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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
内なる敵
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勝利への不安

 冷たい空気が溜まる幕舎で、諸葛亮は腕を組んで考えていた。

 どこで総攻撃を仕掛けるかだった。兵の小出しは軍学が最も禁じていることで、やるなら一度の攻勢で勝負を決したかった。

 魏軍は地形を巧みに利用し強固な陣を築いている。これを力押しすれば、仮に勝てたとしても、かなりの損害が出してしまう。ここで兵力を大幅に減らすわけにはいかなかった。天水の魏軍を抜き、東へひた駆け長安の巨大城郭を落とさなければならないのだ。城攻めには敵の三倍以上の兵力が必要と言われていて、自軍がここで六万まで減ったとすれば、長安に籠らせる魏軍は二万以下に抑えなければならない。東方からの援軍と留守の軍がいることを考えれば、長安の守兵を二万以下に抑えるというのはかなり厳しい。

 何らかの現状打破が必要だった。それは兵力によるものではなく、謀略による強烈な一手だ。

 一度目の北伐を敢行する時、魏延が長安を急襲する案を上げていた。今思えば、あれが最上の策だったという気がしてくる。当時の長安には何の備えもされておらず、太守は愚昧な夏侯楙だった。天の時は、あそこにあったのだ。

 幕舎に楊儀と費禕が入ってきて、近くに侍る姜維が二人に一礼した。もうそろそろ、蜀軍の主立った武官たちが集まってくる刻限である。

「寒いですな」

 身震いしながら、楊儀が諸葛亮の隣に座った。諸葛亮の側近として兵糧分配等の軍政を仕切っており、今では自然とこの遠征軍の第二の地位に就いている格好になっていた。蜀軍総帥の諸葛亮に何かあれば、次の総帥は自分だと思っている節があった。

 戦である限り、自らが死ぬことも想定しておかなければならない。しかしその時の後継は楊儀だとは考えていなかった。楊儀には人望が無く、この巨大な軍を統率していくには無理がある。人の下に付くことで力を発揮でき、上に立てば無能になるという男が、楊儀という男だと思っていた。

 武官筆頭の魏延は戦の上手であるが、漢王室の歴史的価値を理解しておらず、この軍の総大将に向いているとは言えない。故なき武力は、破壊を生み出すだけの暴力になりかねない。

 兵を養い、魏の打倒を目指すのは、漢王朝の復興という志があってのことだ。後継すべきは軍の力ではない。志に基づく政を残したかった。軍事は、志を全うさせるための手段に過ぎないのだ。

 費禕が手を叩いて従者を呼び、炭に火を入れさせていた。費禕は楊儀のように嫌われてはおらず、費禕から指示を受けた部下は機敏に動いている。費禕はいいかもしれない。歴史に明るく尊王の価値をよく理解している。そして次世代の戦のあり様も理解している。しかし費禕はまだ若年で戦の実績もなく、将兵が付いてくるとは思えなかった。

 やはり諸葛亮が死ねば、蜀軍は撤退の他ない。遠征を繰り返した蜀の国力はもう尽きかけていて、雌伏の時が必要だった。ならば宰相の後継は、蜀国の仕組みと法をよく理解している蔣琬が適当だと思えた。諸葛亮が死ぬことで終戦を迎えれば、しばらくは内政に力を入れるべきで、蔣琬を中心として現場をよく知る費禕に補佐をさせれば、戦で疲弊した蜀の体裁はかなり整うはずだ。

 隣では楊儀が指で卓を叩きながら忙しなく何かぶつぶつ言っている。この軍の総帥が、負けた時のことを考えているとは露ほども知らぬという顔だった。

「張郃が動きました。王平が上手くやってくれるといいのですが」

 魏軍に潜らせていた蚩尤軍が、張郃軍が南へ向かって進発したと報じてきた。それが一つの契機となると直感した諸葛亮は、蜀軍の緒陣地を守る武官に召集をかけたのだった。

 やがて外が騒がしくなり始め、魏延と馬岱が入ってきた。趙統も姿を見せ、他の武官たちも続いてきている。句扶と趙広は忍び同士の暗闘があるため、この軍議には参加しない。

 皆が席に着いたところで軍議は始まった。

「ようやく敵が動いた。魏軍の騎馬隊五千が、南下を始めた。敵の狙いは十中八九、我らの兵站基地であろう」

 居並ぶ諸将の前にかけられた大きな地図を指しながら、楊儀が説明し始めた。

「知らぬ者もいるので言っておく。この木門の兵糧庫は偽装で、心配することは何もない。わざと敵に位置を掴ませ、やってきたところを伏兵で討ち取る。その任は、王平軍に当たってもらっている。敵は罠にかかったのだ」

