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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
司馬懿の台頭
64/140

魏軍の指揮官

 郭淮は対峙中の陣内にあり、軍市を警護していた五百の部隊が帰ってきたのを馬上から眺めていた。皆が穏やかな顔で談笑しながら歩いている。これと入れ替わりで、七百が警護に向かった。人数が増えているのは、後方にある軍市の規模が大きくなっているからだ。

 妙な戦になってきた。長安から遠く離れた天水まで大軍を率いて来たというのにまだ一度も干戈を交えておらず、それなのに兵には銭が支払われ、軍市はいよいよ盛んになっていた。

 対峙が続き、先に動いた方が不利だというのは分かる。しかし、軍の姿がこれでいいのか。調練の駆け足は兵に毎日課してはいるが、この調子でいざ蜀軍が攻めてきた時に戦うことができるのか。

 郭淮は司馬懿に歩兵の総指揮を任されていた。だがその実は戦いの指揮官というより兵の守り役といった方がよく、乱れた軍紀を正すのに奔走するのが主な仕事になっていた。陣内には、具足姿のまま地べたに座って賭博をしている者もいれば、昼間から道端で麻を吸って笑っている者もいる。それを叱りつけて回るのだ。

 近くで怒声が聞こえた。ふと見ると、歩兵隊長の一人である魏平が、すごい剣幕で座談をしていた兵を追い散らしていた。

「御苦労、魏平」

 気付いた魏平が息をついて気を取り直し、こちらに拱手してきた。

「郭淮殿、お恥ずかしいところをお見せしました」

「なんの。今の軍内はどこも同じようなものよ。お互い骨の折れることだな」

「遊ぶばかりで戦もせず、これでは兵の士気が落ちるばかりです。総指令官の司馬懿殿は、全く何を考えておいでか」

 魏平はかなり苛ついているようだった。無理もない。蜀軍と戦いに来たというのに、司馬懿は兵を軍市で遊ばせ、指揮官は自軍の見廻りばかりをさせられているのだ。蜀の大軍がすぐそこにいるというのに、これでは何をしに来たのかわからない。

「愚痴ったところで仕方あるまい。魏平も気晴らしに軍市に行ってみたらどうだ」

「郭淮殿までそう言われるのですか。俺はあんな所には行きません。ここには戦をするために来たのですから」

 軍市に行こうとしないのは、司馬懿に対する声なき抗議でもあるのだろう。文官である司馬懿から小遣いを貰うようで、軍市を使うのに抵抗があるという武官は魏平だけではない。戦を知らない文官が、という侮蔑のような思いが、どの武官にも少なからずあった。

 軍市から帰ってきた兵の一団がまたやってきた。端々に女の話をする声が聞こえ、郭淮と魏平の姿を認めるとさすがに静かになって通り過ぎて行った。その間、魏平は腕を組んだままじっと兵の方を睨みつけていた。

「これはもう軍ではありません。大所帯で道楽の旅に来ているようなものです」

 魏平が吐き捨てるようにして言った。兵の一団は遠くに離れると、また談笑を再開していた。

「郭淮殿は、あの軍市には行かれたのですか」

「まさか。あれに反感を持っている部下がいるというのに、俺が率先して行くはずがないだろう」

「それはそうです。愚問でありました」

 そう言う郭淮だが、何か名目があれば少しくらい行ってもいいかとは思っていた。軍市で兵がどのように過ごしているかも見ておきたい。だがそれは、部下の前で口に出していいことではなかった。

 これだけの大軍同士が膠着してしまうと、そうそう簡単にぶつかり合いが起こることはない。対峙が続けば兵の力比べよりも、司令官同士の知恵比べの勝負になってくるはずだった。司馬懿は戦陣に立って野戦をするような大将ではないが、知恵比べの勝負となると、張郃も含めた全ての武官よりも優秀なのではないかと郭淮は思っていた。それで勝てるのならいい。そういう形の戦になれば、どこか人目の少ない陽当たりの良い場所で昼寝でもしておくつもりだった。

