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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
北伐へ
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敗者の末路

 最悪の報がしらされてきた。街亭で馬謖が兵を城から出して戦い、散々に打ち破られたのだという。どんな理由があってそんなことをしたのか。諸葛亮はその報せを聞いたとき、にわかに信じられなかった。諸葛亮は歯噛みし、無駄だとわかりつつも、馬謖に言うように伝令に対して怒鳴った。その怒りは、諸葛亮の身辺を警護している趙広が狼狽するほどだった。

 行軍中、続々と敗戦の詳細が伝えられてくる。馬謖に与えてあった三万の兵は、今や二万にも満たない兵力になっている。たった一つの小城を守り、本隊を待つという使命を果たすためには十分過ぎる兵力を持っていたはずではないか。

 馬謖に対する不安がなかったわけではない。今まで諸葛亮が見てきた英傑に比べると、幾分も見劣りがした。だからこそ、五千で防げる城に三万を差し向けたのだ。或いは兵を与えすぎたから、この結果を生んでしまったとでも言うのか。

 街亭に着くと、すぐに守将と兵卒を交代させた。守将の王平は一睡もすることなく城を守り、本隊の到着を待っていた。そこまでできるのなら、何故馬謖の行いを止めることができなかったのか。褒めるべき将に対しても悪い感情ばかりが湧いてきた。

 城から目と鼻のさきに、馬謖を破った張郃が布陣していた。全く隙の無い陣である。騎馬を整然と並べた方陣からは強い殺気が放たれていて、今にも攻撃をかけてきそうであった。王平はこの緊張感の中でじっと堪えていたのか。そう考えると、王平に対する悪感情は自然と消えていった。

 先ずは、この張郃軍を叩かねば。そう思った諸葛亮は城内の警備を趙広に任せ、句扶を放って張郃軍を調べさせた。

 そして、馬謖がいる部屋へと足を向けた。城へと帰ってきた馬謖は、怪我を理由に部屋に籠ったきり一歩も外へ出てきていなかった。情けない話だった。例えば昔の劉備軍を支えた関羽や張飛なら、体の一部分を失ったとしても、兵を叱咤して回っていたことだろう。

 部屋の前にいる衛兵を無視して、諸葛亮は勢いよく扉を開けた。そして驚く馬謖の顔を、思い切り平手で打った。寝台に倒れたその馬謖の顔には、反抗の色すら垣間見えた。こいつはもう、使い物にならない。そう思うと、諸葛亮の口からはいかなる言葉も出てこなかった。

「私は」

 何かを言おうとする馬謖を尻目に、諸葛亮は無言で部屋から出て行った。そして馬謖が如何にして負けたのか細かく調べるよう、楊儀に命じた。

 そうこうしている間に、斥候隊が第一報を伝えてきた。全身を汗に濡らした句扶が焦った様子で諸葛亮の前に膝を突いた。敵に見つかったのかと聞くと、そうではないという。

「敵陣に、郭淮と一万の姿が見えません」

 それを聞き、少し考えた。そしてすぐに頭の中が白くなった。すぐ目の前で殺気を放っていたあの張郃軍は、囮だったのではないか。敵の本命は、蜀軍の兵站線。やる気の無い羌族の弱兵に任せきっている兵糧集積地だ。

 諸葛亮は麾下の部将である馬岱に一万の騎馬を与えて兵糧庫へと走らせた。しかし恐らくもう遅い。諸葛亮は、祈るような気持ちで次の報を待った。

 翌朝、目の前にいた張郃軍が忽然と姿を消していた。それが何を意味するか、諸葛亮には痛いほどわかった。兵糧庫が焼かれたという報が諸葛亮に届いたのはそれからすぐだった。食うものが無ければ、もう兵を前に進めることができない。

