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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
漢中争奪戦
3/140

山岳部隊

 巴西での戦が終わってから、三か月が過ぎた。周辺の賊はすっかり掃討され、兵糧番の役を無事に終えた何平は自分の村へと戻ってきていた。

 句扶も一緒だった。句扶には帰る所がないのだという。それが何故か句扶は喋ろうとはしなかったし、何平も聞こうとはしなかった。帰るところがないとは、この戦続きの世では珍しいことではない。前に句扶と川で体を洗っている時、何平は句扶の体につているたくさんの傷痕を目にしてぎょっとした。帰る場所がないこととその傷跡は何か関係あるのだろうと、何平は漠然と思った。

 家には、二人分の手柄である桶二つ分の太平百銭が届けられてきた。使い道がないからと句扶は自分のものも何平に渡すと言ってきたが、何平は自分の分ですら持て余していた。母は、父ですらこんなに多くの財物を持ち帰ったことがないと喜んでいた。その手柄を立てた過程を話すと母は表情を曇らせて心配の言葉をかけてくれたが、それはどこか空々しい感じがした。それでも財物を見て喜んでいる母の姿を見ていると、何平も嬉しくなった。

 同じ村に住む者達が自分を見る目が変わっていることに何平は気付いていた。句扶を隣に歩いていると、必ずどこかから視線を感じた。これが、手柄を立てるということか。張嶷は取り立てられた後にそこでも手柄を立て、それを劉備から直々に称賛されてさらなる出世をしたという。自分もあの時、張嶷について行っていればさらなる手柄を立てる機会に恵まれることがあったのだろうか、とも思う。だが村には自分の帰りを待つ母がいるのだ。何平は自分にそう言い聞かせた。

 ある日、句扶と川魚を獲って家に帰ると、見知らぬ中年の女がいた。その女は母のことを主人と呼び、母はその女を使用人として雇ったと言っていた。戦のお蔭で生活は楽になった。老いて一日のほとんどを寝ている祖母も、句扶のことを実の孫のようにかわいがってくれている。食べるものは良くなり、着るものも変わった。何平はそのことに、漠然とした違和感を覚えていた。そのことを母に言うと、それは何平が立てた手柄のおかげであって、この新しい生活に馴染めなくてもすぐに慣れると言われた。同じ慣れた生活なら、以前のままでもいいじゃないかと何平は思ったが、それを言うと母の機嫌を損ねてしまうような気がしたので口には出さなかった。

 年が明けると、もうすぐ漢中の辺りで大きな戦があるらしいと朴胡が言ってきた。劉備軍が兵を募っているのだという。

「曹操の軍が漢中から、もうすぐこの巴西まで攻め込んでくるらしい。賊の討伐で手柄を上げたお前も、前線で戦ってみないかと隊長が言っているのだが、どうだ」

 いいぞ、と逡巡無しに答えた何平に、朴胡は逆に戸惑っていた。求めていたものは銭ではなくその言葉だったと何平ははっきり自覚した。胸の中で、気持ちの昂ぶりが渦を巻いている。

賊の頭を叩き割って殺したその夜に、突っ伏した男が見る間に赤く染まっていく夢を見た。目を覚ました何平の体は燃えるように熱くなっていて、その熱を消そうと瓶の水を腹一杯になるまで飲んだがそれはどうしても消えず、日が昇る頃にようやく冷めていった。体の中では、何かが変わっていた。その変化は、朴胡と剣の稽古をしている時、特に強く感じた。何故、朴胡は手を抜くのか。そう思ったが、前の戦から何平は人が違ったように強くなったと朴胡から言われた。

また戦に行ってくる。これを母に言ったら何と言われるだろうか。前に立てた手柄で、母には充分に楽な暮らしをさせている。別の仕事をするという選択もあるのだ。

 母に朴胡からの誘いのことを相談すると、やはり反対にあったがそれは前ほど強固なものではなかった。もっと強く反対されれば何平の気持ちも変わっていたかもしれないが、母のその曖昧な態度で何平は戦に出る決心がついた。また手柄を立てて財物を届けてもらいたいと考えているのだろうとは分かっている。富に心を奪われている母を見ても、それが悪いことだとは思わない。むしろ喜んでいる母を見ていると、何平も嬉しくなってきた。

 朴胡に誘われて入った部隊は山岳民族だけで構成されていて、隊列を組んで戦う歩兵隊とは違い、山中のあらゆるものを利用して敵に損害を強いる戦い方をする。指揮をするのは杜濩という、口髭を蓄えた老練そうな男だ。

