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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
漢中争奪戦
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定軍山の敗戦

 辟邪隊の中へと戻ると、王双を始めとする部下達がほっとした顔をこちらへ向けてきた。隊長である王平が捕らえられ首を刎ねられるのではないかと気が気ではなかったのだ。

 王平は隊をぐるりと廻り、何の異常もないことを確認すると、無事ここに戻ってこられた嬉しさ殺していつも通りの調練を始めた。いつも通りのはずの森の中。しかし何かが違った。牢に入れられていたから体が鈍ったということではなく、自分の手足として動くはずの兵達が思うように動かないということだ。

 兵の士気には常に気を配れ。杜濩に何度も言われた言葉が思い出された。上官に対する不信感。それは王平に向けられたものではなく、何の罪もないどころか上手くやってくれた隊長を牢獄へとふちこんだ者に対する不信感だ。

 調練を終えた後、王平は王双と各小隊長を横一列に並ばせ、隊の全員が見ている前で順番に頬を張っていった。

「お前ら、何を考えているのか知らんが、思い上がるな。今日の気の抜けた調練は何なのだ。あれが本番であれば、皆死んでいたぞ」

 いつもなら、叱れば従順にその話に耳を傾けてくれていた。しかし今回は少し様子が違う。

「隊長殿」

 王双が一歩前に出た。

「何故、隊長殿が牢獄に入れられたのか皆納得できていません。あの時の隊長殿の判断は正しかった。無能だったのは」

 言い終わる前に、王平は右拳を王双の鳩尾にめり込ませた。

「俺が牢に入れられたのは、与えられた命令の意に背いたからだ。そして俺の命がまだ長らえているのは、将軍の慈悲のおかげだ。これ以上の不満を見せる者がこの隊にいれば俺がこの手で容赦なく斬る」

 自分でも、言っていることに違和感があると思った。しかしこの瞬間も、どこから趙顒の手の者が辟邪隊を監視しているか分からないのだ。それを分かってか分からずか、それ以上王平に反論する者はいなかったが、その言葉を素直に受け取っている者がいないことはひりひりと肌で感じられた。

「そんなことは、させないでくれ」

 そう言い残し王平は背を向け、逃げるようにして自分の簡素な幕舎へと戻っていった。しばらくして王双を呼ぼうかと考えていると、王双は自らやってきた。無言の王双の顔には怒りや憎しみの色はなかった。

 王双は、王平と向かい合って座り、言った。

「狭くて臭い幕舎だな、ここは」

 与えられた幕舎は他の隊長が使うものより小さく、腕を伸ばすと端から端まで指先が届き、中では汗の酸い臭いが籠っていた。何故、うちの隊長にはもっと良い幕舎を与えられないのだ。王双は、言外にそう言いたいのだ。

「さっきはすまなかった」

「何を謝る、隊長殿」

「腹を殴ったことだ」

「なんの。上の者がどこで俺達のことを視ているか分からないしな。それを知った上で、俺はあえてああ言ったのだ」

「ここは軍なのだ、王双。私情を挟んでは死ぬことにも繋がりかねんと、どうして分からん。張郃将軍に負け、仲間を失った時のことを忘れたのか」

「隊長殿が皆のことを大事に思ってくれていることはよく分かっている。だからこそ、皆は隊長殿を牢に入れ首を斬ろうとした奴のことを憎んでいて、隊長殿のために怒っているんだ。しかし隊長殿は」

「俺のためなど、無用なことだ」

「それは部下達も同じことだ。戦場に来たんだから、自分の死は全員が覚悟している。その覚悟を隊長殿は無視してはいないか。それとも」

 王双が一歩乗り出した。

「隊長殿は、部下の命を守りたくてそう言っているのか? ただ自分の命を守りたいだけじゃないのか?」

 王平はそれを聞き全身の毛を逆立たせた。

「今の言葉は、聞き捨てならん」

「あんたが妹のために洛陽に帰らなければいけないのはよく分かる。俺だって、そう望んでいる。しかし、そのために何か大事なことを忘れてはいないか。はっきり言おう。洛陽では頼もしかった隊長殿の姿が、漢中に来てからは違う姿に見えてならないのだ」

