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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
漢中争奪戦
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漢中へ

 洛陽を離れる日がやって来た。王平はこのところ、ずっと辟邪隊の出発に備えた雑務に追われていた。兵糧や武具の受け取りと配分が主な仕事で忙しいわりには退屈だったが、手を動かしていれば戦への不安は薄れた。もうここには帰って来られないのではという不安だ。もし自分と王双が戦で死ぬようなことがあれば、王歓とそのお腹にいる子はどうなってしまうのか。歓はまだ若い。子を育てるために、自分の体を売るようなこともあるのかもしれない。そんなことは、考えただけで身が内から張り裂けるくらい嫌だった。巴西には帰れなくてもいいから、この洛陽に帰ってきたい。自分はもう何平ではなく、王平なのだ。

 王平は進発前、王歓に会うべきかどうか迷っていた。ずっと軍営にいたためもう十日は会っていなかった。会えば、逃げだしたくなってしまう気がした。王平と名を改めることでまた洛陽に帰って来る決意を固めて王歓に示した。歓は、それを喜んでくれた。それでいいではないか。王平は自分に何度も言い聞かせたが、辟邪隊を含めた軍が洛陽を出る直前になると、王平は胸が締め付けられるような想いを感じた。歓に会いたい。目を閉じると、歓の色々な表情が瞼の裏に甦ってきた。

「行ってこいよ」

 王双にそう言われた。すぐ戻る。反射的にそう答え、王歓の元へと駆けた。これでいのか、自問しながら駆けた。背後には自分の隊があり、部下がいる。後ろめたさを感じながらも、王平は駆けた。

 王歓がいる家まで来ると、王平はそっと中を覗いてみた。小さな部屋の片隅で、王歓は小さくうずくまって肩を震わせていた。それを見て、王平は暴力的に自分の足を来た道へと向け返し、その足で自分の体を軍営の方へと無理矢理運んでいった。声をかけてやりたかった。震える肩を抱きしめ、もう大丈夫だと言ってやりたかった。だがそんなことをすればもうそこから出ていけなくなるだろうことも痛い程に分かってしまった。だからこそ、そこに入ることはできなかった。

 軍営に戻ってきた王平はいつも通り、荒れた心を隠すため胸を張って歩いた。やがて、軍の進発が始まった。


 洛陽から西の古都長安に入り、陳倉を抜けて漢中に入った。久しぶりの広大な山地は、王平の荒れた胸の中を癒してくれるようだった。

「久しぶりだな、何平。いや、今は王平だったか」

 漢中に着くと、朴胡が会いにきた。王平は、心がぱっと明るくなったような気がした。

「本当に久しぶりだ。洛陽に一人残された時は寂しかったぞ」

 三年ぶりに会った朴胡は一隊長に格上げされており、体は一回り大きくなって顔は自信に満ちていた。体の所々には小さな傷痕が刻まれており、そこで繰り広げられている戦の激しさを連想させられた。

「俺は杜濩様や袁約様と一緒に、巴西に行くことになっている。それまではしばらく時があるから、今夜は酒でも飲みながら語りあかそう」

 その夜は、朴胡から色々なことを教えてもらった。益州の総司令官は夏侯淵といい、曹操の従兄弟にあたる人物だという。穏やかな性格で、武芸は剣や槍などではなく弓を好むらしい。山岳民族を差別しない良い司令官だ、とも言っていた。

 漢中の街に兵はいたが、ほとんど民はいなかった。曹操が漢中を奪った時に、そこは戦の最前線だからということで、住んでいた民は全て北のどこかの街に移されたらしい。この戦乱の世では、民さえも国が奪い合う財産の一つとなるのだ。強制的に移住させられた民の中に自分と歓のように離れ離れにされた者もいたのだろうか、と王平は思った。

 王平と王双は朴胡に案内され、漢中の本営に出仕した。

「辟邪隊隊長、王平です」

 夏侯淵将軍は口髭を蓄えた穏やかな表情で、洛陽からの行軍を労う言葉をかけてくれた。そしてこの戦場における訓示をくどくどと述べた。将軍の傍らには、まだ顔に幼さの残る少年がいた。若いがその厚いまぶたの奥からは、強い視線がこちらに向けられていた。それから、洛陽から漢中に送られてきた軍の小隊長が集められ、郭淮というまだ若い武官が戦線についての説明を始めた。

 漢中から西へ行くと定軍山があり、そこが今の最前線なのだと郭淮は言った。劉備軍の本隊はそこから二百里離れた所に駐屯し、兵数は六万と六万で同等だった。しかし劉備軍には圧倒的な地の利がある。深い山と谷に囲まれている益州はそれ自体が大きな砦のようなもので、うかつに兵を進めようものなら大きな損害が出ることになるのだ。巴西で生まれた育った王平には、それがよく分かった。