 幼い頃から山に慣れ親しんでいる何平にとって、その隊の調練は辛いものではなかった。

 早く戦に出たい。山肌に擬態する調練を受けながら、何平の体はうずいていた。


 漢中と巴西を隔てる山の手前で劉備軍と曹操軍がぶつかった。そこが劉備軍にとって有利な位置だということは、朴胡からの説明で軍に入ったばかりの何平にも分かった。そこなら曹操軍は、進むにしろ退くにしろ山の中へ入らなければいけないことになり、山岳戦の部隊を持つ劉備軍は地の利を得ることになるのだ。

 出撃。隊長である杜濩が腕を振って合図した。山岳戦の部隊はその性質から、例えば虎髭の将軍がそうしていたように隊長が大声を張り上げて指揮を執るということがない。その無言の合図が近くの小隊長に伝わり、さらに全隊員の二百に伝わっていく。

 隣には、朴胡がいる。句扶も何平に付いてきたがったが、まだ体が小さいということで兵糧番へと回された。あと一年したら隊に入れてやると朴胡は気落ちする句扶にそう声をかけたが、やはり句扶は無言のままだった。

 およそ一両日程、皆無言で山の中を進み、ある所まで来ると休息を取った。

「何平、この戦は誰が作戦を立てているか知ってるか?」

 朴胡が話しかけてきた。

「いや、知らないけど」

「法正様、という人だ。前にお前が手柄を立てた時に法正っていう人に報告したって言ってたよな」

「そうか、あの人は軍師だったんだな」

 法正という人は、虎髭の将軍が率いる騎馬隊の中でどうも浮いたようにしか見えなかったが、これで合点がいった。

「噂で聞いたんだが、頭が人の三倍も四倍もあるって話、本当なのか」

「まさか、見た目は至って普通だったよ」

 二人にしか聞こえない声で喋っていた。それでも、近くにいた年長の兵に、しっ、と注意されて二人は口を噤んだ。

 きん、きん、きん、と金属が三回打たれる音が聞こえた。山の中で、自分が仲間だと伝えるための合図だ。杜濩もそれに対して同じ合図を送った。何もないと思っていた所から、枝と緑が蠢いて味方の数名が姿を現した。その者らと、杜濩が少しの会話を済ませた。

「いくぞ」

 と、また腕の合図だけで伝えてきた。

 出発から少し行くと、何平は後ろを振り返ってみた。何の目印もない、森の中だった。どうやってあの場所で斥候と落ち合うことができたのか。またあとで朴胡に聞いてみようと思った。

 行軍が幾らか速くなった。恐らくこのまま敵の懐中に入り、山の中へと退いてきた曹操軍を襲おうというのだろう。張嶷と賊を倒した時のことを思いだし、胸が高まってきた。上手くいけばまた大きな手柄を立てて、母を喜ばせてやることができる。何平は腰の両側につけている短剣に手をやり何度も確かめた。山の中での戦いは、槍や戟ではその長さが邪魔になる。前は戟を振り回しているだけで敵を遠巻きにすることができたが、今度は自分から敵の手が届くところに飛び込み腰の短剣で刺突する。矢が射かけられてきたら木を盾にしろと調練で教えられた。その二つを何平は山中に潜みながら何度も思い描いてみた。体を動かさずとも、そういう訓練もできるのだと朴胡に教わったからだ。

 目的地に着いた時、もうすっかり辺りは暗くなっていた。月明かりが木々に遮られようとも、この部隊は夜目が利く。元々、山岳民族の眼は暗闇に強いのだが、それは訓練によってさらに強くすることができる。だから夜を徹して山中を通り、敵の後ろを取るということもできる。

 全軍、その場で息を殺して伏せた。目の前には、山中の街道。所々にまだ湿り気のある馬糞が落ちている。曹操軍がこの道を使って益州へ攻め込んだ証拠だ。詳しいことは何も聞かされてはいないが、もうすぐ敵がこの道を引き返してくるということなのだろう。

ひたすらに待った。夏の山中は木々が暑さを和らげてくれるとはいえ、何平の顎からは汗が滴り落ちていた。体が水を欲しようが、蚊や蛭に血を吸われようが動いてはいけない。伏せている時はそれがどんなに長くなろうと、自分を木だと思い定めろと何度も言われた。木になっても、胸から湧く昂ぶりは全身に漲らせていた。気を抜いて、いざ敵が来た時にあっさりと殺されたくはない。死ぬことで名誉を得ようという気はない。戦が終わって母の待つ村に帰ればければ意味がないのだ。