 その言葉が、王平の心をえぐった。

「俺が、隊長失格だと言いたいのか」

「そうじゃない。あまり妹のことに囚われ過ぎるなと言っているんだ。そんな隊長殿の姿、俺は妹には見せたくない」

「子が生まれてくる。この気持ちがお前に分かるのか。俺が帰らなければ歓は一人でその子を育てていかなければならないのだぞ。俺は、歓にそんな苦労をかけさせたくない。俺はどんなことをしてでも洛陽に帰らなければいけないのだ」

「辟邪隊は、今は戦場にいるんだ。そんな想いは言い訳や泣きごとにしか聞こえないと、俺はそう思った。だから、それを伝えにきたんだ」

 頭に一気に血が昇った。そして、自分が抑えきれなくなった。

「黙れ」

 左手で王双の口を掴んで押し倒した。

「俺は洛陽を出る時、歓の姿を見てきた。家の隅で肩を震わせて一人で泣いていたんだ。俺はそれに何の一言もかけることができなかった。その時の俺の気持ちが分かるか」

 下に押しつけられている王双は無抵抗で、静かな視線を王平に向けていた。

「俺がここで死ねば、それが俺が最後に目にした歓の姿になるのだぞ。ここで死ねば、歓は永遠に家の隅で肩を震わせて泣いているだけなのだ。そんなこと、俺には耐えられない」

 声を荒げて一気にまくし立てた。

 口から出てくる言葉がなくなると王平は王双の体から離れ、ばつが悪くなり視線を王双から逸らした。

「すまなかった。別に俺は隊長殿のことを責めに来たわけじゃないんだ」

 それに王平は無言で返した。呼吸は、まだ荒い。

 長い沈黙が流れた。王双の言うことが分からないわけではない。現に、王平は何も言い返すことができない。

「それと」

 ただ俯くだけの王平を見かねてか、話は変わるのだが、と王双は言った。

「それと、句扶って名前を知ってるかい?」

 思わぬ名前が出てきて、王平ははっと顔を上げた。

「その様子じゃ知ってるようだな。密かに忍び込んできて隊長殿と話がしたいと伝えてきたよ」

「それを、他に知っている者はいるのか」

 つい声が大きくなり、王双はしっと王平を宥めた。

「これを知っているのは俺だけだ」

「そうか。その句扶ってのは、巴西にいた時の知り人だ」

「俺の頭は良くないが、そいつがどういう目的で隊長殿に近づいてきたかは概ね分かる。前の作戦の時に森の中で隊長殿が何かをじっと見ていたのは、そこに句扶って奴がいたからだろう」

 王平はじっと考え込み、

「ああ、その通りだ」と、答えた。

「じゃあ俺は言いたいことを言ったし、伝えるべきことも伝えたぞ」

言って、王双は腰を上げた。

「言っておくが、俺はいつでも隊長殿の味方だよ」

 それは王平の心の奥底に響き、どこか痛痒く感じられた。

 一人になると、王平は臭い幕舎の中で横になった。長い間、何を考えることもなくその場にじっとしていた。

 きん、きん、きん。その金属音を耳にし、王平は目を覚ました。いつの間にか寝ていて、外はもう闇夜に包まれていた。幕舎から外に出た。空は暗く厚い雲に覆われていて、それは月や星の輝きの一切を禁じていた。漢中では、こんな天気が多かった。さっきの金属音は、現実に聞こえた音か、それともただ夢の中でのことなのか。幕舎から這い出た王平は、新鮮な空気を心一杯吸い込んだ。それを吐き終える頃にまた微かな音が三回聞こえ、そちらに目をやった。暗闇が隠す木々の中を凝視した。するとすぐに、小さな人影が音も立てずに這うようにして現れた。身構えはしなかった。それが句扶だとすぐに分かったからだ。