 罠のことを知らされざわめく武官達が居並ぶ中で、魏延が立ち上がった。

「恐れながら、丞相」

 まだ喋っている楊儀を、魏延が無視するようにして言った。この二人は、あまり仲が良くなかった。

「蜀軍は、今すぐにでも総攻撃をかけるべきです」

「逸られるな、魏延殿。我々はそれを話し合うために軍議を開いているのだ」

 楊儀が言ったが、やはり魏延はそれを無視し、諸葛亮に向かって言っていた。諸葛亮の目には、魏延がどこか焦っているように見えた。

「張郃軍は絶妙な位置に陣取っていました。この絶妙さのため我らは膠着していたと言っていい。張郃軍がいなくなったのは、正に我らにとっての天の時です」

 魏延が必要以上に大きな声で言った。こういう物言いは楊儀が最も嫌うところだった。しかし言っていることは、あながち間違ってはいない。

「騎馬隊一つが動いたからといって総攻撃とは、早計過ぎではありませんか。動いたのは、たかが八万の内の五千なのですぞ」

 楊儀の反論に魏延は一瞥するだけで、諸葛亮に顔を向けて言った。

「丞相はどうお考えでしょうか」

 丞相、あなたも気づいているのだろう。そう言われているように聞こえた。隣では、楊儀が苛立って膝を鳴らしている。魏延が考えていることは、恐らく概ね正しい。しかし楊儀の立場も蔑ろにはしたくなかった。

「攻めなければならない理由を、今ここにいる皆が理解できるよう喋ってみろ、魏延」

 魏延は得たりとばかりに一つ頷き、揚々と地図の前に歩み寄った。

「私が陣取る位置は蜀軍の最右翼にあり、眼前には魏平という将が天険に拠って陣取っています。この高台にいる魏平の陣を抜けば、魏軍の防衛線に大きな穴が空くことが、地図を見ればよく分かると思います」

 丁寧に説明をする魏延の方に武官たちの目が注がれている。頬杖を突く楊儀だけが、違う所を見ていた。

「天険であるこの高地をまともに攻めれば、兵は矢の的になるだけです。しかしここには裏道があるのです。天険ではありますが、人の手で作られたものでないが故、探せば穴はあります」

 講釈家のように言う魏延の言葉は、そっぽを向く楊儀に向けられているようだった。

「この森です。この森を抜け、岩壁に沿って進めば、敵陣から兵の姿は見えません。しかしこの道を使うことはできませんでした。何故なら」

 魏延が張郃の陣を指差した。

「ここに張郃騎馬隊がいたからです。やや離れてはいますが、あの騎馬隊なら一息でやってきます。しかし今は、それがいなくなった」

 諸葛亮が考えていることとほぼ同じだった。しかし本当にそれで上手くいくのか、という疑念はあった。これを司馬懿が読んでいたら、どれだけの損害を被るのか。その穴埋めにはどれほどの時がかかるのか。そんな後ろ向きのことばかりを考えてしまうのだ。

「王平軍からの報告が届いてからでは遅いのですか、魏延殿。司馬懿はかなりの策謀家です。焦って敵の策に嵌ってしまうことがあっては、元も子もありませんぞ」

 魏延が間髪入れずに反論した。

「では、その司馬懿が考えている策とはどんなものでしょうか」

 楊儀は即答できずに喉を一つ鳴らした。

「それを考えるための軍議ではありませんか」

「言ってしまえばきりがないのです。疑念を重ねて機を失するのなら、戦なんて鼻からやらない方がいい、と私は思います」

 物言いこそは丁寧だが、二人の間には緊迫したものが流れていた。そんな二人の様子を、費禕がはらはらして見ていた。

「攻めるとしたら全軍だな、魏延」

 魏延がはっとした顔を諸葛亮に向けた。

「左様。魏平の陣を奪えば、戦況はぐっと我らの有利となります。全軍で攻めるのは、敵の防御を魏平の陣に集中させないためです。この作戦を中途半端に終わらせてしまえば司馬懿は自陣の弱点に気付き、魏平の陣を強化してくるはずです。二度目はありません」

「よろしい、魏延。自陣に戻り、攻撃開始の命令を待て。他の者たちも、自陣に戻って沙汰を待て」

 俄かに幕舎内がざわつき、ようやく戦ができると顔を色めかせた武官たちがぞろぞろと退出して行った。

「いいのですか、丞相。せめて王平軍の報告を待った方が」

「魏平の陣は、私も見ていた。あそこは魏軍の弱点だ。魏延は蜀の軍人として、戦に勝つために頭を凝らしている。それに対して感情的になってはいかん。勝とうと努めている者を黙らせてしまって、どうしてこの戦に勝てるというのだ」