光の少ない森の中で伏せ続けるのは退屈で、気持ちが逸っているだけ時の流れが遅く感じ、何平は少し苛ついた。陽が落ち森が暗闇に包まれ、もう何刻経ったのかわからない。それでもこの場にいる皆は一言も発せず、不動のままに待っている。擬態した味方は周りにいるのだが、どこに誰がいるかは目視できず、もうここには自分しかいないのではないかという錯覚に陥りそうになり、目だけを動かして隣にいる朴胡を何度も確かめた。

 夜空が白み始めた頃、遠くで馬の嘶きがした。来た。そう思っても、まだ体は動かしてはならない。

 見えた。曹の旗。細い道を三列で進んできている。合図は、隊長が踏み込む一歩目の足音。それが周囲に伝わり、全員が敵の旗に向かって襲いかかる。先ず狙うのは、この隊を指揮する者の首だ。何平は全神経を耳に集中させ、全身に気を漲らせた。しばらく兵が通り過ぎてくのを見送ると、きらびやかな輿がやってくるのが見えた。あそこに、大将首がある。あれを取れば、また母は喜んでくれるのだ。

輿は見る間に近づいてきた。周囲の護衛は思ったより少なかった。これならやれる。何平は頭の中で、どうやってあそこへ辿り着き、どうやって離脱するか、思いつく限りのことを想定した。そうすることで、今にも飛び出して行きそうになる体を抑えた。

 ざっ、という杜濩の足音。それに弾き出されたかのように何平は短い剣を持って足を前に出した。硫黄の入った玉が投げ込まれ、あちこちで火柱が上がり始め敵は混乱した。一番浮足立っていると見えた兵の懐に飛び込み、左手にあった剣を喉に突き立てた。赤いものが目の前にしぶく。俺が欲しいのはこの首ではない。矢が飛んでこないかと周りを見渡したが、混戦になり始めたのでその心配はないようだ。冷静じゃないか。自分のことを、口の中で呟いた。突き出された槍をかわし、今度は右手の剣で首を払った。首から噴き出したものが、一枚の赤い帯のように見えた。目の前の輿。これを取りに、俺はここまで来たのだ。何平は雄叫びを上げて跳躍した。

輿に取り付き、垂れ幕を上げた。上げて目を見開いた。そこには、誰も乗ってはいなかった。罠だ。何平は、自分は、体の中の血が逆流していくのを感じた。

「いません」

 叫んだ。杜濩が、いつの間にか傍にいた。

「退却!」

 大きな声の号令だった。それを聞いて何平は急に恐ろしくなった。これが罠なら俺はここで死んでしまうのか。

 その場を離れようと、退路を探した。しかし何平の頭の中にあった幾つかの退路は既に敵が塞いでいた。

 どうする。どうする。何平は息を荒くさせながら、何度も無意味に剣の柄を握り直した。

「降伏せよ」

 大きな声が山中に響いた。その方を見ていると、一目で精鋭だと分かる兵に守られた男が馬上から叫んでいた。あの男は恐い。何平は直感的にそう思った。その男の歳は前に見た劉備と同じくらいかと思えたが、それは全く別の生き物のように見えた。

「俺はお前等を殺すつもりはない。抵抗を止め俺に従うなら、命は助けよう」

 何平の部隊は重厚な装備の兵に完全に囲まれていた。見えているだけの敵の数は、こちらの五倍はいる。軽装備の山岳部隊がまともにこれと戦えば、為す術もなく全滅させられてしまう。

 杜濩が武器を地に放り捨ててその場に座った。周りの仲間達もそれを見て武器を手放し、何平も同じように両手の剣を捨てて座った。

 縄がかけられ、そのまま魏軍の列の中を歩かされた。負けたのだ。どうして、こんなことになってしまったのか。朴胡の顔を見ると、その目からは大粒の涙が流れていた。それを見ると、自分の眼の奥も熱くなってきた。このままもう故郷には帰れないのだろうか。前を見て歩け、と縄を持つ兵に蹴飛ばされたが、それが痛いのかどうかも分からなかった。