 お久しぶりです。

 目の前の句扶が唇の動きだけでそう伝えてきた。

 句扶が手で合図をするので、王平はそれについて行った。軍営から大分離れ、声も届かなくなったところでよやく二人は口を開いた。

「よく来てくれた、句扶。ここまで来るのに、危険はなかったか」

「益州の森は、我等の庭のようなものです。大勢では無理ですが、一人で来るのには難はありません」

 軍人らしくはきはきと答える句扶は、王平が知っている句扶ではないと思えた。あれから、もう三年も経ったのだ。

「兄上がまだ生きていると知って驚きました。私がここに来たのは、兄上を巴西へと連れ戻すためです」

 兄上と呼ばれ、母のことを思い出した。

「巴西の母上はどうしている」

 句扶は少し黙りこんだ。その様子を見て王平は不安になったが、

「御健勝です」と、少しの空白の後に出てきたので安心した。

 顔に、何かの飛沫を感じた。すぐに葉が鳴る音が上から聞こえてきて、雨が降ってきたのだと分かった。

「俺は今、曹操軍で山岳部隊を率いている」

「辟邪隊ですね」

「知っているのか」

「曹操軍のことは、大体調べています。私はそういう仕事をしていますから。下弁で雷銅将軍の陣を乱したのは、辟邪隊だということも知っています」

「では、俺が妻帯していて、もうすぐ子が生まれるということも知っているか」

「いえ、それは初耳です」

 句扶はずっと、同じ調子で受け答え続けた。

「俺も、またお前と会えて嬉しい。しかし」

 突然、句扶が短剣を喉に突き付けてきた。驚きはしたが、それに殺気がなかったので、身じろぎはしなかった。

「何故、敵を前にして動きを止めたのか、と聞かれました」

 句扶が、短剣を下げながら言った。

「巴西の知り人がいたからだと言うと、調略して来いと言われました。それが無理だと分かれば、殺してこいとも」

 ぼそぼそ喋るその声は、なんとか聞き取れるほどだ。そんな句扶は、昔と同じだと思えた。

「そうか。どうするかな、また戦場で会ったら」

「その時は、殺して下さいよ」

「何を言う。そんなことできるか」

 王平が笑いながら句扶の肩を抱くと、句扶も剣を鞘に収めて照れたような笑みを見せた。昔の時が、ようやく戻ってきたような気がした。

 それからしばらく、雨の中でこの三年間のことを話し合った。妻になった王歓のことや、それぞれの軍内での生活のこと。名を王性に変えたことは何となく言いづらく、言えなかった。

 二刻程話すと、二人は別れた。あまり長く軍営を離れていると、またいらぬ疑惑をかけられかねない。雨で濡れた森。その中を行きながら、早く終わらぬかと呟いた自分の声が、やけに大きなものに感じられた。


 張郃の陣営は厳かで、時々思い出したように兵が返答する大きな声が聞こえる。十日前、張郃軍は夏侯淵軍を補佐するに相応しい場所に陣を移した。側面が切り立った崖で守られている、天然の城といえる要害だ。そこは走馬谷、と呼ばれていた。

 王平の辟邪隊は谷の麓に陣取った。敵が走馬谷に攻めてくる場合は、先ずここを通るだろうという場所だ。張郃軍本営に指示されたその配置は敵に対して絶妙で、同時に辟邪隊に対する微妙な不信感もあるのだろうことも見て取れるようだったが、王平は気にしないようにしていた。

 王平は一日に一度、夕刻になると張郃の幕舎に行ってその日の報告をした。張郃は王平に対して特に冷たいということはなかったが、彼の幕僚からはどこかよそよそしい雰囲気が感じられる。それは自分の肌に山岳民族特有の浅黒さがあるせいなのか、趙顒に裏切り者の濡れ衣を着せられてしまったからかは分からない。

 辟邪隊の面々は、辟邪隊が軍の中心から遠ざけられていることに薄々気づいているようだった。それに対し王双が一番に文句を言ってくるかと思っていたが、それはなかった。王双も部下たちも、上の者に対して何も言えない王平に愛想を尽かしているのかもしれない。

