表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王平伝演義  作者: 阿雄太朗
北伐へ
21/140

句扶危機一髪

 句扶は司馬懿の手の者に囲まれながら、自室へと戻ってきた。麻の入ってある箱はそこにある。句扶の後ろには見張りが三人、ぴったりと付いている。

「この箱に、麻が入っております」

「よし、空けて見せてみろ」

 句扶は怯えた商人を装いながら、その箱を見張りに渡した。三人の注意が、箱に向けられた。

 瞬間、思い切り蹴り上げた。句扶の小さな足が箱を手にした男の股間に鋭くめりこみ、男はうめき声を上げて膝から崩れた。もう一度、蹴り。今度は敵にではなく、柱だ。すぐに部屋の天井が崩れ、大きな音と共に部屋全体が崩れた。こういった時のため、この部屋は柱を一本倒せば崩れる仕組みにしていたのだ。句扶は卓の下に身を滑らせ、懐に忍ばせてあった二本の短剣を抜き取った。粉塵が上がり落ちてくる瓦礫が句扶が隠れる卓を包んだ。

 見張りの三人は倒した。あとは屋敷を囲う者達である。一人、二人、瓦礫の周りに気配が近づいてくる。句扶は短剣で自分の頭を少し切りその血を腕につけて瓦礫の隙間から覗かせた。それに気付いたのか、句扶の周りから瓦礫が取り除かれ始めた。

 句扶は全身の神経を研ぎ澄ませた。近くに五人。これなら抜けられる。句扶は腕を引込め着物を切り裂き、二本の短剣を低く構えた。

 目の前の大きな柱がどけられた。瞬間、句扶は飛び出した。二振り、一人の首を払い、もう一人の目を払った。そして、走った。

 不意を突かれた近くの三人が句扶を追い始めた。句扶は市中を走りながら追手を数えた。七人。周りの市民は何事かとこちらを見ている。

「そいつを捕えろ」

 背後からの怒声。それに反応した市中の男が数人、句扶の前に立ち塞がった。

 どけ。お前らには関係の無いことだ。伸びてくる数人の腕をかわし、走った。

「そいつを捕まえれば褒美がでるぞ」

 その声で、また数人が立ち塞がる。形振り構っているゆとりはなかった。一人、二人、短剣で突いた。急所こそはずしたが、できれば避けたいことであった。だがこれで、野次馬は下がる。そしてまた、走る。後ろとの差は詰まってきている。また、立ち塞がる男。

「どけ、殺すぞ」

 だが男は下がらない。句扶は短剣を突き出した。だが、短剣は空を斬った。しまった。そう思った時にはもう地面に転ばされていた。男は野次馬の一人ではなく、追手の一人であった。

 追手が、句扶の周りに人垣を作った。句扶は立ち上がり、二本の短剣を両手に身構えた。いつの間にか追手の数は十を越え、句扶を囲んだ。人の輪が、じりじりと狭まってくる。ここまでか。自裁の二文字が頭をよぎった時、敵の一人が倒れた。囲いが崩れ、二人、三人と倒れていく。何が起こった。そう考える前に、体がそちらの方へ動いた。