 日が暮れかかった頃、ようやく行軍が停止した。前日からずっと休息がなかったので、さすがに疲れてその場にへたりこんだ。

 捕えられた全員が開けた一か所に引き出され、降伏しろと叫んでいた魏の将の前に並ばされた。その将の周囲は護衛が隙なく固めている。

「こんばんは。曹操です」

 普通の言葉だったが、それで仲間の間に戦慄が走ったのがはっきりと分かった。

「魏軍は山中で戦える者を欲しておる。蜀を見限り、これから魏の兵として働くと言う者がいれば、それなりの遇し方をしてやってもいい」

 曹操の隣にいる、見上げる程にでかい男が言った。

「お前と、お前と、お前」

 唐突に、曹操が持っていた棒で三人を指した。その三人が、前に出された。

「後方で見ていたが、お前等三人は大した働きをしていなかったな。自分の命を惜しんでいたように見えたが、どうだ」

 その三人は何か言おうとしたが、魏の将兵たちの視線に圧倒され、何平には聞き取れないくらいの声で、口をぱくぱくとさせていた。

「斬れ」

 曹操がそう言うと三人は跪かされ、兵が剣を振り上げた。

「お待ちください。命は助けるとおっしゃっていたはずでは」

 内の一人が振り絞るように言った。

「心配するな、他の者は殺さん。ただ使えん者を生かしておくほど、俺は甘くない」

 曹操が手を下ろすと、剣が三人の首が飛ばした。曹操は、何でもないという顔で周りを見渡している。

「どうだ、杜濩。俺のために働けるか」

「・・・・・・はい」

 部下を殺された杜濩は、俯きながら奥歯も噛み合わぬ声で答えた。

「声が小さいな」

 曹操の腹の底から出された低い声は恐ろしく、一歩間違えればここの全員の首が飛ぶと思えた。それは自分達だけでなく、曹操軍の兵まで緊張させている。

「曹操様に、忠誠を誓います」

 敵に屈服する杜濩を何平は悪く思えなかった。他の者たちもそうだろう。

「よろしい」

 それだけ言い残すと、そのまま立ち去って行った。立ち去り際に、何平と一瞬目が合った。その時、曹操の顔がにやりと笑ったような気がした。

 縄を解かれ、兵糧と水を与えられた。二日ぶりの水は美味く、口に入れると全身に染みわたっていくようだった。火を通した兵糧も、疲れた体を腹の中から温めてくれる。情けないことだが、敵から与えられた水と穀物の玉が、とても有り難いものに感じられた。

 食べ終わると、兵の一人に呼ばれた。連れていかれたのは、警護の厳しい幕舎で、何平はそこに入る前に全身を調べられた。

「中で、丞相がお待ちだ」

「丞相とは」

「曹操様のことだ」

 それを聞いて何平の全身に緊張が走った。あの人が、俺に何の用があるというのだ。さっき曹操と目が合った時、にやりと笑っていた。まさか、男色。初めて張嶷と会った時のことが、何平の頭によみがえった。

「よいか。丞相を前にしたら、自らを名乗ってひれ伏すんだ」

 案内の兵にそう耳打ちされ、幕舎の中へと通された。中は特に華美というわけではなく、意外と質素だった。そして兵から言われた通りひれ伏して名乗った。

「何平か。俺は曹操だ」

 曹操は寝台に寝転びながら、女に頭を揉ませていた。

「頭はその辺でいいぞ。ちょっと二人で話したいから、お前等出ていろ」

「しかし、丞相」

 さっきも曹操の近くにいた、見上げるほどにでかい男だ。

「心配するな、許褚。おい、何平。お前ここで俺のことを殺せると思うか」

 そう言われ、反射的に首を振った。意外なことを聞かれて声が喉から出て来なかった。

「ほらな、こいつは大丈夫だからちょっと出ていろって。お前がいると兵が縮こまってしまう」

 そう言われて、許楮と頭を揉んでいた女は静かに出て行った。

「何平」

 呼ばれて、何平は全身を強張らせた。

「そう硬くなることはない。あの奇襲でお前はよく働いていた。囮の輿まであっという間に辿りついていたではないか」

 意外なことを言われ、何平ははっとして顔を上げた。曹操の顔は不敵に笑っていて、褒められたのだと思ってつい笑みが漏れた。

「褒められて嬉しいか、何平。それでいいんだ。男ってのは、そうでなくちゃな。歳はいくつだ」

「十五です」

「若いな。劉備軍には、そんなに人がいないと言うのか」

「いえ、本当なら兵糧の方に回されていたのですが、手柄を立てたかったのです」

「なぜ、手柄を立てたい」

「故郷の母が喜んでくれます」

 曹操が、じっと見つめてきた。何平は曹操の顔を見ながら、ごくりと唾を飲み込んだ。

「お前は、我が軍に組み入れられた。もう故郷には帰ることができないかもしれんぞ。それでも、俺のために働けると言えるか」

 何と答えればいいか分からなかった。故郷には帰りたいが、そう答えるわけにはかない。この人は平気で人の首を飛ばすのだ。しかし適当な答えが見つからず、じっと見つめてくる曹操に対して顔を俯かせた。