「句扶という者に会った」

 夜、王双呼んで言った。王双はその眼をこちらに向けたまま、黙って頷いた。

「懐かしかった。昔のことや、俺が巴西を離れてからのことをしばらく話して別れたんだ」

「そんなことを言うために、俺をここに呼んだのかい」

「俺は、辟邪隊の隊長だ。今までも、これからもだ。それを言っておきたかった」

「そんなこと、分かりきったことじゃねえか」

 言いたかったことは、そんなことではなかった。王平は、言葉に詰まって右手で頭をかきむしった。

「王双、俺は何故戦っているんだ」

 自分は何を言っているのだ。しかしそれは心の底から出てきた言葉だった。

「妻子の所にいることもできず、味方からは牢獄にぶちこまれ、部下達には肩身の狭い思いをさせている。俺は、もう嫌だ」

「隊長殿、ここは戦場だ。こんな時に何を弱気なこと言ってんだ」

「言うべきではない。それは分かっている。だから、お前にだけ言っているんだ」

 慰めの言葉が欲しかった。しかし、飛んできたのは王双の張り手だった。

「何故戦うのかって、生きるためだろう。負けて死ねば、大事なものを失うから戦うんだ」

 体を起こすと、王双が自分の頬を指差していた。王平はそこに思いきり張り手を打ち返した。

「そうだ。俺達が初めて会った時のことを思い出すんだ。あの時は、洛陽でどうやって生きるか考えた挙句、俺に挑んできたんだろう。それは、頭の悪い俺でもよくわかった。その時のことと全く同じじゃないか」

 昔と今では違う。出かかった言葉を、王平は飲み込んだ。

「勝てばいいんだな」

「そうだ、勝てばいい。それは言うまでもないことだ」

 そう言い残し、王双は出て行った。

 勝つと言って、誰に勝てばいいのだ。句扶のいる劉備軍にか、味方であるはずの趙顒にか、それとも自分自身にか。一人になった薄汚い小さな幕舎の中で王平は考えた。考えても仕方のないことだ、と思いながらも懸命に考えた。

 敵が総攻撃を仕掛けてきたのは、王双に殴られたその次の日だった。何の前触れもなく、切り立った崖の上にある張郃軍本陣から火の手が上がった。月明かりが僅かに照らす闇夜である。見張りの報告で王平は飛び起き、夜陰に目を凝らしてみると、岩肌が剥き出しになった谷の壁をたくさんの蟻が這うように何者かが登っているのが見えた。劉備軍の山岳部隊による奇襲。それは思わぬ所から仕掛けられた。

 王双がやってきて、すぐに救援に行くべきだと言っている。逸る王双を手で制しながら王平は部下を集めた。自分が敵なら、どうするか。さっきまで迷っていた自分が嘘のように頭が回転し始めた。

「もうすぐ敵の本隊がこの近くを通る。それを、辟邪隊は迎え撃つ」

 皆を前にして王平は言った。谷の上からは混乱の声が間断無く続き、それを聞いていると今すぐにでも本営へと駆け付けたい気持ちになった。王双も同じなのか、まだ何か言ってこようとしたのを王平は今度は眼で制した。

「下弁でのことを思い出せ。曹休将軍は先ず我々に敵陣を乱れさせ、本隊をぶつけた。劉備軍はそれと同じことやろうとしているのだ。ここで谷に向かえば、逆に我々が敵の本隊に背後を突かれることになるぞ」

 敵の本隊はまだ見えてはいない。しかし、すぐそこにまで来ているはすだ。

 八方に斥候を出した。その間に王平は森の中に潜み、来たる劉備軍に備えた。半刻が過ぎた頃に斥候が戻り、敵本隊が既にここから二里までに近づいていることが分かった。もう、目と鼻の先だと言っていい。敵の斥候に捕捉されぬよう、王平はそれ以上の斥候を出すことを止めた。

 来た。敵の先頭である。王平は、その先頭を行く者に狙いを定めた。飛刀を得意とする者を、王双も含めて十五名前に出した。劉備軍兵士の表情が見て取れるまで近づいた。句扶ではない。そう思ったその顔に、音もなく飛刀が突き立った。その周りの兵士も同時に何人かが倒れた。