 諸葛亮は独り自室の椅子に座って天井を仰ぎ、悔し涙を流した。


 取り返しのつかないことをしてしまった。魏を倒すことは、劉備が存命だった時からの悲願だった。そのために蜀は呉と結び、南蛮を征し、羌と結んだ。そして満を持して臨んだ魏との戦で負けた。それも、二万に近い兵を失うという大敗北である。こんなことになろうとは、夢にも思わなかった。負けることがあっても、少数の損害を出して城内に逃げ込めばいいと思っていた。しかし、現実はそんなに甘くはなかった。

 これからの蜀軍はどうするのだ。そんなことは、考えたくもなかった。自分が考えても、もはやどうすることもできないことだった。部屋に籠って寝台に潜り、二日が経とうとしていた。部下には怪我だと言っていたが、その実は大したことなどなかった。部屋の外にいる、自分を見てくる兵たちの目が怖かった。

 兄が、優秀だった。兄の馬良は諸葛亮と組み、奪ったばかりの益州の法を整えていった。その仕事振りは、誰もが認めるところであり、自然と弟である馬謖にも周りからの期待が寄せられた。そう思われていることを、馬謖は痛いほどにわきまえていた。

 兄のようになりたくて、書をよく読んだ。そして学んだことは、必ず誰かの前で口に出して言ってみた。言うと誰かしらが褒めてくれるからだ。

「さすがは馬良殿の弟だ」

 その種のことを言われた時に、馬謖の心は不安から解放された。

 呉との戦で、兄が死んだ。成都から兵を送り出す時にその死は覚悟していたとはいえ、それは辛いことだった。そして諸葛亮は、自分のことを近くに置くようになった。いずれお前は蜀を背負うのだ。諸葛亮からは口癖のようにそう言われた。しかしそれは兄の馬良に対して通すべき義に過ぎず、自分の能力を評価してくれてのことではなかった。

 それでも色々と教えてくれる諸葛亮の気持ちに応えようと馬謖は努めたが、歳が三十を過ぎる頃にもなると、徐々に気付き始めるのであった。自分は、凡庸である。兄の馬良や諸葛亮のように、天才的なところは欠片もなかった。そしてそれを痛感させられたのが、王平との演習戦であった。

 自分は天才ではないが、それでも多少の才には自信があった。しかしそんなちっぽけな自信すら、王平によって打ち砕かれた。それを見た蔣琬や費禕が陰で何と言っているか、想像しただけでも震えるほど苛立った。

 南征の時、諸葛亮は常に自分に先鋒を命じてきた。そして与えられた策に従えば、必ず勝てた。その策は諸葛亮が考えたものだということ知らない部下たちは、馬謖に尊敬の眼差しを送ってくるようになった。気持ちの良いことであった。

 魏との戦では必ず大きな戦功を立ててやろうと心に決めていた。誰かに操られてではなく、自分一人の力で魏軍の先鋒を打ち破ってやれば、周囲の目はもっと自分のことを尊敬するようになる。そうして戦功を立て、蔣琬らの鼻を明かしてやりたかった。

 魏軍騎馬隊は、南蛮軍とは全く異質なるものであった。統制は隅々にまで行き届いており、兵の行動は迅速だった。話が違うじゃないか。馬謖はそう叫んでしまいたかった。

 今になって思い返してみれば、何故あんな浅はかなことをしてしまったのかと思わざるをえない。もし策を誤ってもそこまでの損害は出ないであろうと、根拠もなく思い定めていた。失敗しても、誰かが何とかしてくれるのだろうという気持ちがあった。

 何故、李盛は見え透いた敵の策にかかったのか。何故、張休はもっと奮戦してくれなかったのか。何故、王平や黄襲はもっと必死になって自分のことを止めてくれなかったのか。どれも声に出して言えるようなことではなかった。

 唐突に、部屋の扉が開かれた。諸葛亮。何を言うわけでもなく、自分の顔に平手打ちをくらわし、黙って出て行った。言い訳をする余地すら与えてくれなかった。あんなに冷たい目をする諸葛亮を、今まで見たことがなかった。俺は、これからどうなるのだろう。

