守るべきもの
昔の部下達が長安を陳倉に向かって数日が経った。あれから連日、白翠の体を獣のように抱いた。白翠も王双の求めに全て応えてくれた。しかしそれは、本当に王双が求めているものではなかった。
自分の腹に手をやると、鍛え上げられた筋肉の上に、幾らかの肉が付き始めていた。王双はそれを確認する度、不安になった。暇な時に全身を絞り上げるようにして無心で剣を振れども、それは何の解決にもならなかった。
夜。外で、虫が鳴いていた。妹のことにしろ、白翠のことにしろ、自分は女のことを幸福にしてやれる男ではないのかもしれない。
王双は隣で寝ている白翠を起こさぬよう静かに身を起こし、寝室を出た。暗闇の中、できるだけ音を出さないよう、宿の玄関を出た。
まだ引き返すことはできる。そう思いながらも、足を止めることはできなかった。宿の厩には、荷駄を運ぶための馬が繋がれている。近づくと、馬は驚く様子もなくこちらを見つめていて、その眼が誘うように丸く輝いていた。初めて白翠を抱いた夜も、こんな丸い月が出ていた。
王双は静かに馬の背中に鞍を乗せた。もうここに帰って来られないだろうという覚悟ははしていた。行かなければならない理由はない。強いて理由があるというなら、王双の中の男がそれを求めた。
長安の南では蜀軍が北上の構えを見せ、陳倉では郝昭と昔の部下が二千の兵でそれに当たろうとしていた。軍人を辞めていなければ、自分もそこに投入されていたはずだ。
運が良いというべきなのかもしれない。右目を失いながらも、手柄を立てたために銀が手に入り、妻を得た。そして王訓が喜んでくれた。新しい形で、守るべきものができた。それは誰かに守ってもらうものでなく、自らの手で守るものだ。
「叔父上」
馬を曳き出そうとしていると、後ろから声をかけられた。振り返ると、小さな影がそこに立っていた。
「どこに行かれるのですか」
「ちょっと、仕事だ。すぐに戻る」
そう言っても王訓は中に戻らず、何か言いたげに体をもじもじとさせていた。
「もう、寝ろ」
「私も行きとうございます」
王訓の小さな目が見つめてきた。いや、それはもう大きなものなのかもしれない。
賢く育ってくれた。自分がどこに行こうとしているか、言葉にしなくても分かるのだろう。王双は微笑み、王訓の傍で膝を折った。
「心配することは何もない。お前はもう、十分に一人でもやっていける」
王訓の口がへの字に歪んだ。泣くのを堪えているのだ。
王双の手刀が、王訓の首筋を打った。崩れる王訓の体を、王双の右腕が支えた。生まれた時はあんなに小さかった体が、今ではこんなに大きくなっている。それだけで、王双の心は満たされた。妹の残した子を育て上げ、白翠から愛された。自分にとって十分過ぎるほどの生ではないか。
王双は王訓の体を食堂の長椅子に横たわらせた。数日前、ここで昔の部下が食い散らかしていった。笑いながらも死を覚悟した顔を、一人一人がしていた。それは決して悲愴な顔ではない。この長安を、そしてこの俺達を守るための覚悟だった。
守られるだけでいいのか。それで平和を貪り、自分達は運が良いなどと言って生き長らえることに、意味などあるのか。
思い返せば、自分はどこで死んでいてもおかしくなかった。もう十分に生きた。そんな自分を、守ってくれる者達がいる。それに甘えてこれから生きていくことを思うと、どうしても居た堪れない気持ちになった。そうしようとしている自分が、許せなかった。
「さらば」
そう呟き、王双は馬の背に乗った。
馬を走らせ、二日かけて陳倉に辿り着いた。久しぶりの馬上で、尻が痛かった。
「何者だ」
歩哨に戟を突き付けられた。敵の大軍を迎え撃とうとしている兵達の緊張が、それだけでよく伝わってきた。
「郝昭殿に、王双が来たと伝えてくれないか。左腕と右目の無い男が来たと言えば、すぐにわかるはずだ」
言って、防寒用の覆面と外套を取って見せた。兵らは顔を見合わせ、何かを思い出したようにして走って行った。趙雲を討ち取った王双と言えば、兵の下々まで知っているはずだ。
すぐに迎えが来て、その兵に先導された。
想像していた以上に陳倉城はできあがっていた。二千の兵に加え、周辺から集められた人夫が地を穿って堀をつくり、掘り返した土を盛って土塁を高くしている。陳倉城に入るのかと思いきや、その堀を前にして兵卒が言った。
「郝昭様は、あちらにおられます」
言われて、王双は兵が指した方に左目を凝らした。
「どこだ」
「あそこで土を掘り返しておられます」