「敵襲」

 叫び声が上がった。辟邪隊は、そのまま森の中へと下がった。敵の正確な数は分からないが、行軍途中で伸びきっている軍に対しては辟邪隊の二百だけで十分だと思えた。案の定、敵は少数で森の中に侵入してきた。調練と同じだ。方々で戦闘が始まった。敵の前衛をある程度倒し、退き、また倒すことを繰り返した。戦いの主導権は辟邪隊にあった。ここでの辟邪隊の役目は敵をここに釘付けにすることであり、あとはどこで引き上げるかである。もうそろそろ限界かと思った時、不意に別の方向から喚声が上がった。その方向に、味方はいないはずだ。劉備軍は幾つかに分かれて進軍していたのだと王平は気づいた。何故こんな簡単なことを見落としていたのだ。斥候を出すのを途中で止めたのを悔やんでも、もう遅かった。敵を引き込んでいた辟邪隊であったが、逆に包囲される形になってしまった。

 どうする。そう考えても何も浮かばず、王平の頭には張郃に負けた時のことばかりがよみがえった。

「隊長殿」

 そう呼ばれ、はっとそちらを見た。

「ここは俺が突破してやる。皆を逃がすんだ」

 待て、とも言えず、王平は言われるままに王双の後を追った。新手が見えてきた。張の旗。先頭にはあの虎髭将軍がいた。一際大きな馬と矛を駆る、あの虎髭だ。王双はそこへ矢のように突っ込んで行った。逃げると思っていたのが突っ込んできたのに驚いたのか、虎髭将軍の隊は一瞬たじろいだ。その隙に、部下達はそこから離脱していく。

「そいつはだめだ、王双」

 叫んだが、遅かった。馬上から矛が振り下ろされ、王双の左腕が折れた木の枝のように宙に舞った。どす黒い血液が淡い月光の中に散り、飛んだ左腕は艶めかしく地面に落ちた。頭に血が昇り、体が勝手に短剣を放っていた。短剣は馬の喉に刺さり、とどめを刺そうとしていた虎髭将軍は棹立ちになった馬に振り落とされた。駆けた。苦痛に歪む王双の顔。その大きな体を担いで走り、森の中へと逃げ込んだ。すぐ後ろまで追い付かれているようで、恐くなって必死に逃げた。

 しばらくして、追手が来ていないことに気付いた。虎髭将軍は自分達のことより、張郃本陣を攻めることが先決だと判断したのだろうか。王平は着ているものを破り、人の体ではないようにどろりとした液体を垂れ流す王双の左腕にそれをきつく縛った。

 敵は、意外と早く走馬谷から引き上げて行った。辟邪隊が虎髭の隊を釘付けにして時を稼いだのが効いたのかもしれない、と王平は思った。張郃への報告の前に、王双を養生場までつれて行った。そこはおかしな臭いが立ち込めていて、多くの兵が怪我に苦しんでおり、中には「お母さん」と連呼している者をいる。医師は先ず王双の千切れた左腕を水で洗い、真っ赤に熱された鉄をそこに押しつけた。肉が焼ける嫌な臭いがし、王双は奇声を上げて気絶した。

 それを見届けたところで、張郃からの出頭命令が来た。辟邪隊の働きは決して小さくなかったはずだ。左腕を失った王双のためにも、曹洪の時のような安っぽい恩賞には甘んじられないと、王平は腹をくくった。

