我が名は王平
洛陽から西の森の中だった。曹操軍の捕虜となり故郷から引き離されたが、今は王双がいて、王歓がいて、部下達がいる。街の中にも、知った顔は少なくない。軍用の短剣を造ってくれる鍛冶屋の親方も、馴染みの飯屋のおやじもいい人だった。森に伏せている時は無心であるべきであったが、たまにそんなことが頭の中をよぎった。
「来ました。相手は、およそ七百」
見張りの者が、音もなく伝えてきた。相手といっても、同じ曹操軍の兵だ。漢中へと送られるところを急襲する。それで戦場へと向かう兵達に山岳戦の怖さを教え、気を引き締めさせるためだ。漢中へと向かう兵を襲うのは、これで何度目になるだろうか。こちらが負けたことは、一度もない。辟邪隊は調練用の木剣を手にしているのに対し、相手は実戦用の武器を手にしていたが、こちらに死人がでることはなかった。相手には、毎回当然のように死人がでていた。部下達は、この調練を楽しんでいた。勝てるということが単純に楽しいのだ。隊員同士の連携もこの模擬戦を始めてから各段に良くなってきている。
敵をおびき寄せた王双隊が、目の前を通り過ぎて行った。程なくしてやって来る兵を迎えうち、潰走させる。そして追撃戦に移る。もう手慣れたものだった。
休みの日は、王歓に会った。前に読んでくれたものの他にも、漢書というこの国のことが書かれた竹簡も読んでくれた。この国は、劉邦という人物が漢中から興したのだという。それで字を憶えるということはなかった。ただ、そういう話を王歓と一緒に知っていくということが楽しかった。
母や故郷のことは、次第に考えなくなっていた。考えても仕方のないことであったし、今ではここでの生活が何平にとって大切なものとなっていた。それでも、自分が益州攻略戦に駆り出され、洛陽を離れなければならなくなる時はいずれくるのだろう。王歓も、そのことを心配していた。戦場で死ぬことは恐くない。恐いのは、自分と王双が死んで、王歓を一人にさせることであり、そうならないためにも何平は日々の調練に打ち込んだ。
調練で相手を撃破する度に、何平と王双は自信を深めていった。実戦に出たとしても負けるところなど想像もできない。
俺達は二頭の辟邪だ。俺たちが洛陽を守るのだ。そんなことを言い合う二人に王歓は、男なんだね、と笑っていた。
「出撃」
杜濩がやっていたのと同じように、手で合図を出した。それだけで百名に自分の意思を伝えることができる。洛陽の西を進み、適当な場所に伏せる。伏せる所は毎回変えて、兵の経験を増やした。
今回は、木々の少ない岩山に伏せた。森の中よりはいくらか見通しがいい。こんなところでも勝てれば、兵に自信をつけてやることができる。
「数は、約五百」
そろそろか、と思った時に見張りが伝えてきた。いつもより少ない兵数。楽勝だな。思わずそう口に出してしまいそうになって、何平は鼻を鳴らして誤魔化した。
やがて五百が近づいてきた。早い行軍だ。早いくせに、その行軍は今まで襲ったどの兵達よりも整然としていた。嫌な予感がした。何故か何平の頭の中には曹操に負けて捕らえられた時のことがよぎっていた。たった五百だ。そう思い直し、その五百をじっと見つめた。旗には『張』と書かれてあった。巴西にいた時も、この字が書かれた旗を見たことがある。見ていて身震いするほどの圧倒的な戦をする、虎髭の大男が率いる隊だった。目の前を行く隊の隊長は、小柄だった。小柄ではあったが五百の兵に乱れなく、何平の心に芽生えた不安をどんどん大きくなっていった。岩山から頭だけを出して見ていると、不意にその隊長と眼が合った。射抜くようなその視線は、明らかに辟邪隊のことを見ていた。
まずい。
何平は、反射的に伏せていた岩山から飛び上がって王双隊の方へと走った。撤収だ、そう叫んだと同時に、王双隊が伏せていた草むらから飛び出した。間に合わなかった。王双隊は、一直線にその五百に向かって突っ込んで行った。『張』の五百はみとれるほど鮮やかに散開し、あっさりと王双隊を包囲した。向けられているのは、実戦用の鋭い槍だ。
「皆出てこい。王双隊を助けるぞ」
