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王平伝演義  作者: 阿雄太朗
北伐へ
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張郃と郭淮と夏侯覇

 街亭から手前十里に到着し、三人は轡を並べて前方を睨んでいた。もうすぐ、放っていた斥候が戻ってくる頃である。

「夏侯覇」

 張郃が言うと、夏侯覇は馬上で背筋を伸ばした。

「あそこにお前が嫌っている蜀軍がいるな」

「はい」

「お前が司令官なら、ここからどうするか言ってみろ」

 夏侯覇は両腕をやり場なく動かし、難しい顔をして考え始めた。もうすぐ老境に入ろうとしている張郃の目には、まだ若い夏侯覇のそんな仕草がどうにも可愛らしく見えた。

「工夫を凝らし、蜀軍を城外へおびき寄せることが第一だと思います。その方法は、斥候が帰ってきてから練るべきです」

 初陣で上がっているのであろう夏侯覇が、早口で並べ立てた。

「だそうだ。郭淮、お前はどう思う」

「私もそれでよろしかろうと思います」

「ではここは夏侯覇の言葉に従い、斥候を待つことにするか」

 張郃がそう言うと、夏侯覇はまた蜀軍の方に険しい眼を向けていた。

 夏侯覇は漢中で死んだ夏侯淵の次男で、父を殺した蜀に大きな恨みを抱いていた。才気溢れる青年であるが、大きな恨みはいずれ己の身を滅ぼすことを、張郃は知っている。彼の身を惜しいと思った張郃は、長安で軍務に励んでいた夏侯覇を自分の下に付けることにした。張郃は対蜀戦に投入された将軍であるので、夏侯覇がそれを拒む理由はなかった。

 蜀軍襲来の報に接した張郃は、戦に消極的な夏侯楙を恫喝し、涼雍二州から集めた良馬を半ば強制的に供出させて全軍に乗り換えを命じた。そしてすぐに長安を発ち、強行に次ぐ強行を重ねてここ街亭までやって来たのだった。このまま涼州に入り羌族に協力を取り付けたかったが、蜀軍はこれ以上の進軍を許してくれそうになく、どうやらここで一戦交えることになりそうだ。

しばらく待っていると、斥候が戻ってきた。

 郭奕である。この男は長安の「黒蜘蛛」と呼ばれる隠密部隊を率いる隊長であった。妙なところのある男だが仕事は迅速適確であり、その点は父である郭嘉と同じであった。郭嘉は曹操軍の草創期を支えた優秀な軍師で、張郃も共に働いたことがあった。しかし残念ながら、若い内に病を得て死んだ。

 郭奕は司馬懿の直属の部下であり、張郃は対蜀戦に臨んで郭奕の黒蜘蛛を司馬懿から借り受けた。父の元同僚ということがあってか、郭奕は張郃の言葉によく従い、よく働いてくれた。

「馬謖は、城から程近い丘に兵を伏せております。その数は、およそ一万」

「よろしい」

 張郃が言うと、郭奕はさっと姿を眩ませた。さらなる諜報に向かったのだ。

「お前は運がいいぞ、夏侯覇。敵兵をおびき出す手間をかけなくても、向こうから出て来てくれているわ」

 しかし夏侯覇は喜ぶ素振りを見せもしない。腕を組んで何かを難しく考えている。張郃は、初陣を目前にした若者のそんな横顔が嫌いではない。

「罠とは考えられませんか」

 そう考えているであろうと思った。確かに、その可能性はある。

「まだわからんな。単に敵が阿呆だということも有り得る。大事なことは、それを見極めるよう努めることだ」

「しかし将軍、蜀軍の先鋒を任される程の将が、あのような安直な布陣をしますでしょうか」

「それは思い込みだ。こちらがやられて困ることが、相手の目から見落とされているということは、戦場ではよくあることだ。不安なら、もう少し待ってみようではないか」

 夏侯覇は難しい顔をしながら正面を睨み続けている。悩むことで、初陣の不安を紛らわせようとしているのかもしれない。

 続々と斥候が戻ってきた。敵の伏兵は、三か所に置かれているようだ。その数はおよそ三万。街亭の城には少数だけを残しているということか。

「真っ直ぐに街亭へと向かっていたら、我々はあの伏兵に包囲されていたな。危ないところであった」

 そう言う張郃は呑気そのものであった。そんな張郃を見て、夏侯覇は顔から力が抜けさせていた。

「こんなに簡単なものなのですか。私はもっと、戦場では知恵を使い合うものだと思っていたのですが」

「相手によるな。聞くところによると、今の蜀には人材が不足しているらしい。敵の総大将である諸葛亮は、恐らく人選を誤ったな」

「そういうものですか」

「では夏侯覇、どう攻めてやろうか」

 夏侯覇はまた、考える表情を見せた。

「定石ですと、伏兵の拠る丘を一つずつ潰すといったところでしょうか。そして最後に、城を囲う」

「俺もそうしようと思っていたところだ」

「しかし本当に罠が」

 郭淮が、一歩前に出た。

「出過ぎているぞ、夏侯覇。お前も軍人なら、黙って将軍の言うことを聞かんか」

 郭淮に叱られてしまい、夏侯覇はうなだれた。夏侯覇の様子を楽しんでいた張郃は郭淮を黙らそうとしたが、やめておいた。ここで郭淮を黙らせてしまえば、副官である郭淮の言葉が軽くなってしまいかねない。それに郭淮が言う通り、夏侯覇もややしつこい。言葉を待つだけの者に比べれば、それはよほどましなことではあるが。

