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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
親子の心
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魏延と楊儀

 雲間から覗く太陽が、背中を焼いていた。

 四十を幾つか越えた魏延は、二十歳そこそこの兵たちの先頭で、漢中の険しい山中を走っていた。それは諸葛亮から命じられたことではなく、文官達からも認められるような仕事ではない。それでも、魏延は全身を汗まみれにさせながら走っていた。

 できることは、戦だけなのだ。それなのに諸葛亮は、戦で魏延を使おうとはしなかった。前回の戦でも、漢中軍を率いて天水に行ったのは、王平だった。

 戦で重要されないことに、強い不満を感じていた。勝っていればまだいい。いくら勝つための献策をしようとも煙たがられ、負けた。蜀国と共に、自分の存在も薄くなり、いずれ消えてしまうのではないかと思えた。

 戦に出られない分、調練に打ち込んだ。体力を付けるための駆け足では、常に先頭を走った。走ることで、少しでも不安を打ち払おうとした。

 魏軍が、蜀に攻め込む構えを見せていた。今度こそ、陣頭に立って戦いたい。四十を越えようとも、まだ十分にやれる。自分が老いぼれてしまう前に、思い切り戦いたかった。魏延ここにありと、戦の中で高らかに叫びたかった。

 戦の匂いが濃くなってくると、兵を休ませておけという命令が魏延に届いた。いかにも現場を知らぬ文官らしい馬鹿げた命令だと思い、魏延はその命令を無視した。休ませれば、兵の気持ちは萎えてしまう。いくら体を強くしても、気持ちを萎えさせてしまえば、戦で力を出し切ることはできないのだ。大事なことは、兵を徹底的に疲れさせることだった。そしてその先頭には、常に指揮官である自分が立たなければならない。

 老いのせいか、時に激しい調練に体がついていかず、調練後の食事を吐き出してしまうことがあった。兵には決して見せることのできない姿だ。それでも兵に力を出させるために、辛くとも率先して調練の先頭に立つ。これが自分の戦なのだと、魏延は思い定めていた。

 軍議のため、対魏戦の本営である漢中の政庁に呼び出された。その日は全軍に休暇を与えたが、兵の顔に緩みの色はない。休暇は楽しむためにあるのではなく、次の調練への備えだという意識が身に沁みついているのだ。それを見て、魏延は内心満足していた。強い軍に仕上げることができた。これなら、いつでも魏軍と戦うことができる。

「よく走っているそうではないか、魏延。頬がこけているぞ」

 通された一室で、諸葛亮が表情を変えずに言った。

「上の者が率先してやることで、兵は力を出します」

 食べたものを吐き出していることは言えない。言えば、それを理由にまた戦で使ってもらえないかもしれない。

「兵を休ませろと伝えたはずだ」

「お言葉ですが、丞相。今は兵を休ませるわけにはいきません。休ませるのは、戦が終わってからです」

「そうは言っても、次の戦に備えて力を蓄えねばなるまい」

「その力とは、気持ちから湧いてくるものです。今、兵の気持ちを緩ませてしまえば、軍の力は確実に弱くなります」

 諸葛亮の目が、じっと魏延を見つめている。魏延はふと気づいた。諸葛亮の顔も、やつれているではないか。なるほどこの文官の親玉も、自分とは違う所で戦っているのだ。そう思うと、無性におかしくなってきた。

「丞相殿も、大分お疲れのようで」

 親しみを込めて言ったが、それは無視されてしまい、魏延は閉口した。愛想がないのは、この男の悪いところだ。諸葛亮は従者に命じて卓に地図を広げさせた。

「昨年奪った西方の地で、大規模な屯田が行われていることは知っているな」

「はい」

 知っているもなにも、その屯田に回されているのは漢中軍の一部だった。

「魏軍の侵攻に備え、魏延は西雍州に入れ。永安の李厳も、二万と共に入る」

「戦になれば、軍の指揮権はどちらに」

 魏延にとっては、それが大事なことだった。

 諸葛亮は扇で顔を半分隠し、しばらく冷たい視線を魏延の方に送り、扇の向こうの口を開いた。

「お前だ」

 魏延は、それに頭を下げた。

「軍師は、李厳。道案内には西雍州から涼州にかけて詳しい馬岱を付けよう。お前が率いる三万の内、二万を連れて行け。一万は、漢中で後詰だ」

 永安の二万を含め、四万の指揮だということだ。これだけの兵力があれば面白い戦ができそうだった。

「何か、異論はあるか」

 諸葛亮のその言葉には皮肉がこめられているようにも聞こえたが、それは気にしないことにした。

「ありません」

 その瞬間、諸葛亮は一瞬ほっとしたような顔を見せた。この男も、疲れているのだ。

 それからしばらく細かいところの話を詰め、魏延は部屋を後にした。

 帰り際の廊下で、楊儀と鉢合わせた。前の戦で魏延をはずし、王平を使うと言ったのが楊儀だというのは知っている。魏延の姿を認めた楊儀が、気持ちの中で身構えるのが見てとれた。