「王平です。入ります」

 中では張郃と三人の幕僚が四角い卓の向こう側に並んで座っていて、王平はその向かいに座るようにと促された。

「王平、よくやってくれた」

 当然だ、という思いと共に胸を張った。

「辟邪隊に、続いて任務を与える。定軍山の夏侯淵将軍をすぐに救援してこい」

「御意」

 聞くべきかどうか、一瞬迷った。だが王双の苦痛の顔を思い浮かべると、聞かずにはいられなかった。

「我が隊の隊長に、左腕を失った者がいます」

 言って、やはり言うべきではなかったと少し後悔した。その場の空気が王平の言葉を許してくれそうになかったからだ。

「恩賞のことか、王平」

 張郃が穏やかな声で、しかし苦々しい顔で言った。

「そのことなんだが」

「それに対する恩賞はない」

 張郃の隣に座る者が言った。

「今回の敵を退けることができたのは、夏侯淵将軍がこちらに援軍を向けられたからだ。敵は、その援軍と我々本隊との挟撃を避けるために退いたのだ」

 聞いて、王平は全身の血が逆流するのを感じた。ならば辟邪隊の戦は、全くの無駄だったとでもいうのか。表面に出そうになるその憤りを、王平は懸命に抑えた。

「そういうことなのだ、王平。その援軍のために夏侯淵将軍の本陣は手薄となり、こうしている今も定軍山が攻められている」

 張郃は、諭すように言った。

「手柄を立てたければ、そちらで立ててこい。分かったら、早く行くんだ」

 また隣が、偉そうな口調で言った。王平は恭しく頭を下げ、そこを後にした。


 昔は、戦とは格好の良いものだと漠然と思っていた。だが現実には、それはただ空虚なものでしかなかった。しかしやらねば首を落とされる。戦場に立った軍人は、後に退くことは決してできないのだ。

 走馬谷の陣を出て定軍山へ行く道を半分も行くと、戦う兵の声が聞こえてきた。定軍山は、戦の最中である。王平を始めとする辟邪隊は、進める足を速めた。

 足の裏に伝わる石、草、小さな窪みの感覚が、全て煩わしく感じられた。俺は何をしにあそこまで走って行くのか。戦場のどこかで野たれ死ぬため。いくら否定しようとしても、それを否定しきることはできなかった。

 戦場を目指して走っているはずなのに、目的地からはどんどん遠ざかっていく気がした。しかし、足を止めることはできない。俺は歓の元へと帰りたいのに、どうしてあんなところへ行こうとしているのだ。あそこは、俺が行かなくてはいけない場所から最も遠いはずではないか。それは王双から左腕を奪った。与えられたものは何一つなく、ただ奪った。次は俺から何を奪おうというのか。たった一握りの者が何かを得るために、俺が大事なものを失わなければいけない理由などあるのか。それは怖い、怖いことだった。

 来てはいけない所に、来た。それも、嫌になる程に早く。定軍山の方々からは火が上がり、木が焼けるにおいに混じって人の焼けるにおいもする。先ずは、定軍山の山頂にある本営に行かねばならない。辟邪隊は定軍山を覆う森の中に飛び込み、自軍の中でも限られた者しか知らない裏道を通って山頂を目指した。進むごとに固い葉が王平の体を引き戻そうとし、湿った地面は行こうとする足を掴んでくるようだった。

途中、気配を感じた。それで一度隊を止めたが、その気配は一瞬通り過ぎただけでそれ以上は何も感じず、動物か何かだろうと思いそのまま隊を進めた。

 本営まで来ると。夏侯栄の怒声が聞こえた。所々が砂で汚れてまだらになった白い幕舎内からである。その中へ入ると、顔を真っ赤にして怒り狂う夏侯栄が血に塗れた剣を手にし、その前では兵が胸を赤く染めながら慌てふためいていた。周りには顔面を蒼白にした幕僚が居並び、そこには趙顒の姿もあった。

「父上が討ち取られたなどと、そんなことがあってなるものか」

 斬られた兵は伝令だろうか、胸から血を噴出させながらその血を両手で必死に止めようとしている。さらに剣を振りおろそうとする夏侯栄を趙顒が羽交い絞めにして止め、斬られた兵は引きずられるようにして退出していった。王平の横を通り過ぎたその兵は、何が起こったのか分からないといった顔をしていた。