「では各自、持ち場に戻れ。夏侯覇の初陣を華々しく飾ってやろうではないか」

「御意」

 二人は駆け戻っていった。軍全体に、戦闘開始の気配が漲っていく。張郃は静かに軍配を振り、騎馬の集団をゆっくりと前へ進めた。


 街亭を目掛けて敵が押し寄せてきた。整然と進む騎馬隊の中に、「張」「郭」「夏侯」の旗が浮かんでいる。

 戦闘開始の命令は既に告げてある。張休と李盛が伏せる二つの丘と、鏡の光を使った交信でその確認をし終えていた。あとは敵兵が予定戦場区域に入ってくるのを待ち、包囲し袋叩きにすればいい。

 先刻、句扶の部下が、伏兵が露見したと伝えてきた。馬謖はそれに心の中で舌打ちをした。今更露見したからといって兵を城に戻すという選択肢などあるはずもなく、馬謖はそれを一笑に付すことで誤魔化した。兵を戻してしまえば、城に残った王平に笑われてしまうではないか。

それに戦に不測の事態は付きもので、いちいち一つの問題が発生したからといって、これだけの大軍はそう簡単に右から左へ動かせるものではない。この愚かな忍びは軍指揮のことなど何もわかっていないのだ。それでも句扶の部下は何度も考え直すよう懇願してきたので、馬謖は苛立ち兵達の前で忍びの首を刎ねた。そしてその首を広場に晒して士気を上げようとしたが、兵達の反応は冷ややかなもので、馬謖はさらに苛立った。

 魏軍の動きが、予想していたものと違った。真っ直ぐに街亭へと来るのではなく、李盛の拠る丘に向かい、囲み始めた。忍びが言っていた通り、この伏兵はばれている。しかしこれで、自軍の敗北が決まったわけではない。

 馬謖はすぐに連絡用の鏡を用意した。

「今、助ける」

 何度か交信を試みたが、李盛からの返答はなかった。恐らく、突然敵の大軍に囲まれて狼狽しているのだろう。

 焦ることはない。高地の利を活かして守りを固めておけば、騎馬ばかりの張郃軍を窮するはずだ。そう念じるも思いは届かず、李盛は孤立することを恐れているのか、どうにか包囲を解こうと足掻いているようだった。

 馬謖は張休の丘にも「これから李盛を救援する」と鏡で光を送った。それを諾とする返答を確認した馬謖は、兵をまとめて丘から下りた。

 郭の旗およそ一万が馬謖の前を遮った。同数の騎馬隊なら、長槍を持つこちらの方が有利なはずだ。しかし敵は騎馬を前に出さず、馬上から矢を打ち込んできた。盾を用意していなかった馬謖の兵が、矢雨を受けてばたばたと倒れていく。馬謖は兵力に損害を出すことを恐れ、兵を丘へと戻した。そして高所に立ち、全体の戦況を見渡した。

 張休隊も敵に阻まれて前に出られていない。困ったことになってきた。一度そう思うと、馬謖の膝が細かく震え始めてきた。そして李盛の隊。激しく攻め立てられているが、囲む魏軍の一角が空いていた。罠だ。馬謖はそれを見て直観した。馬謖を丘に追い返した郭の旗が、半数を連れて李盛の方に走った。

 案の定、李盛はその空いた一角から下りてきた。郭の五千がそこに突っ込み、隊列もままならず下りてくる李盛隊が混乱の極みに達した。そこに、夏侯の旗。前後左右から攻め立てられる李盛隊が、見る見る内に数を減らしていく。

 その中から、少数に囲まれた李盛が飛び出してきた。馬謖はすかさず下知をしてこちらに向かってくる李盛を援護させた。

 しばらくして、兵に支えられた李盛が馬謖のところにやってきた。丘の下では、まだ兵達が戦っている声が間断なく続いている。李盛は体のあちらこちらに傷を受け、破れた軍袍から覗かせた太腿には茶色い物が垂れ出た跡があった。

 馬謖にはかける言葉が見つからず、短く、

「休んでおけ」

 とだけ言った。李盛はそれを聞いているのか、何も言わずに息を荒げてその場に突っ伏すだけだった。

 これはまずい。馬謖は自分の手を具足の中に入れて隠し、周りにその震えを悟られないようにした。伏兵の策が失敗しても、兵力差はさほどないためどうにでもなると思っていた。しかし、実際はどうだ。