「帰りたいのだな」

「はい」

「よい、何平。故郷に帰りたいと思うのは、人として当然のことだ。俺は、そんな当然のことを平気で誤魔化そうとする奴が一番嫌いだ」

 俺に嫌われていれば殺されていたぞ。そう言われたようで、何平の背筋にぶわっと鳥肌が立った。

「戦は、これで何度目だ」

「二度目ですが、前線で戦うのは初めてでした」

「輿に向かって一直線に走った貴様の姿、気に入った。それも初陣であの働きとは、大したものだ」

 曹操が笑いかけてくるので、何平も強張る顔で笑った。

「俺は、山の中で戦える軍が欲しい。そういう軍がなければ、益州の攻略は難しい。これから何平には洛陽へと行ってもらい、山岳戦ができる軍をつくってもらいたい。どうだ、やれるか」

「しかし何故それが自分で、隊長の杜濩様ではないのでしょうか」

「もちろん、あの者にも働いてもらう。だが貴様の方が数段に若い。若いとは、強さなのだ。どうだ、やるのかやらんのか」

「やれぬとは言えません。だから、やります」

「良い答えだ。耳触りだけが良い言葉を吐く輩より、よっぽど頼もしい」

 曹操が外に声をかけると、さっきの男が入ってきた。そして代わりに、自分が外へと出た。

恐い男であることは間違いないが、嫌な男だったとは思わなかった。故郷に帰りたいという気持ちも否定されなかった。自分はこれから洛陽へと連れて行かれる。洛陽といえば、父の故郷だ。巴西に帰ることはできなさそうで母のことが心配だったが、父の故郷へ行けるというのは全く嫌なことではない。負けはしたが、自分はこうしてまだ生きている。今はそれでいいのだ、と何平は自分に言い聞かせた。


 門をくぐる時、二匹の大きな巨像がこちらを睨んでいた。ここには昔、帝が住んでいたと聞いていたが、思っていた程の絢爛さはなかった。ここに来る途中によった長安という街の方が幾らか大きかった。ただ、人は多い。

 洛陽の兵舎は簡素だがしっかりしたもので、それは宕渠の兵糧庫で与えられた寝床よりは幾らか良かった。

 張嶷は今頃何をしているのだろうか。また戦で功を立てたのだろうか。自分は手柄を立てるどころか、敵に投降してしまっている。母と句扶のことも気になった。そんなことはいくら考えても仕方のないことだ。そう分かっていても、気付けば頭の中にはそのことばかりが思い浮かんでくる。

 曹操軍に投降した山岳民族の部隊百名弱は、三つに分けられてその下に洛陽の新兵を七十人置かれた。この新兵達を、山の中で戦える部隊に育てなければいけない。何平は杜濩とも朴胡とも違う部隊に配属され、曹操から言われた通り隊長として新兵の調練をさせられることになった。調練についてわからないことは杜濩に助言を求め、それに従うことにした。

 兵営に、与えられた兵百人を整列させて、その前に何平は立った。

「貴様等の隊長となった、何平だ」

 こういう口調で喋るのは、初めてだった。杜濩にそうしろと言われたのだ。同じく連れてこられた山岳民族はまだ若い何平を疎んじたりはせず、むしろまだ若い何平のことを心配してくれたが、新兵達の中には不満の表情を露骨に示してくる者もいる。初日の調練は、ただひたすらに駆けさせた。洛陽の新兵は山岳民族程に駆けることができず、事あるごとに休もうとし、中には訳の分からない理由をつけて帰ってしまった者もいる。それでも自分は投降兵だという気後れから、何平は彼らに強い言葉をぶつけることができなかった。

 初日の調練が終わると隊長格の三人は集まり、夕食をとりながら今後のことについて話し合った。

「杜濩様。俺には自信がありません」

「俺の部隊にも似たような者はいた。大事なことは、不満をかかえる者達の中心となる人物を見つけ出すことだ。そいつを皆の前で潰してやれば、静かになる。実際に今日の俺は、そう見えた者を三人打ち据えた。これで新兵はぐっと引きしまる」

 言ったのは、もう一人の隊長である袁約だ。

 何平も特に反抗的な者には目をつけていた。帳簿を確認すると、その者の名は王双と書かれてあった。体は大きく自分の倍はあろうかという男だ。あの男を、自分が打ち据えることができるのか。