「蜀軍の本陣がある祁山は、俺がいた場所なんです。俺があそこを守っていたというのに、蜀軍が来るなり退がってこいと言ったのはあいつなんですよ」

「その言い方は不敬だぞ。口を慎め」

 言われて魏平は顔を顰めながらも頭を下げた。

 この戦が始まる前まで、魏平は祁山にあって武都に駐屯する蜀軍の監視をしていた。それが蜀軍の侵攻が確定的になると、すぐにそこから立ち退くように命じられた。命じたのは、新司令官となった司馬懿だった。

 八万の軍勢が展開するには、天水の周辺が守り易く、渭水を使えば水上で兵站ができ、蜀軍を食い止める場所としては妥当だった。祁山にまで兵を進めるとなると、そこだけが突出し過ぎる形になってしまい、蜀軍に包囲されてしまうのは明白だ。戦の直前に兵を後退させるのは決して好ましいことではないが、司馬懿がそれに躊躇した気配はない。なかなかの英断だ、と郭淮は密かに思っていた。魏平はそれを理解しているのかいないのか、ただ自分が後退させられたというだけに対して感情的になっていた。

「怒っても仕方あるまい。不満はあるだろうが、魏軍は決して不利な位置に立たされているわけではないのだ。蜀軍が攻めあぐねている間は、まだ良しとしておこうではないか」

「それはそうですが、あまり出鱈目が過ぎれば、いつか爆発してしまいそうですよ」

 そうして話していると伝令がやってきて、魏平と二人して司馬懿のいる本営の幕舎に呼ばれた。行くと、別の歩兵指揮官である費耀も呼ばれていた。

 中に入ると、司馬懿の補佐官である辛毗が三人の前に座り、慇懃に口を開いた。

「各々方、陣内の様子はいかがでしょうか」

 屈強な三人の武官を前にして、弱弱しい文官体の辛毗が下手に出ながら言った。いかにも魏平が嫌いそうな態度で、郭淮が横目でちらりと見ると、魏平は細かく膝を動かしていた。

「どうもこうも、戦がなければ士気が落ちるばかりです。蜀軍が陣取るあの祁山には、いつ攻め込むのですか」

「あそこを守っていた魏平殿のお気持ちは分かりますが、祁山に攻め込む予定は今のところありません」

 下手に出ながらも、辛毗はきっぱりとした口調で言った。魏平があからさまに不満な顔を見せている。

 まだ何か言いたそうにする魏平を抑えるようにして、郭淮は喋った。

「守ることが上策なのはわかりますが、このままでは兵の士気は緩んだままです。このことについて、司令官はどうお考えでしょうか」

「戦に逸ってもらわれては困るのです。八万の軍勢でここを守っていれば、蜀軍は動けません。それは諜報による情報からも確かです。多少兵の士気が緩んでも、この対峙を維持させ続けることが今のところの方針です」

「戦に逸る者を上手くたしなめ、その上で士気をある程度維持させておくというのが、当面の指揮官の仕事だということですな」

 費耀が言い、辛毗が深く頷いた。費耀は魏平ほどに不満を持っていないようだった。そんな器用なことが、と魏平がひとりごちた。

「対峙しながらも、司令官はこちらから攻める作戦を考案中です。まだ詳しく明かせませんが、その時は張郃殿の騎馬隊に働いて頂く、とだけ言っておきます。歩兵指揮官の各々方にもそれに備えておいて頂きたい」

 それを聞き、魏平がようやく膝の動きを止めた。

 辛毗の目が、魏平に向けられた。

「軍人が戦をできないということに不満を持つのは当然のことです。しかしそれは長くはありません。今しばらく、お堪えください」

「わかりました」

 魏平が呟くようにして言った。攻めの作戦を考えていると聞いて、一応納得したらしい。

「それまでの間、これを暇潰しの慰めにでもお使いください」

 三人の前に銭の袋が置かれ、それでまた魏平がいきり立った。

「これは受け取れません。我々はまだ軍人として働いてもいないのですぞ」

「この陣地を守っておいでです。蜀軍がこれ以上進めずにいるのは、あなた方の働きあってのことではないですか」

「しかし」

 辛毗がさらに銀の袋を押し出し、費耀が恭しく銭の袋を懐に入れたので、郭淮も同じようにした。それを見て、魏平も渋々という感じで受け取った。

「私からの話はこれまでです。歩兵の総指揮をしておられる郭淮殿はお残りください。司令官から話があります」

 二人が出ていき、郭淮だけがそこに残った。そして辛毗に導かれ、奥に連なる大きな幕舎に入った。

「おう、郭淮。まあ座れ」

 言い草に少し不快なものを感じながら、促されるまま郭淮は腰をおろした。本来ならここに張郃が座っていて、郭淮と昔の戦話に一花咲かしていたところだ。それを司馬懿はどういう術を使ったのか、張郃を出し抜いて対蜀軍総司令官の座に就いていた。さっきの司馬懿の言い草が張郃なら、不快なものなど全くなかったはずだ。

