでは言っておらん」

 秦朗がばつの悪そうな顔をして言っていた。何やら面倒なことになっている。

「兵に殺し合いをさせることだけが戦ではありません。魏軍が干戈を交わさないことを秦朗殿は不満に思っているのでしょうが、魏領に侵入してきた蜀軍があそこから一歩も動けない理由をよく考えて頂きたい」

 司馬師からまくし立てられ、秦朗は黙った。口は回れども胆は据わっていないようだ。

「儂は、ずっとここを見ている」

 司馬懿が言い、皆の眼が地図の一点に注がれた。

「武功水のここに、蜀軍の兵站基地がある。蜀軍が武功に布陣する限り、この兵站基地は蜀軍の後方に位置することになり、攻め手がなかった。しかし蜀軍が西へ動き武功水を渡るというなら、ここは後方ではなくなる。そこで必ず隙は出る」

 司馬懿は、蜀軍の八万を追い返すには、あくまで兵糧攻めだと言っている。そう読み取った夏侯覇は立ち上がって言った。

「そこは、私に行かせてください」

 司馬懿がじっと見つめてきた。三年前の戦で、張郃に兵糧庫を攻めるよう命じたのは、司馬懿だった。そして、張郃は死んだ。司馬懿が実力者である張郃を消したかったのではないかという噂は今も魏軍の中にあり、反射的に志願したのは、自分はそんな噂は信じていないとここにいる全員に示したかったからだ。

「よかろう、夏侯覇。お前は手勢の五千騎を率い、兵站基地を急襲しろ。しかし油断はするな。この辺りは黒蜘蛛の調査が届かず、どのような罠があるかわからん。重要拠点なだけにかなりの備えがあると思っておけ」

「御意」

 夏侯覇は司馬懿の言葉に違和感を覚えた。言わなくてもいいことまで言っている。噂がどうあれ、司馬懿は三年前の戦で張郃を死なせたことに後ろめたさを感じているのかもしれない。そう思うと、夏侯覇の心は幾らか軽くなった。

「夏侯覇の騎馬隊を援護する歩兵は」

「それは是非、私に」

 秦朗が言い、司馬懿の顔が動いた。冷たい眼。夏侯覇の背中に一気に鳥肌が立った。この眼は前にどこかで一度見たという気がする。

「では、秦朗殿にお願いしよう」

 満足そうに頷いた秦朗は、司馬懿の表情の変化に微塵も気付いていなかった。

「夏侯覇は、蜀軍の左翼を突破して兵站基地へ。秦朗殿は、それを邪魔しようとする蜀軍歩兵の牽制。郭淮と費耀は後詰だ」

 費耀は返事をしたが、郭淮が俯いていた。

「どうした、郭淮」

「恐れながら、司令官」

 聞くばかりだった郭淮が初めて口を開いた。

「武功のことではないのですが、気になることがあります。蜀軍が五丈原に出るということは、西方の涼州へと続く道を確保できるということです」

 郭淮が五丈原の北を指した。司馬懿は目を見開き、五丈原から渭水を挟んで北に位置する北原と記された高地を凝視した。

「ここから羌族の軍が侵入し蜀軍と合流すれば、我々は数での優位を失うことになります」

 蜀軍と羌の交流はまだ続いていた。北原を押さえれば、蜀軍と羌を繋ぐ道を遮断できる。

「これから敵陣に攻め込み、決戦になる可能性もあるというのに、兵数を渭水の北に割くのはいかがなものですか」

 費耀が幾らか早口で言った。その言葉には多少の焦りが滲んでいるように、夏侯覇には感じられた。郭淮が手柄を立てるのを、費耀は面白く思わないのだ。

「私も、後詰は一兵でも多い方が心強いのですが」

 言った秦朗の言葉を、司馬懿は黙殺した。

「お前は羌族の主だった者に顔が利いたな、郭淮」

「はい」

 郭淮の顔は強張っていた。

「良いところに気付いてくれた。三万で北原を固めてこい。場合によっては、お前の一存で羌の族長と交渉してくるのだ」

 顔を緩め、郭淮は頷いた。

「三万もですか」

 秦朗がまた眉をしかめた。

「それは多過ぎでは」

「秦朗殿、少しうるさいですぞ」

 司馬師が鋭い眼で睨みながら言った。秦朗は何も言い返さなかったが、明らかに不快な顔をして見せていた。

「蜀軍が渡河を始めれば、戦闘に参加する蜀兵は当然少なくなる。蜀軍の八万が、ぶつかる時には六万になるかもしれないし、半分の四万になるかもしれない。そうすれば魏軍の兵に余裕ができる。余裕ができれば、違う手を打つことができる。ここまで噛み砕いて説明すればわかって頂けますかな、秦朗殿」