逃げるべきか。そんな考えも一瞬頭をよぎったが、すぐに振り払った。目の前で、仲間がこれから殺されるのだ。手勢の百の先頭に立ち、包囲の薄いところをめがけて走った。相手は素早く動いてそれを阻んだ。相手は完全装備、こちらは軽装なうえに木製の短剣である。包囲の中から悲鳴が聞こえた。声だけで、やられている者の顔が浮かぶ。何平は被害を顧みず突っ込んだ。周りの何人かが倒れていく。もうやめてくれ。これは、実戦ではないんだ。
「全軍、やめ」
また突っ込もうとした時、五百の隊長が号令した。それで向かい合う兵は、戦うことを止めた。
「貴様等、何者だ。そんな武器では相手を殺すことはできんぞ」
包囲が解かれた。中にいた王双隊は、血に塗れていた。槍で突かれて腹から血を流している者は一人や二人ではなかった。
何平はその隊長の前に進み出で、慇懃な態度で言った。
「洛陽の辟邪隊といいます。山岳戦を見せるため、ここを通る兵を襲えと命じられておりました」
張の旗の隊長は困ったような顔をしながら言った。
「そうであったか。とりあえず負傷者の手当てを、そして損害の報告をさせろ」
内心動揺しながら、何平も同じ処置を部下にさせた。こんな命令を下すのは初めてだった。死者二十七名、負傷者八十一名。そう報告されても、何平はどこか上の空だった。相手の死者は三名、負傷者はいない。死んだ相手の三名は、全て王双の手によるものだった。
「噂には聞いていたが、本当だったのだな。丞相は相変わらず無茶なことをなさる」
張郃だ。隊長がそう名乗って来ると、王双が張郃に掴みかかろうとした。
「張郃。お前は、何人俺の部下を殺した」
何平は王双の体にしがみついて止めた。気持はわかる。何平隊の中からも、王双隊ほどではないにしろ死人が出ている。しかしこれは戦なのだ。俺達も、ここを通って行った兵に同じことをしてきたじゃないか。そう言うとようやく王双は自分を落ち着かせた。張郃は微動だにせずじっとこちらに眼を向けている。
「何平、王双、その気持ちを忘れるな」
張郃はそれだけ言い残し、二人から離れた。そして死んだ三人の遺骸を手早く埋め終わると、何事もなかったかのように整然と隊列を組んで行ってしまった。周りでは、さっきまで生きていた仲間たちの埋葬が続けられている。涙を流している者もいる。何平は毅然とした態度で自分の隊を見て回った。負けた時、隊長は負けた顔をしてはいけないと杜濩に言われていた。しかし、負けた。泣けるものなら、自分も泣きだしてしまいたかった。
強い兵とは、ああいうものなのか。何平は去って行く張郃隊の後ろ姿を見続けた。
辟邪隊に暗い空気が漂っていた。無理もない。初めての負けだったのだ。死んだ仲間も、少なくなかった。
「死んだ者達の分は、お前等が働くのだ」
そう言うと部下達はいくらか気持ちを入れ直していたが、それは気休め程度のものだった。
一番落ち込んでいたのは王双だった。何人も部下を殺してしまったという責任に押し潰されそうになっていた。それでも調練になれば、誰よりも励んでいた。王双のそんな姿が悲愴に見えた。戦では、敵味方問わず、人が死ぬのだ。そんな当たり前のことを、自分も含めてちゃんと理解していなかった。調練は、前と比べて厳しいものにした。体を疲れさせることで、嫌なことを頭から追い出そうとした。
数日すると、また漢中へと向かう兵達がやってきた。不安そうな顔をする者もいたが、今度は簡単に勝つことができた。それでようやく、漂っていた暗い雰囲気が消え始めた。
辟邪隊、漢中へ出陣。その達しがきたのはそんな時だった。
営舎の空気がそわそわし始めた。調練の成果を見せる時が来たのだと、百七十まで減った兵たちは自らを奮い立たせていた。その気持ちは何平にもある。また、それとは違う気がかりもある。前はあんなに帰りたかった巴西ではあったが、今は洛陽の地が心地よいものになっていた。益州に行けば、巴西の山岳民族と殺し合うことになるかもしれない。張嶷や句扶とも敵として再会することになるかもしれない。それに洛陽には、歓がいる。
隊長は、自分の隊を勝ちに導かなければいけない。杜濩が言っていた言葉が何平の胸に突き刺さっていた。勝てないということは、張郃にやられたことをまた味わうということだ。そんなことはもう自分には許されない。しかし勝つということは、つまりは巴西の人間を殺すということだ。戦だとはいえ、そんなことが許されていいものか。そうやって勝ったとして、果たして自分は勝ったと胸を張ることができるのか。何平はこの胸の内を誰にも明かすことなく、ずっと一人で悩んだ。健気に調練に励む部下を目の前にして、こんなことを口にできるはずがなかった。