 武官の全員が出て行くと、諸葛亮は強めの口調で楊儀を窘めた。諸葛亮の意外な反応に、楊儀は顔を俯かせた。

「勝負所はここだ。魏延が言っていたように、この機を失してはならん」

「……わかりました」

 楊儀に不満はあるのだろうが、命令には忠実に従い、仕事はきちんと成し遂げてくれる。その種の信頼はあった。

「震えろ、楊儀。あの大きかった魏が、崩壊の綻びを見せる時が来たのだ。我らが戦うべき場はこんな辺境ではない。魏延が言っていた通り、一息に長安を抜こうという気概がなければ、こんな大それた戦はしない方がいい」

 楊儀の顔はもう見なかった。視界の端では費禕が、神妙な面持ちで諸葛亮の言葉を聞いていた。

「これは一つの陣を奪うための戦ではない。長安を落とし、魏国を叩き潰すつもりでいく。漢中の李厳には、東は海の果てまで兵站を繋げる備えをしておけと伝令を出せ」

「大攻勢の前の大事な使者です。費禕に行ってもらうのが良いと思います」

 気を取り直した楊儀が言うと、座っていた費禕が立ち上がった。

「よかろう。費禕、すぐに支度しろ」

 費禕が一つ返事をした。

 勝機が巡ってきた。幾度かの大きな戦を経験し、ようやく諸葛亮にも戦の機微がわかるようになってきた。古今の名将が名将だと呼ばれる所以は、この勝機を逃さなかったところにあるのだろう。自分はそれを逃し続けてきた。

「長かったな。情けないほどに、長かった」

 何が、という顔を楊儀が向けてきた。

「それは、これだけの大軍同士の戦ですから」

 諸葛亮は眉をひそめた。やはりこの男は大きな物事を旋回させる人物にはなりえない。

 そんな心とは裏腹に、諸葛亮は楊儀に微笑んで見せた。

「そうではない。魏の打倒を掲げてから、もう三年が過ぎているのだ。それだけの時をかけ、ようやく機というものがわかってきた。機を潰してしまうのは、敵の軍や策でなく、己の内から出る不安や怖れだということも」

 名将や豪傑と呼ばれる者とは何が違うのかと、昔から考え続けていた。答えを出し、我がものにしたいと長く願っていた。

「浅薄な蛮勇に引き摺られ、全軍が崩壊するようなことがあってはなりません。慎重になるのは当然のことではありませんか」

 諸葛亮は微笑を浮かべ続けていた。楊儀を見ていると、決して遠くない昔の自分を見ている気がする。楊儀の言う蛮勇こそが、昔から諸葛亮が強く欲していたものだった。それは蛮勇と呼ぶこと自体が間違っているのかもしれない。負け続け、深く悩むことで、受け入れ難いものをようやく認められるようになってきた。

「軍を動かす者として知っておくべきことを、私は知らなかった。これまで勝機を逃してきたのは、誰のせいでもなく、私の弱さのせいだった」

「戦の前に、何を弱気なことを申されますか」

「齢の近いお前に、一度だけ愚痴を聞いてもらいたかった。もう、言わん」

 楊儀が、少し鼻を掻いた。背後では、彫像のような姜維が二人の会話を聞いていた。

「たまには弱気になってみるのも悪くはないぞ、楊儀。強気で虚飾を張るより、弱気になって初めて見えるものもある。そこで見えてくるものは、決してつまらないものではない」

 伝令が慌ただしく幕舎に入ってきて、姜維が一歩前に出た。

「何事だ」

「王平将軍が、敵将張郃を討ち取りました」

「やったか」

 楊儀が卓を叩いて唸り声を上げた。諸葛亮も、卓の下で自然と拳を握りしめていた。

 あの厄介だった張郃が消えた。これで魏軍の戦力は大きく削がれたはずだ。

「連弩と銅扎馬釘に感謝するとのことです」

 銅扎馬釘とは馬用の鉄菱のことで、これも諸葛亮が作り上げていた。

「張郃を討ったと全軍に伝えろ。隊長格の者だけでなく、兵の耳にも入るように言って回るのだ」

 半ば興奮した楊儀が早口で捲し立てた。楊儀の言葉を受け取った伝令兵たちが次々と幕舎を飛び出して行く。

 諸葛亮は一瞬の興奮が通り過ぎると、猛る楊儀とは正反対に、胸の内から不安が滲み出して手が細かく震えていた。大きな成功が近付くほど不安になるのは、どうしようもない性分だった。

 蜀軍陣地が動き始めた気配が本営にまで伝わってきた。諸葛亮は楊儀に気付かれないよう、心の内から湧く不安を己の中で噛み砕いた。

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