 しばらくすると、今度は扉を叩く音がして、楊儀が入ってきた。戦の様子はどのようであったか、取り調べが行われるようだ。

 馬謖は楊儀に連れられて、地下の小部屋に通された。息苦しさを感じる石造りの壁に、幾つかの灯火が揺れている。

 少し間を置いて、李盛も入ってきた。粗末な服に身を包んだ二人は並んで座らされ、正面には楊儀が座った。その周りを、剣を携えた衛兵が囲んでいる。

「これは、まるで囚人のようですね」

 顔面を脂汗で照からせた李盛が言った。囚人のようなのではなく、囚人なのだ。李盛の言葉を聞いた楊儀が、低い声で笑っていた。

 馬謖は楊儀の質問に、包み隠すことなく答えた。その都度、楊儀は竹簡に筆を走らせた。李盛は楊儀の質問に、何も憶えていないと言うのみであった。糞を漏らすくらい恐ろしい体験をしたのだ。恐らく李盛は、本当に何も憶えていないのであろう。しばらくすると李盛はこの場の殺伐とした雰囲気にようやく気付いたのか、自分がどれほど勇敢に戦ったのかをまだ体にある生傷を見せながらまくし立て始めた。その間、楊儀は表情を変えることなく黙って聞いているだけだった。

「楊儀殿」

 馬謖は楊儀のただならぬ様子を前にして、聞かずにはいられなかった。

「我らは、どうなるのだ」

 楊儀は視線を虚空に泳がせ、大きく息をついてから言った。

「我ら蜀軍は、ここから撤退することになりました」

「蜀軍のことではない。俺と、李盛のことを聞いているんだ」

 楊儀は首を横に振った。そして、蔑みの目を向けられた。

「こんな時になっても、まだ自分のことしか考えられないのか」

「なんだと」

「あなたは何人の兵を殺したと思っているのだ。蜀軍の撤退を聞いてもまだ己のことしか案じられないとは、情けないことだ」

 以前とは、口調が違った。

「このままだと、死罪はまぬがれないな」

「待ってくれ」

 李盛が席を立って叫んだ。卓についた手が小刻みに震えている。

「俺は、この人の言う通りにしていただけなんだ。それなのに、何故俺も死ななきゃいけないんだ」

 周りの衛兵が、李盛の体を取り押さえた。

「俺は騙されたんだ。この人について行けば出世できるって、張休にそう言われたんだ」

「摘まみ出せ」

 楊儀が言った。衛兵は李盛の体を拘束し、担ぎ上げた。

「待て、そうだ。俺のことを平民に落としてくれ。俺が悪いわけじゃないんだから、それで十分なはずではないか。だから、平民に」

 李盛が部屋から出され、扉が閉ざされた。外からはまだ李盛が何かを喚いているのが聞こえたが、すぐに聞こえなくなっていった。

「馬謖、お前は何かあるか」

 馬謖は卓に肘をつき、頭を抱え込んだ。どうしてこのようなことになってしまったのか。

「俺は、自分で望んで出世をしてきたのではない。諸葛亮という男が、勝手に仕立てあげてきたことなのだ。俺の器は、そんなに大それたものではなかったのだ」

「それに気付く機会は、今までに十分にあったはずだ。ここへと辿り着く前にそのことに気付けなかったのは、お前の罪だ」

 楊儀は静かに言った。

「お前に何がわかる。周りから期待され、励まされて、やっぱり自分は無能だから勘弁してくれと言えばよかったとでもいうのか」

「言えばよかったのだ。言えば、認められる。しかしお前は言わなかった。自分で自分のことを無能だと認める勇気がなかったのだ。己の無能を認めていれば、周りはお前のことを評価し、助けたはずだ。認めなかったからこそ、お前は己の破滅を招いた」

 馬謖ははっと顔を上げた。楊儀の変わらぬ顔が、そこにあった。

「俺は、死ぬのか」

 壁にはまだ灯がゆらゆらと揺れている。馬謖の目には、そんな灯火の揺らめきすら、羨ましいものに見えた。


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