いた。向こうもこちらに気付いたようで、手を上げて梯子を上ってきた。郝昭は全身が土まみれで、冬だというのにその肌は日に焼けていた。
「全く、お前は馬鹿な男だ」
郝昭が黒い顔の中から白い歯を見せて言った。
「郝昭殿こそ、雑兵に混じって働いて、暗殺でもされたらどうするおつもりですか」
「たかが二千が守る城だ。その心配はないと腹を括った。それよりも今は、一人でも働き手が欲しい」
よく見ると、郝昭の目の下には大きな隈ができていた。あまり寝ていないのだろう。長安で見た時より、いくらか頬も削げている。
「この短期間でよくここまで防備を整えましたな。正直、驚きましたぞ」
「自分でも驚いているくらいだ。人は死ぬ気になれば何でもできるものだ」
そう言った郝昭の顔は、活き活きとしていた。死ぬ気などと冗談のように言っているが、この男は本当にここで死ぬつもりなのだろう。その気概は、兵の下々にまで伝わっていた。
「とりあえず、中に入れ。お前の部屋を用意してやろう」
城内には大壺が幾つも並べられていて、中は油で満たされている。戦闘になればこれを熱して城壁を登ってくる蜀の兵にかけてやるのだという。その壺の上には、雨が入らないように簡易な屋根が作られていた。
「少し待っていてくれ。身を正したい」
そう言って、郝昭は自分の部屋に入っていった。
待っている王双の前を通り過ぎていく兵卒の顔に、暗さはなかった。全ての兵が郝昭のように目に力を漲らせ、この城全体が一種の異様な雰囲気に包まれていた。勝てるかもしれない。彼らの顔を見ていると、そんな思いすら湧いてきた。
「隊長殿」
言われて、王双はそちらに顔を向けた。長安の宿で最後の酒を酌み交わした、王生をはじめとする昔の部下らであった。王双を見た途端、三人いる内の一人が今にも泣きだしそうな顔をした。
「俺らが不甲斐ないから、ここまでやってきたのですか」
「そうではない。お前らに守られるほど、俺は軟弱ではない。だから、戦いにきた。戦になったらまた尻を蹴飛ばしてやるから覚悟しておけ」
三人は、何かがふっきれたように笑い始めた。王双もそれを見て、ただ笑った。それは、心からの笑顔だと思えた。ここに来たことは、決して間違いではなかったのだ。
「隊長殿がここに来たとなれば、他の皆も喜ぶはずです。さあ、こちらへ」
「ちょっと待ってくれ。郝昭殿のことを待っているのだ。それにしても長いな」
不審に思った王双が少し扉を開けて中を覗いてみると、床で郝昭がうつぶせになって寝息を立てていた。王双はそれを見て、そっと扉を閉じた。
「寝ておられる。この人のことは後回しにしよう」
「どうせなら、城壁に立ってここの全員に隊長殿が来たことを伝えましょう。趙雲を討ち取った王双といえば、知らない者はおりません」
「えっ」
思いがけないことになり、王双は困惑した。それでも王生らが背中を押してくるので、王双は言われるままに城壁に上がった。
「みんな、働いているところを悪いが手を止めてくれ。たった今、蜀軍の趙雲将軍を討ち取った王双殿がここに来られた。一騎当千の大将が来たからには、我らの勝利は間違いない」
城の内外にいた者の視線が一斉にこちら向けられ、どよめきが起こった。
「おい、よせ」
王双は赤面した。こんなことになろうとは思いもしていなかった。
王双の体が、皆から見えるところに押し出された。また、どよめきが上がった。
見渡すと、隊長格の者も兵卒も皆が汗にまみれて働いていた。故郷を守ろうとする者の姿に、身分の上下などあろうはずもなかった。疲れの色が濃い者は少なくない。しかし、暗い顔をした者はいない。何か言ってやらねば。王双はそんな気になった。
「俺は」
言うと、辺りが静まり返った。王双の声は遠くにまでよく通る。
「俺は、妻と甥を長安に残してきた。どちらも、俺の大切な家族だ。俺はその家族と、住む場所である長安を守るために、戦いにきた。俺は男でありたかった。守るべきものを誰かに委ねてしまうなど、俺の中の男が許さなかった」
考えることもなく、思いついたことを一息で言っていた。言うと、静まった兵達の中からすすり泣く声が聞こえた。
「戦うことをやめた男など、男ではない。お前らは、男だ。そしてそんなお前らと死ねる俺は、幸せ者だ」
泣いていた。涙が風に吹かれ、王双の耳が濡れた。
「共に戦おう。ここで戦い抜き、時間を稼げば、洛陽からの援軍が到着する。例えここで俺らが全滅しても、それは意味の無い死ではないのだ。俺らの帰る場所である長安を、命を賭して守るのだ」
そうだ。一つの声が上がった。それに続く者がいて、声はたくさんの大きなものとなっていった。