「逆に、自分が打ち据えられてしまったら」

「死だな」

 杜濩が抑揚の無い声で言った。

「実際に命を落とさなくても、それは軍内における死を意味する。それ以上隊長としてやっていけないのはもちろん、一兵卒に落ちたとしてもその周りからは蔑みの目で見られることになるだろう。同じ隊に属しているからといって、全ての者が味方だとは思わんことだな」

 それ以上、杜濩は何も言わなかった。横から袁約が色々と言っていたが、その言葉は何平の頭には入らず、空返事をするだけだった。軍をまとめることができなければ、男としての死。今更やめるなどとは言えない。どうすれば自分は隊長としてやっていくことができるのか。今考えるべきことは、それだけだった。

 自分の寝床へ帰ると、何平は膝を抱えてそこに顔を埋めた。なぜ曹操はまだ十五の自分を隊長に任命したのか。若さは強さだと言っていたが、若いからこそ経験が少ない。だからこそ、侮られる。袁約は何人かを打ちのめしたと言っていたが、杜濩の部隊ではそういうことはなかったという。それも杜濩の経験の深さがあってのことのだろう。自分には経験もないし、袁約や王双のような大きな体もない。

 逆に相手になく、自分にあるもの。そこまで考えると何平は思い立って外に出た。

 王双が起居する小屋は、名を調べた時に確認している。夜の闇に助けを借りて人目のつかない道を行き、王双の小屋まで辿り着いた。中から何人かの声が聞こえる。どうやら、博打をしているようだ。何平は壁の陰に隠れてじっと中の様子を窺った。

「ちょっと小便してくるわ」

 野太い、王双の声が聞こえた。

 何平は足音を消して小屋の勝手口へと素早く回った。出てきた王双の背後に取り付き、口を押さえて手に持つ小枝で王双の首をすっとなぞった。首を切られたと思ったのか王双は喉のからおかしな音が出していた。何平は王双を小屋の中へと投げ入れた。

「誰だてめえ」

 王双は叫び、中にいた二人は目を丸くしてこちらを見ていた。

「隊長に向かって、てめえとはなんだ」

 腹の奥に力を籠めて大喝した。

「昼に何か言いたそうな顔をしていたから、聞きに来てやったのだ。男なら女々しい態度でものを言わず、自分の口ではっきりと言ったらどうだ」

 王双は怒りを満面に立ち上がった。

「なら言ってやろう。お前のような子供に、何ができるというのだ。命を懸けた戦場に行くのなら、有能な者の下で働きたいと考えるのは当然のことだろう」

 二人は、しばらく睨み合った。後ろの二人は、固唾を飲んでその睨み合いを見ている。

「出ろ」

 何平は短く言った。戦での殺し合いとはまた違った怖さがあった。ここで負ければ、息ながらの死がある。

何平が立てかけてあった調練用の剣を手にすると、王双もそれに続いて手に取った。外にほとんど光はなかった。夜目が利く何平とは違い、王双の眼では上手く距離を測ることができないはずだ。

「どこからでもかかってこい」

 剣を構えて言った。

 王双の大きな体が向かってきた。だがその振られた剣は、半歩下がるだけで何平の体にはかすりもしなかった。空振ったところに、素早く打ち込んだ。

「これでお前は、二度死んだことになる」

 それでも王双は顔を赤くさせて力まかせに打ち込んできた。数撃かわすもあまりの勢いにかわしきれず、剣で受けるとその一撃は重く、何平の動きが一瞬鈍った。その隙を突き、王双は何平の剣を掴んだ。

「貴様」

 何平は自分の頭に血が昇っていくのを感じた。そして掴まれた剣から手を放し、その右拳を王双の顔に叩き込んだ。後ろによろめいた王双も両手の剣を捨て、何平に殴りかかった。かわせる。そう思ったが、かわさなかった。一発殴ったのだ。その分、殴り返されてもいいと思った。そしてまた殴り返した。殴ったその顔が、暗闇の中でにやりと笑ったように見えた。殴り返してくる王双の重い拳を何平は踏ん張って耐えた。自分の顔も、気付けば何故か笑っているようだった。

「何をしている」

 街の衛兵に見つかり、止めに入られた。そして駆け付けた四人の衛兵に連れて行かれそうになった時、どこからともなく杜濩が現れた。杜濩が衛兵に何か手渡し言い含めると、衛兵達は大人しく帰って行った。何平は杜濩に何かを言おうとしたが、杜濩は一つ頷いただけでその場を離れて行った。