 敵兵が馬謖の丘の下へと集まってきている。敵は、騎馬隊である。丘の地形を生かせば諸葛亮率いる本隊が到着するまでもつかもしれないが、手持ちの兵糧と水が圧倒的に不足していた。奇襲をかけて、すぐに街亭へと戻る予定だったからだ。

 丘を下りるしかない。しかし敵の馬群が粛々且つ整然と、馬謖と張休がいる二つの丘を囲み始めている。丞相から与えられた三万が、一体どれほど減るのか。いやその前に、ここから生きて帰ることができるのか。


 他愛もない敵だった。三つあった伏兵の一つは既に壊滅させた。魏軍は全てが騎兵であるため丘に立て籠もられたら厄介だと思ったが、包囲の一角を空けてやると敵はあっさりそこから下りてきた。

 そこに郭淮と夏侯覇の騎馬隊が突っ込んだ。虎豹騎と呼ばれる、魏軍騎馬隊の中も最も勇猛な部隊である。

 戦意を失い潰走する蜀兵が、馬の波に飲み込まれるようにして倒れていった。しかし、その兵を指揮していた敵の将は逃げてしまったようであった。

 敵の一隊を壊滅させた夏侯覇が帰ってきた。息を荒くし肩を上下させる夏侯覇は、明らかに血を見て興奮していた。

「馬鹿者」

 ほとんど我を忘れている夏侯覇に、張郃の怒声が飛んだ。

「あそこまで攻めておきながら、敵将の首一つ持って来れんのか」

 夏侯覇がさっと顔を引き締めた。

「申し訳ございません」

 本当は、あんな首のことなどどうでもよかった。あれを逃したとはいってもこの戦いの大勢には何の影響もない。

張郃は轡を寄せ、夏侯覇の若い顔をじっと見た。臆するところのない、いい顔だった。口元には若者らしい無精ひげがちょろちょろと生えていて、激しい呼吸のせいで唾が一筋糸を引いて垂れている。

「あそこに張の旗がある。見えるか」

 自軍にある張郃の旗でなく、敵陣にある張の旗だ。

「見えます」

「あの首を、奪ってこい」

「はい」

 大きな返事をし、夏侯覇は勢いよく走って行った。幸い、敵は弱い。この内に、この若い将にたくさんの経験を積ませておきたかった。

 敵の主力らしい馬の旗の丘には郭淮を当てている。見る限り、その主力が郭淮を出し抜き夏侯覇に横槍を入れてくることはないだろう。

将としてやることは全てやった。後は若い奴らに任せておけばいい。張郃はその戦の様子を、勝ちが決まった闘犬を見物するような気持ちで眺めていた。


 思うように馬を動かすことができなかった。敵を倒せば倒すほど、死骸と武具で馬の足場が埋まっていく。これは、戦場に来てみて初めてわかることだった。

 この不快な足場のせいで、あと一歩のところで敵将の首を逃してしまった。

 自陣に戻ると張郃から怒声を浴びせられた。普段は穏やかな将軍が初めて見せた顔だった。当然だ、と夏侯覇は思った。あの将は討てた。それを、俺はできなかったのだ。

 夏侯覇は気持ちを引き締めなおした。張の旗。次に与えられた俺の獲物だ。五千の先頭で、馬腹を蹴った。右前方には、郭の旗。そちらから敵が出てくる気配はなかった。

 人垣が待ち受けているところへ、夏侯覇は真っ直ぐに突っ込んだ。並べられた槍。馬を飛ばせて敵を踏み潰し、剣を振った。後ろから続く虎豹騎隊も、夏侯覇の後に続いて飛んだ。中には槍を突き立てられるものもいたが、虎豹騎の圧倒的な勢いにより敵は崩れ始めていた。崩れたところを、幾つかにわけた小隊が追い打ちをかける。敵を潰走させるにはもう少しだ。夏侯覇は一度敵から離れて千騎をまとめて一丸となり、敵陣の一番堅そうなところに勢いをつけて突っ込んだ。大きな壁が崩れる手応えを感じた。夏侯覇は敵中に深く入り込み、馬上から敵を斬りまくった。

 潰走が始まった。こうなると、人の集団はもろい。逃げ惑う敵の背中に虎豹騎の槍や戟が突き立てられていった。

張の旗。見つけた。夏侯覇はそちらに馬首を向け、馬腹を蹴った。俺は、お前の首が欲しいんだ。

周囲を守る兵を失った張の旗が見る見る内に近づいた。敵将。こちらを見ているその顔が、ぐにゃりと歪んだ。夏侯覇は雄叫びを上げた。首が、宙に飛んだ。夏侯覇は腕に違和感を覚えた。剣を持っていたはずの右腕が嘘のように軽い。力み過ぎて、首を飛ばした時に剣も一緒に飛んでいったのだ。夏侯覇はそれに気付いて苦笑し、腰にあるもう一本の剣を抜いた。そして剣を掲げ、叫んだ。

「敵将、討ち取ったり」

 夏侯覇の大音声が戦場に響き渡った。小さい頃から、一度言ってみたかったことだった。


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