「恐い顔してる」
言われたのは、王歓に書を読んでもらっている時だった。
「実はな・・・・・・」
言おうとして、言うべきかどうか考えた。言ったとして、それがどうなるというのだ。
「兄さんが言ってた。洛陽を出ることになったって」
「ああ、知っていたのか」
それだけ言った。言ってしまうと、もう王歓に会えなくなるのではという不安が現実になりそうな気がした。
「でも、帰ってくるんだよね」
「もちろん」
それは、分からなかった。益州攻略戦がいつまで続くのか分からないし、死ねば帰ってくることはできない。
「じゃあどうしてそんな恐い顔してるの。あたし、不安だよ。兄さんに帰ってこれるか聞いても言葉を濁されるだけだし」
「大丈夫だよ、歓。俺は、必ず戻ってくる」
そう言って、王歓の小さな肩を後ろから抱いた。俺だって、できることならずっとこうしていたい。戦へ向かう父もこんな気持ちだったのだろうか。父は死に、母と自分は残された。父を見送る母も、こんな不安な気持ちでいたのだろうか。外からは虫の音が聞こえる。腕の中には、王歓の温かい体がある。ここにずっと身を浸しておきたかったが、時が来れば行かなくてはいけない。わかっていたことだが、今というこの瞬間が終わってしまうということが、どうにも理不尽なことに感じた。
「実はね」
王歓が言った。言ったまま、黙りこんだ。何平は王歓を抱いたまま、次の言葉を待った。だが、いつまで経っても待つばかりだった。
「実は、どうしたというのだ」
堪りかね、何平は聞いた。
「子ができた」
何平はじっと王歓の体を抱いた。何となく、この前からそんな気はしていた。
「言おうかどうか、すごく迷った。言ってしまえば、戦に行くあなたの心を乱してしまうと思ったから。でも、言わせて。あなたが洛陽を離れたら、もう会えないんじゃないかって、不安で不安で仕方ないの。帰って来て。戦なんて全部投げ出してでもいいから、必ずここに帰って来て」
言いながら王歓が泣き始めた。何平は子ができたということに驚くより、自分以上に王歓は不安と恐れで胸が一杯だったのだろうということに気付かされ、はっとした。何平はその王歓の泣き顔を、大きな胸で受け止めた。
「分かった。必ず俺はここに帰ってくる。だから泣く必要なんてないよ、歓。何があってもここに帰ってくる。約束だ」
「本当に?」
「本当だ。俺が嘘をついたことがあるか? 男は、嘘をつかないんだ」
「それじゃ女のあたしが嘘つきみたいじゃない」
不安がある程度和らいだのか、王歓の顔に少しだけ笑みが戻った。王歓と子を生した。それは、嬉しいことだった。帰ってこられないかもしれないという気持ちが、帰ってこなければいけないという気持ちに変わった。帰ってきたければ、負けなければいいのだ。負けると思えば逃げればいい。逃げ切ることができれば、それは自分のにとっての負けではないのだ。
「歓、お前は俺の妻で、俺はお前の夫だ。俺がいくら遠くに出かけようと、必ずこの家に戻ってくる。漢中に行くといっても、ちょっと遠くに仕事をしに行くだけだ。帰ってきたらまた、竹簡を読んでくれ」
王歓は何平の胸の中で小さく頷いた。
次の日、何平はいつも以上に調練に力を入れた。
「どうした隊長殿。今日はやけに張り切ってるじゃないか」
休止中に王双が話しかけてきた。
「子ができたぞ、王双」
「は?」
「子ができたと言っているんだ。俺と、歓の子だ」
「お、おう。そうなのか」
王双は眼を丸くしていた。
「俺は、この洛陽が自分の故郷だと思い定めることにした。俺は必ずここに帰ってこなければいけなのだ」
王双は、黙って頷きながら聞いていた。
「名も改める。俺は今日から王と名乗る。何平ではなく、王平だ。巴西を故郷だと思う自分は捨てた。これからは、この洛陽が俺の故郷だ。お前ともこれからは義兄弟と思い定めることにする」
言うと王双は満面に感激を浮かべて王平の手を握り、何度もありがとう、ありがとうと言った。妹に対する父親のような気持ちがあったのだろう、と王平は思った。