 嵐が通り過ぎた後の静寂に、何平と王双の二人だけが残っていた。

「やるではないか、隊長殿」

 王双が何平の肩を叩きながら言った。見ると王双の右目には青痣ができていて、思わず吹き出した。

「お前の拳、なかなか効いたぞ」

 喋ってみて何平は口の中が少し切れていることに気付き、その場に唾と血が混じったものを吐き出した。

「言いたいことは、全て言い切ったか」

「全て言い切った。言い切ったうえに、二度も殺された。三個目の命は、大人しく隊長殿に預けてみることにしよう」

 終わってみれば、何ということはなかった。言いたいことも言えず、分かりあえることなどないのだ。男と男なら、その言い合いが拳を交わすことであってもいい。

 翌日、部下全員を集めるとまだ反抗的な眼をしている者が何人かいたが、王双が真面目に調練に打ち込み始めるとその目は少しずつ減っていき、数日経った頃には無くなっていた。反抗的な者等に王双が何かしたのかもしれない。そう思ったが、それを口に出して聞くことはなかった。


 何平が受け持つ隊は、日を重ねる毎に精強になっていった。中にはこの隊に向かないと思える者もちらほらといて、何平はその者達には特に厳しい調練を課した。調練にすらついてこられない者は、戦場では最初に死ぬ。それだけならまだしも、他の者の足を引っ張ることすらある。隊長となった何平に、口癖のようにして杜濩が教えたことだ。

 山岳戦をやる隊は、他の軍がやるような調練の他に、腰を落として歩くこごみ歩きや、森の中に潜む訓練として長い時間を動かずに過ごすということをする。新兵は特にこごみ歩きの調練を嫌っているようだった。半刻も中腰でいれば、次の日は太ももがぱんぱんになる。だがこれは、毎日やっていればいずれは慣れてくるものだった。問題は、動きを止めておく調練だ。これには向き不向きがあるらしく、四刻の間動いてはならないところを、二刻も過ぎると気が触れたようになる者がいた。王双も、この調練に向かない兵の一人だった。こごみ歩きはよくやり、武器の扱いも上手かったが、動きを止めておくことができない。そんなことでは森の中ですぐに見つかってしまうと何度も言ったが、二刻も動かずにいると体の中でたくさんの虫が蠢いているような感覚に襲われてくるのだという。

調練中の何平は体を止めておくことができない王双をよく棒で打ち、よく口論になりはしたが、文句を垂れながらも隊長である何平の言葉によく従っていた。

三か月が経った頃、曹操が洛陽軍の巡察やってきた。軍営には緊張が走っているようだったが、何平は気にしなかった。誰が見回りに来たからといって、いつも通りの調練をしておかなければ意味がない。曹操が何平の陣営に来た時は、動かずの調練をしていた。寒さが肌を切る季節になっていた。それでもいくら体が冷えようと動くことは許されない。始めはそれを遠くから眺めているだけの曹操だったが、やがて石像のように並んでいる兵の方に近づいてきた。それに気付いた兵の何人かが、動かずの姿勢を解いて曹操の方へと平伏した。

「何をしている。調練中だぞ」

何平は手にしていた棒で、その兵達を打った。そして元の姿勢に戻ったことを確認し、自らも元の場所に戻って動きを止めた。曹操はしばらくそれを見つめていて、静かにその場を去って行った。

「隊長殿、さっきのことはさすがにまずくないか」

一緒に夕餉を囲んでいた王双が言った。

「何のことだ」

「何のことだって、分かってんだろう。曹操様に平伏した奴等のことを打ち据えた時のことだよ」

「戦の最中に、自軍の大将が来たからといって平伏する馬鹿がどこにいる。そんなことをしていれば、敵から笑われてしまうぞ」

「調練中だったじゃないか」

「調練中も、戦中も同じことだ」

 そんな話をしていると、兵が一人やってきた。曹操が自分のことを呼んでいるという。

「ほら、言わんこっちゃない」

 王双が蒼ざめた顔で言った。

「大丈夫だよ」

そう言ったが、全く不安がないというわけではなかった。何平は自分に与えられた使命を果たしていただけで、曹操がそれを気に入らないと言うのなら、それは仕方のないことだった。そんなことまで気にしていれば、何もできやしないのだ。