 司馬師のあからさまな挑発に、秦朗の顔が色めき立った。

「司馬師殿、そのような言い草は無礼ではないか」

「司令官に対して無礼なのはあなたの方でしょう。あなたも一軍の将なら、この程度のことは自分でお考えなさいませ。一々全て説明している暇などありませんぞ」

「もうよい、司馬師。黙っておれ」

 司馬懿に言われ、司馬師は口を噤んで居住まいを正した。

「前衛は、夏侯覇と秦朗殿。費耀はその後詰だ。いつでも出られるように準備をしておけ。郭淮は三万を率い、速やかに北原へと向かえ」

 各々が返事をした。郭淮が先に出て行き、他の武官もそれに続いた。

 帰りに夏侯覇は、文官のいる幕舎に寄って夏侯玄の姿を探した。これから敵の急所を攻めるため、被害に備えての補給についてはきちんと話しておかなければならない。

 何かを記そうとしていた夏侯玄が、夏侯覇の姿を認めて近付いてきた。

「おう、冥土の土産を貰いにきたぞ。遺漏は何もないだろうな」

 以前なら軽い冗談には必ず笑顔を見せていた夏侯玄が、眉一つ動かぬ顔を向けてきた。援軍を乞いに辛毗と都に行ってから、この男も変わっていた。何か嫌な仕事でもさせられたのかもしれない。

「遺漏などはない。物資は長安から船で山ほど届いているからな」

「武具や兵糧は、そうだろう。しかし馬はそういうわけにはいかん。それを教えておいてくれ」

「前に回してやった馬は気に喰わなかったか。できるだけ良いのを選んでおいたのだがな」

 初戦で王平の騎馬隊とぶつかり、その時に出た損害を補充したのは、夏侯玄だった。

「いや、良い馬だった。あれくらいの馬は、あとどれくらい回せる」

「五千騎の内の半分程度だ。それ以上損害を出せば、次から力が落ちると思ってくれ」

「半数か。多くはないな」

 軍馬は、馬であればいいというわけではない。調教に時間をかけて、騎馬隊の動きを覚えさせなければ、それはただの馬だった。騎馬隊は集団行動ができてこそ力を出せるのだ。

「馬は、まあいい。武官の方はどうなのだ。黙って軍議を見ていたが、大丈夫なのか」

 夏侯玄は秦朗のことを言っているのだろう。どこに耳があるかわからないため、夏侯覇はこの話題には触れたくなかった。

「俺は命令に従うだけだ。それ以外の余計なことは考えないことにしている」

「お前はそればかりだな。それがお前の良い所なのかもしれんが」

「意見の食い違いがあろうと、我らは魏国に属している。魏軍を勝たせたいという思いは誰の胸にもあるはずだ」

 とりとめもないことを言っていた。夏侯玄は、静かに首を動かしているだけだ。そんなことより、早く戦場に行きたかった。

 不意に、陣内に銅鑼の音が響いた。戦闘準備の合図だ。

「意外と早かったな。俺は行くぞ」

 夏侯覇は駆けだした。これだけ早いということは、蜀軍の後退が予想より早く行われているということだ。戦を前にして、夏侯覇の血は滾った。

 自陣に戻ると部下たちは既に馬に乗り、徐質が夏侯の旗をはためかせていて、既に号令一つで出動できるように整列している。夏侯覇が手塩にかけて育てた、精鋭の騎馬隊である。

「行くぞ、徐質。俺たちが先鋒だ。恥を灌ぐ時がきたぞ」

 夏侯覇は周りの兵にも聞こえるよう大音声を上げた。戦を待ちわびていたのは徐質だけではないのだ。徐質は顔を強張らせたまま、力を籠めて旗を握りしめていた。

 剣を抜き放ち、馬上で雄叫びを上げた。その声は五千の口に伝播し、やがて馬蹄の音へと変わり、魏軍全体に戦の開始を告げた。

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