「楊儀殿」

 魏延は手を上げ、顔に笑みを作って話しかけた。戦で勝つことを考えれば、今は身内で不仲になるべきではない。

「お前のことは、信頼しているぞ。兵站の管理をやればお前の右に出る者はいないからな」

 友好的な魏延の態度に、楊儀が訝しがった。それでも魏延は笑みを絶やさないよう努めた。面倒なことだが、現場で死んでいく兵のためにも、蔑ろにはできないことだった。

「私は、与えられた仕事をこなしただけです。褒められるべきでは私ではなく、丞相であるはずです」

 自分と丞相が不仲だと知っているこの男は、婉曲にそのことを非難しているのかもしれない。そう思ったが、聞き流した。

「兵の調練は上手くいっている。次の戦で、あいつらは大いに力を発揮してくれることだろう。俺が保証する」

「しかし魏延殿。丞相からは兵を休ませろと言われているはずです。それを無視するのは、いかがなものかと思いますが」

「そのことも、さっき丞相と話してきた。今は兵を休ませるのではなく、今までしてきたことを続けさせる方がいい。兵の扱いは、俺に任せてくれ」

 そう言ったが、楊儀の顔は明らかに不満気だった。

「それは結構なことです。兵の扱いにかけては、私なんかよりも魏延殿の方がよほど長けているのですから」

 鼻につく言い方だった。

 高位の文官は、知りもしないことを、あたかも全て知っているかのように言う。それでいて、間違ったことを言ったとしても、決してその間違えを認めようとはしない。

「私は戦については武官である魏延殿には遠く及びません。しかし戦では、戦う者の心は一つにすべきだということくらいは、理解しているつもりです」

 こいつ、本当にわかっているのか。そう思ったが、顔には出さないよう努めた。

「後方を任された者の身としては、前線で兵の心がばらばらにならないかということが心配です。私は魏延殿の気性をよく存じております。くれぐれも、兵を虐め過ぎぬよう」

「おい」

 言い終わらぬ内に、魏延は遮った。

「俺が、兵を虐めているだと」

 聞き捨てならないことだった。いけないことだと分かっていたが、かっと頭に血が上った。魏延は、楊儀の胸ぐらを掴んだ。

「兵のことを道具か何かとしか思っていないお前が、どの口で言っている。あいつらと少しでも気楽を共にしたことが、お前にはあるのか。俺が先頭で走るから、兵たちは俺のことを信頼してくれるのだ。人から信頼される働きが、お前にできるのか」

 胸ぐらを掴む左手に力を入れると、楊儀は顔を歪め、怯えを露わにさせた。こんな奴に兵達の命運が握られているのか。そう思うと、心の底からは怒りがふつふつと湧いてきた。

「魏延殿」

 通りがかった費禕が二人の間に割って入ってきた。魏延は、楊儀を掴んでいた手を放した。

「何があったのか知りませんが、ここは私が話を聞きましょう。どうか、ここは落ち着いて」

 焦る費禕が、早口で言った。その後ろで、楊儀が咳き込みながらこちらを睨んでいる。

「違うのだ、費禕。この男が俺のことを侮辱するから」

「わかりました。さあ、楊儀殿も早く行かれよ。魏延殿、茶でも飲みましょう。不満は私が聞きますので」

 魏延はうんざりした。それでも少しやり過ぎたかと思い、費禕に促されるままその場を離れ、出された茶を一息で飲んだ。飲むと、いくらか落ちついた。

「男は、力の強い別の男に嫉妬するものです。楊儀殿の魏延殿に対する態度が、正にそれです。前線で戦う者には腕力で敵わないと知りながら、上に立たなければならない。それで、楊儀殿はあんな態度を取ってしまわれるのです」

「そうかい」

 何か言い並べる費禕の言葉に、魏延は適当に相槌を打った。

 恐らくこの一件でまた文官達から嫌われてしまうのだろう。それだけならまだしも、補給関連で何か嫌がらせを受けるかもしれない。魏延に嫌がらせをし、それで兵が死んでも、何も感じないような奴らなのだ。

 侮辱されれば怒る。その当然のことを否定してくるのが文官だった。これから魏国の不義と横暴を糺す戦をしようというのに、こんな気概の無いことでどうするというのだ。

 魏延は怒鳴ってやりたかった。しかし怒鳴ったところで理解されるはずもなく、また煙たがられるだけだ。

 目の前では、一人の文官がまだ何か喋り続けている。


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