曹操の親衛隊に案内されて面会した。

「なかなか面白かったぞ、何平。あのような調練は初めて見た」

 曹操は上機嫌のようだった。その隣では許褚が護衛に立っていた。その体の具足からは溢れんばかりの筋肉が隆々としている。

「森の中では、先に敵を見つけた方が圧倒的に有利になります。その先を取るためには、我々は森の中で木にならなければいけません」

「木になるか。さすがは山賊民族、我々が知らない戦い方を知っているようだな。俺を討ち取ろうとしていた時は、どれくらいの時を動かずに待っていたのだ」

「およそ、十刻程」

「それはすごい。しかしそれは、誰にでもできことなのかな」

 さすがによく見ている、と何平は思った。

「耐えられない者も中にはいます。そういった者は、歩兵の隊に回した方がよろしいかと思います」

「誰が意見しろと言った」

 曹操の隣から、低い声が発せられた。

「構わんよ、許褚。こいつはよくやってくれている」

 許楮が曹操に黙礼した。

「軍の再編成を考えている。杜濩と袁約の二人は漢中へと送る。その時に、お前の隊から実戦に使えそうな兵を引き抜いて連れて行かせる。逆に、まだ調練が足りぬと思える兵は洛陽に残り、お前の下で調練を続けさせる。その時に、新たしく徴募した者も少し加える」

「山岳戦に不向きな者達は」

「斬れ」

 曹操は、塩でも取ってくれと言うかのような顔で言った。

「しかし、曹操様」

「情は、許さん」

 曹操の顔が厳しいものになった。斬れと言われて、王双の顔が浮かんできた。動きを止めることができないというだけで、あいつを斬ることができるのか。

「曹操様、恐れながら」

 傍らの許褚が痛いほどの視線を感じた。何平は一つ大きく息を吸い込んで呼吸を整えた。

「なんだ」

「山岳戦ができる部隊と連携できる部隊を作らせてもらえないでしょうか。これは敵に姿を見せない山岳部隊とは違い、姿を見せてもいい戦い方をする隊です。それら二隊が連携すれば、山中での戦術はそれだけ増えることになります」

「ほう、そんなことも可能か」

「山岳戦の隊とは、単体では力の弱々しい隊です。山中で味方の援護をしたり敵を欺いたりする時に、この隊は十二分に力を発揮することができます。曹操様には、それがよくお分かりのはずです」

「山の中でお前等は、裏をかかれてすぐに投降したな」

「予め、山岳戦の隊と呼応する調練を積んだ隊を作っておくのです。その隊を構成する兵は、山岳戦部隊のことをよく知っておく必要があります。この二隊ができれば、益州を攻略する時に必ずお役に立ってみせます」

「面白い、そこまで言うのならやってみろ。しかし、もう杜濩も袁約も洛陽からはいなくなるのだぞ」

「分かっております。それが一人できなければ、首が飛ぶのだろうということも分かっております」

 曹操の眼が、じっとこちらを見つめてきている。さっきとは違い、それは優しさと好奇心とが混ざったような眼だ。

「俺に平伏してきた兵が、お前の隊の中に何人かいたな」

唐突に話を替えられ、何平は少し狼狽した。

「ほら、お前がそいつ等のことを打ち据えていただろう」

「はい、いたしました」

 はっと思い出し、何平は俯いた。

「そう暗い顔をすることはない。調練中だったのだから、あれはあれで良いのだ」

「恐れ入ります」

「袁約などは、調練を投げ出して自分から平伏してきやがったから蹴り飛ばしてやったわ。しかも、どうして自分は蹴られたのか分らないとう顔をしていやがった。それで、洛陽に残すのはお前だと決めた」

 曹操の老いた手が頭に伸びてきて、ぐしゃぐしゃと荒っぽく撫でられた。また褒められたのだと思うと、頬が少し緩んだ。

「言ったことは、必ず実現させろ。それが男というものだ。校尉の官位も正式にくれてやる。それで少しはやり易くもなるだろう。あと、隊の名前も決めておけ」

「分かりました」

 手を振られ、何平は深く礼をして退出した。王双の命が助かった。それだけで、心から平伏したいという気持ちになった。

 御殿から伸びる長い街路を歩き、洛陽の片隅にある軍営へと戻った。方々では、灯りの元で笑い合っている兵達の声が聞こえる。殺させるものか。何平は小さく呟いた。

「隊長殿、無事だったか。心配させやがって」

 王双が、小屋の中から走って出てきた。

「馬鹿野郎」

 心配したのはこっちだ。思ったがそれは言わず、王双の胸を小突いた。小突かれた王双は、それでも嬉しそうな顔をしていた。

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