定軍山の前線で指揮を執っているのは張郃という将軍だと聞かされ、王平は心の底から猛るものが湧きあがってきた。忘れることができるはずもない名だった。王平は張郃に負けた時のことを思い返してみて、あの時どうやったら勝てたかを何度も考えてみたが、あの軍が負けるところをどうしても想像することができなかった。今やその将軍が味方となるのだ。心強くないはずがなかった。

郭淮の説明が終わると、さっそく調練に打ち込んだ。漢中の森は洛陽周辺のそれとは違う。植物が違い、土が違い、空気が違う。ここの森はまるで一つの大きな生き物のように息づいているのだ。

「今まで洛陽で調練してきたことと、ここで調練することは違うことだと思え。兵を早くこの森に馴染ませなければ、勝てるものも勝てない。蜀軍にも優秀な山岳戦部隊がいるからな」

 王平はそう言って自分の隊を戒めた。

 杜濩、袁約、朴胡の率いる三隊が、劉備軍の別働隊を牽制するために巴西へと向かって行き、漢中に駐屯する夏侯淵将軍も定軍山に向けて動いた。大きな配置替えが行われている軍営内は、風雲急を告げていた。

そんな慌ただしい中でも調練を欠かすことはできない。王歓のため、生き残るためだ。

調練を始めようとしていると、背の低い男が辟邪隊の軍営に入ってきて言った。

「俺も調練に加えて欲しい」

 夏侯淵将軍の近くにいた少年だった。まだ若過ぎるほどに若い。

「名を教えて頂けますか」

 少年とはいえ、将軍の近くにいた者だ。王平は慎重に言葉を選んだ。

「名などどうでもよい。曹操軍の兵が調練をしたいと言っているのだ。調練をするのに、それ以上どんな言葉が必要だというのだ」

 風貌は若かったが、その言葉は堂々としていた。

「小僧、いくつだ」

 近くにいた王双が荒々しく言った。

「十二だ。それがどうした」

「威勢がいいのは結構なことだが、まだ体も成長しきっていない子供がこの隊に加わっても足手まといなだけだ。後で木剣の使い方でも教えてやるから、調練が終わるまで待っていろ」

「黙れ。俺はこっちの隊長と話しているのだ。それに俺はこの隊に加わりたいわけではない。この隊の戦い方を知りたいのだ」

「この餓鬼。言わせておけば」

「よせ、王双」

 口は悪いが嫌な感じはしなかった。ここまで言うなら兵の一人として扱ってもいいかという気に王平はなった。

「小僧、そこまで言うなら勝手に付いてこい。その代わり、弱音を吐くことは許さんぞ」

 その少年は、つぶらな瞳でこちらを見つめながら頷いた。その瞳は、痛すぎる程に少年のものであった。

「色々と教えてやるから、俺のそばを離れるな」

「わかった」

「おい、こいつに山岳戦用の武具を渡してやれ」

 部下に命じ、少年はその部下に付いて行った。

「隊長殿、なんだってあんな小僧に」

「あれは夏侯淵将軍のそばにいた少年だ。恐らく、将軍の息子か何かといったところだろう」

 それを聞いた王双は、目を丸くさせて唾を飲み込んだ。その顔が面白く、王平は思わず吹き出し笑いをした。

 少年が出てきた。腰に佩いた二本の短剣が大きく見え、つけた具足はだぶついていた。

「もっと小さいのはないのか」

「それしかない。ところで、名は何と言うのだ。教えてくれなければ、呼ぶ時に困る」

「栄、と呼べ」

「夏侯栄か。将軍の息子とはいえ、容赦はせんぞ」

 夏侯栄は、はっとこちらに顔を向けてきた。

「なんだ、知っていたのか」

 夏侯栄はつまらなさそうな顔をした。その顔は、やはり子供だった。

「言っておくが、一日とはいえ俺の隊にいる間は、隊の者に対する不遜な態度は許さん。それが我慢できるのなら付いて来い」

「わかりました」

 夏侯栄は素直に返事をし、手を前に組んで礼をして見せた。

 将軍の息子がいるからといって、調練の手を緩めはしなかった。こごみ歩きができなくなって倒れた夏侯栄の尻を蹴り飛ばし、森の中で伏せていた時に動いた腕を締め上げた。調練が終わる頃には、夏侯栄は動けなくなっていた。王平はそれを背負って軍営まで運んでいった。