「遅い、王平」

夏侯栄が趙顒の腕を振りほどき、叫んだ。

「俺はこれから前線に向かう。王平、お前も俺と一緒に来るんだ」

 その眼は、既に正気を失っているようだった。

「なりません、栄様」

 趙顒が言った。

「なりませんとはどういう意味だ」

「ここは一度退いてから」

「うるさい」

 王平が口を挟む余地はなかった。

「父が戦って死んだというのに、何故俺だけ逃げることができるんだ。貴様は俺を、不忠者にしたいというのか」

 趙顒が諌めようとするも頭に血が昇った夏侯栄の耳にはどんな言葉も入らず、全身から怒気を発しながら幕舎から出て行った。それに釣られるようにして趙顒を始めとする幕僚も出て行き、王平もその後に続いた。

 まだ止めようとする幕僚を、夏侯栄は剣を突き付けることで黙らせた。そして、王平の方を向いた。

「隊長、お前はどうなのだ。お前も俺のことを止めるのか」

 向けられた顔は幕僚を睨むその眼とは違い、悲しみに溢れているようだった。まだ、成長の過程にある子供なのだ。

「夏侯栄様、ここでお退きになれば」

「ここで退けば、機はまたいずれ巡ってくる。そんなことは言われなくても分かっている。わかったうえで、俺は退かんと言っているのだ」

 王平は俯いた。ここで行けば、もう一度洛陽に戻れるという保障はない。だが断ることもできない。それは上司の命令に背けないというのではなく、王平がこの少年のことを助けたいと心底から思っているからだ。

「夏侯栄様、ここは」

「黙れ」

 夏侯栄の顔が先ほどとはうって変わり、猛々しいものになった。王平にはそれが、すごく辛いことのように思えた。

「父が殺されたのだ。このまま逃げ出すなど、男のすることか。俺がここで死んだとして、それが何だ。ここで逃げて生き延びることに、何の意味があるというのだ」

 何も言い返せなかった。

「来たくなければ来なければいい。俺は一人でも行くぞ、ただ、止めるな」

 止めることはできそうにない。しかし、殺させたくもなかった。夏侯栄に従って行けば、自分も死ぬことになるだろう。死ねば、洛陽には帰れない。歓にも、二度と会えない。

 なら夏侯栄を見殺しにするのか。見殺しにして、自分だけ逃げ、それで生まれてくる子にどんな顔をして会えばいい。自分の好きな男を見殺しにする。それは生きながらの死ではないのではないか。

 王平は自分が泣きそうな顔になっているのも気にせず、夏侯栄の腕を掴んだ。

「くどい、止めるな」

「行きます。俺も行きます」

 自分は何を言っているのだ。そう思いながらも、その言葉を止めることはできなかった、

「ならば黙ってついてこい」

 夏侯栄が背を向けた。涙を流している自分に気を使ってくれたのか。難しいことはない。この背に、自分はただついて行けばいいだけのことだ。

「待ってください。どうせ行くのなら、勝ちましょう。我々が調練でやったことを活かすのです。例えば」

 西の茂み。そう言おうとした瞬間、目の前に光る何かが走った。見ると、夏侯栄の頭に短剣が突き立っていた。白眼をむいた夏侯栄の体が音を立てて崩れた。崩れたのは夏侯栄の体だけではなかった。趙顒が、幕僚が、そして自分の部下が、頭に短剣や短い矢をうけて倒れていった。王平は先ほどの、裏道を来る時の微かな気配を思い出した。つけられた。劉備軍の山岳部隊。既にそこは囲まれていた。森の影からの攻撃に成す術もなく、仲間は次々とやられていった。

「皆、逃げろ」

 やっと言えたのはそれだけだった。目の前に躍り出た敵の短剣を咄嗟にかわし、その腕を掴んで折った。腰の剣。抜き、突き出す。腕を折られた兵が血を噴き出して倒れた。もう何も考えられなかった。敵。かわし、開いた体を突く。一人、二人、倒した。倒したからどうなる。もう歓には会えない。三人目。その顔は句扶に似ていた。こいつになら、殺されてもいいか。そう思った瞬間、後頭部に強い衝撃を受けた。足が言うことを聞かなくなり、その場に膝から崩れた。死ぬ。すまん、歓。そう声に出したつもりだったが、その前に視界は暗くなっていた。


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