「お前には、やってもらいたい任務がある。ここから西に向かい、羌族どもを懐柔してもらいたい」

 郭淮は長らく長安にいるため、羌族との関わり合いが深い。涼州へ行けば自分の顔を知っている主立った者は少なくないのだ。

「羌と蜀の結び付きは、まだ続いているのですか」

「同盟と言えるような強いものではない。戦ばかりしている蜀には、羌に与えてやれるだけのものがないのだ。しかし不測の事態は避けねばならん。こちらから多少の財物をくれてやれば、羌族が我らに敵対する理由はなくなるだろう」

 不測の事態と言われたことが、少し引っ掛かった。二年前の戦で、郭淮は蜀軍に散々蹴散らされたのだった。その時の敗因は、羌族の動きをきちんと把握しておかなかったからだ。引っ掛かりはしたが、皮肉を言っているような響きはなかったので、郭淮は嫌なものを自分の中で押し殺した。

「では、明朝に発とうと思います」

「そうしてくれ。援軍を乞うようなことはしなくていい。涼州で静謐を保っておくだけで、それなりの物が手に入ると思わせれば、それで十分だ」

「武都に蜀軍の大々的な拠点を築かせてしまったのは私の責任ですから。使者としてですが、戦に臨むつもりで行きます」

 司馬懿はそれに何も答えず、ただ虚無的な笑みを見せただけだった。

 郭淮は自陣に戻ると、張郃に護衛の騎馬小隊を出してもらうよう、伝令を出した。快諾の旨はすぐに返ってきた。

 そうしている内に、日が暮れた。

 魏平からの申し合わせがあり、夕餉は郭淮の幕舎で、費耀も含めて三人でとることにした。

「司令官から何を言われたのですか、郭淮殿」

 饅頭と羊肉を焼いたものが並べられた卓を前にして、魏平が言った。軍市が近くにあるため、食う物は多少良いものを購えるのだ。

「涼州に行くことになった。羌族がこの戦に介入してきたらややこしいことになるからな」

「郭淮殿は、羌に顔が広いですからね」

 羊肉に塩をたっぷりと付けながら魏平が言った。言い草から、まだ多少のわだかまりはあるようだ。

「お前ら、貰った銭は何に使うんだ。司馬懿殿が期待しているように、軍市に行くのか」

「私は軍市で羊を一頭買うことにしました。それを陣内で丸焼きにして兵に食わせ、力を付けさせようかと」

 費耀が言った。

「それはいいな。俺もそうするか」

「こんな良いものを食えるのは平時だけでいいんですよ。戦時は質素なものを食うから、戦に勝って良いものを奪おうとする。兵ってのは、そうやって力を出すもんでしょう。そんな兵の基本的なところを、あの司令官は何一つわかっちゃいない」

 魏平は人の何倍も塩を肉にまぶして食っている。なんて辛そうだ、と郭淮は見ていて思った。

「そういうお前も、兵に肉を食わせてやるのだろう」

「他の隊が良い思いをして、俺の隊だけそうじゃないっていうんじゃ、兵が不満を持ってしまいますからね。都の宴会じゃないんだから、軍の指揮官にそういう気を遣わせる総司令官ってのは如何なものですかね」

「口が過ぎるぞ、魏平。どこで誰が聞いているのかわからんというのに」

 費耀が少し怯えたように言った。

「前の蜀攻めで、あの文官は蜀軍に散々負けたっていう話じゃないか。張郃殿を総司令官にすべきだって、俺は本気で思うよ」

「そのへんにしておけ、魏平」

 郭淮が強めに言うと、魏平はさすがに悪びれた様子で黙った。

 費耀が言うように、どこで誰が聞いているかわからなかった。

 司馬懿は軍属の部下とは別に、不気味な集団を私兵として使っていた。その集団は司馬懿の意を汲んだ忍び働きをしていて、黒蜘蛛と呼ばれていると張郃から教えられた。魏軍の各指揮官も黒蜘蛛に監視されているかもしれず、注意しておくのが無難だった。