 夕食の用意がされ、王平と夏侯栄は火を挟んで向かい合って座った。

「よく最後までがんばられましたな、夏侯栄様」

「その口調はよしてくれ、隊長。確かに入隊は今日だけだったが、いきなりそんな口調で話されたら喋りにくい」

「そういうわけにはいきません。将来、一軍の将になろうという者が、単なる一隊長と対等に話をされては威厳を失ってしまいます」

「俺に軍学を教えてくれる者も、そんなことを言っていた。嫌な感じだと思っていたが、そういうものなのかな」

「それを嫌な感じだと思ってくださる。それで我等は幾らか心が休まります」

「隊長がそう言うのなら、そうしよう」

「どうして、兵の調練をしてみようと思ったのですか」

「兵を率いる者は、兵のことをよく知っておかなければならんと父上が言っておられた」

「将軍の命でございましたか」

「違う。調練をしてみようと思ったのは、俺の意思だ」

 目の前で、火にくべられた小さな鍋が煮立ってきた。王平は鍋の中身を器にとって、夏侯栄に渡した。夏侯栄は熱そうにしながらそれを口に入れた。

「なんだこれは」

「穀物を練って玉にしたものです。お味はどうでしょう」

「うむ、これは、なんというか」

「まずいでしょう。まずいと、遠慮なく言ってくれていいのです。兵はこんなものを戦中に食します。それでも慣れると、これがなかなかうまく感じられるようになってくるものなのですよ」

 夏侯栄は難しい顔をしながら口の中のものを飲み下した。

「俺はまだまだ知らぬことが多いのだな」

「これから知っていけば良いのです。下の者は上の者にそうやって知ってもらえると嬉しいものです」

 そう言い、王平も兵糧を口に運んだ。その瞬間、側頭部に何かがぶつけられて王平は横にふっ飛んだ。

「よせ、趙顒」

 倒れた体の背後から聞こえた。

「探しました、夏侯栄様。こんな所で何をしておいでです」

「調練に参加させてもらっていたんだ」

「ほう」

 立ち上がろうとした王平の顔に、足が飛んできた。さっきの一撃も蹴られたのか、と王平は転がりながら思った。

「貴様、この方が誰か分かっているのか」

「隊長殿に何しやがる」

 どこからか王双が現れた。

「構うな、王双」

 王平が叫んだ。

「私は夏侯栄様の目付をまかされている。あろうことか、夏侯栄様をこんな目に合わせるとは」

 趙顒は夏侯栄の傷を焚火に照らし見ながら言った。

「やめろ趙顒。これは俺が自分から言い出したことなんだ」

「申し訳ございません。夏侯栄様を調練に連れ出したのは、他でもない私でございます」

 言って、王平は平伏した。

「隊長、やめてくれ。俺がつれていけと言ったのだ。この者には、何の罪もない。だから趙顒、お願いだからやめてくれ」

「このようなところで、このようなものを食されてはなりません。お父上様もお悲しみになりますぞ」

 趙顒は夏侯栄の手にあった兵糧の器を取り上げ、まるでそれが汚いものであるかのように地面に投げ捨てた。

「貴様等、反省しているのなら今回だけはこれ以上何も言うまい。ただし、また同じようなことがあれば、その首は胴から離れるものと思え」

 言うと、趙顒は夏侯栄の背中を押すようにしてその場を行こうとした。

「許せ、隊長。許せ」

 去り際に夏侯栄がそう言った時も、王平はずっと顔を地につけたままだった。やがて二人は夕闇に姿を消し、そこでようやく頭を上げた。

「軍人はつらいな、王双」

「なんだってあんな奴に頭を下げるんだ、隊長殿。調練に参加したいと言い出したのはあいつの方だぜ。こんなこと、理不尽過ぎる」

「俺も間違ったことをしたとは思ってはいない。しかし、軍には軍の規律というものがある。それに背くようなことを俺はしたのだ」

「間違ったことをしてないのに罰せられる規律なんて、糞喰らえだ」

「理不尽だろうが何だろうが、歓を悲しませるようなことを招いてはならない。上官に反抗すれば、打ち首だぞ」

 それで、王双は何も言い返せなくなった。

 少し調子に乗り過ぎてしまったかもしれない。今、自分がやることは、与えられた仕事を最低限にこなして洛陽へと帰還することだ。趙顒という男に足蹴にされた時はさすがに頭に血が上りそうになったが、家の隅で震えていた王歓の姿を思い浮かべると、悲しいほど冷静になれた。

「王双、軍の中にいる時は、上官の言葉は絶対なんだ。ここではいらぬ感情は捨てろ」

 それは自分に対する言葉でもあった。王双はまだ不満そうな顔をしていたが、その不満そうな顔をじっと見つめると、わかったよ、と折れた。

 自分が死んでも王双が死んでも、王歓は悲しむのだ。今だけ我慢をすれば、洛陽での楽しかった日々は戻ってくる。

 暗くなっても夜襲を警戒するため、歩哨は休むことなく動き続け、篝火はつけられたままだ。そのゆらゆらと燃える炎が、王平の眼にはどこか不快なものに見えた。


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