 郭淮が黒蜘蛛の存在を知るきっかけになったのは、血縁のある郭奕が黒蜘蛛の棟梁をしていると小耳に挟んだからだ。男色であるため親類であると認めたくなく、疎遠になっている男だった。

「張郃殿の騎馬隊を使った作戦を考えていると言っていましたが、それはどういうものなんでしょうかね」

 費耀が饅頭に手を付けながら話題を変えた。

「常道であれば、敵陣の奥深くに送り込んで糧道を断つといったところか」

「前に郭淮殿がやって蜀軍を退けたという作戦ですね」

「あれは張郃殿がやったことだ。張郃殿は自ら蜀軍主力の前に立って囮となり、その隙を突くことで成功した。俺がやった仕事だとは、なかなか言い難い」

「なんにせよ、作戦の直前になれば兵に性根を入れ直さねばなりませんな。軍市の一時的な利用禁止も考えておかなくては」

「一時的にじゃなくて永久に禁じてしまえばいい、そんなものは」

「それでも軍市のおかげで長安に銭が流れて、民は喜んでいるようだぞ。軍市も悪いことばかりではないようだ」

「お前は武官のくせに、文官のようなことを言いやがるな、費耀。俺らは民を儲けさせるために戦をしているんじゃねえ。蜀軍を倒すためにやってるんだ」

「民を儲けさせるのも、戦に勝つためだと思えばいい。戦をやることで長安が富んで人が集まり、民の協力が得られるようになれば、魏軍はもっと強くなるだろうさ」

「何を馬鹿なことを言う。前線で血を流すのは兵であって、商人じゃねえ。前線に立つ兵が銭に浮かれて惰弱になったんじゃ、元も子もないだろう」

「それはそうだが」

「張郃殿が総指揮官なら、軍市を設けるなんてことはなかった。そんなものに頼ることなく、力で蜀軍を捻じ伏せていたはずだ」

 郭淮は魏平の言葉を聞きながら、張郃の心情を思い浮かべていた。軍の指揮能力でいえば、張郃は魏軍の並み居る武官の中で群を抜いていた。その魏軍最強とも言うべき将軍が、わけのわからないやり方をする文官の下に甘んじている。張郃がそれを不満だと感じたことは、今の今まで一度も無かったのだろうか。少なくとも不満を感じさせるような言動は一切無く、その話題には触れようともしない。

「張郃殿は今のままでいいのだ。あの方は、現場で騎馬隊を自由に指揮してこそ力を出せるのだと御自身でも言っておられる。軍の頂点など煩わしいことばかりで御免だと、笑っておられたよ」

 郭淮も張郃が総司令官になるべきだと思っていたが、軍の主立つ者の一人として、軍の秩序を乱すようなことは間違っても言ってはならない。軍内にいらぬ噂が流れれば、それは蜀軍の利することとなるのだ。蜀軍にも黒蜘蛛のような忍びの部隊がいて、どのような離間をかけてくるかわからない。

「もうすぐ戦ができる。それがわかっただけでもいいではないか。作戦の開始は恐らく、俺が涼州から帰ってきてからだろう」

「辛毗殿が言っていたように、兵に備えさせておかねばな、魏平」

 費耀が魏平を励ますように肩を叩き、魏平が叩き返した。

 早朝、外が白み始めた頃に郭淮は起き、騎馬隊の待つ営舎に向かった。張郃に出してもらった五十騎は既に騎乗で待っていた。この統率の高さは、さすがは張郃麾下と言ったところだ。

 張郃の麾下と共に馬を走らせると、街亭での戦いが思い起こされた。この駿馬揃いの騎馬隊で行けば、往復で早くて六日といったところか。そして帰ってくれば、戦が始まる。郭淮は朝日を後ろに背負いながら、馬を西へと駆けさせた。魏軍の陣が、後ろでどんどん小さなものになっていった。

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