「句扶」

「兄者、何故ここに」

 言いながら、二人を倒した。王平の他に、若い小柄な男もいて、鮮やかに敵を倒していた。三人は囲いを脱し、走った。

「どけ、どけ」

 短剣を片手に怒声を飛ばすと、野次馬が開けて道ができた。

「兄者、城内へ」

 そう言い、走りに走った。追手は来るが、道を塞いでくる者はもういない。夏候楙がいる太守府が見えてきた。幸い、門衛は句扶と顔見知りである。

「いかがなされました、李栄殿」

「説明している暇はない。早く太守様に会わせてくれ」

 門衛は頷き、句扶と王平の二人を素早く門内へと入れて門を固く閉じた。外からは、門衛と追手が言い争いを始める声が聞こえてきた。

 助かった。句扶は呼吸を整えながら、顔を知った者を見つけて水を無心した。

「兄者、ここでの私の名は、李栄です」

 声は出していない。唇の動きでそれを伝えると、王平は頷いた。

「お怪我をされているようですが、大丈夫ですか」

 水を渡されながら言われ、句扶は頭から血を流していたことを思い出した。血は既に止まっているが、句扶の体の所々がその出血のせいで赤く染まっている。

「怪我は大丈夫です。それより、太守様に」

 二人は城内へと通され、すぐに夏候楙と対面することができた。

「どうした李栄、血だらけではないか」

 夏候楙が句扶を認めると、走り寄って句扶の手を取った。

「司馬懿様の手の者に追われました。どうか、どうか御慈悲を賜りたく、勝手ながらここに逃げ込んでまいりました」

 夏候楙の顔に、激情の色が浮かんできた。

「そういうことであったか。よくぞ生きていてくれた。それで、その者は」

「私が雇っておりました、護衛の者でございます」

「よくぞ李栄をここまで送り届けてくれた。お前らには後で何か褒美を取らせよう」

 そう言う夏候楙に、王平と若い男は頭が地につくほどに平伏した。

「ほとぼりが冷めるまで、お前らはここにいるんだ。お前らは必ず俺が守ってやるから、安心するがいい」

「夏候楙様」

 句扶は目に涙を溜めさせて言った。そんな句扶の態度に満足したのか、夏候楙は自ら三人を先導し、客室へと案内した。句扶はさすがに疲れたのか、寝台にどっと身を横たえさせた。

「信頼されているんだな、句扶」

 王平は落ち着いた様子で言った。

「ここの太守夏候楙は麻が好きなので、そこに付けいっておりました」

 通された客室には見張りすら立てられていないようだったが、句扶らは極力小さな声で話した。

「甘いのだな、ここの太守は」

「それはもう、かなり。ところで兄者は、何故ここへ」

「丞相から、お前の仕事を手伝うように命じられて来たのだ。それが、まさかこんなことになるとはな」

 そういえば、屋敷の使用人が客が来たとか言っていた。あれは、王平らのことであったか。

「助かりました。私は、自分の首を切ることすら考えていました」

「そんなことを簡単に言うな、句扶。しかしあの状況ならそうも思うか」

「ところで、その者は」

「ああこいつはな、趙雲殿の次男で趙広という。まあ、俺の弟子のようなものだ」

 趙広は突然訪れた実戦で気が立っているのか、これまで何も喋らず肩を震わせていた。

「礼を言うぞ、趙広。人を殺めたのは初めてか」

「はい」

 趙広ははっとして、震える手を後ろに隠しながら答えた。

「ははは、そうなるのも無理はない。俺も初めて人に手をかけた時は、そうなったものだ」

 王平が趙広の肩に手をかけながらそう言うと、それでいくらか緊張が解けたのか、強張った笑みを見せた。

「兄者」

 句扶は思いつめた顔をして言った。

「なんだ」

「このまま黙っているわけにはいきません。司馬懿の首は俺のこの手で取ってやりますよ」

「どうやって」

 王平は困った奴だという顔をして言った。

「それは」

「句扶、もう蜀に帰るぞ。俺がここに来たのは、お前を蜀に連れ戻すためでもあるのだ。丞相も、句扶は十分に働いてくれたと言っていた」

 句扶はぐっと拳を握った。ここまでやられていて、おめおめと蜀に逃げ帰るわけにはいかない。

「兄者、もう一手なのです。もう一手で、長安は内部から崩れるはずです」

「だから、次のその一手はなんなのだと聞いている」

 句扶は黙った。突然の襲撃直後である。次の手などまだ考えているはずもない。しかし、これで夏候楙と司馬懿の不仲は決定的なものとなるはずだ。言ってみれば、これからが勝負ではないか。

「句扶」

 王平の優しい目がみつめてきた。

「お前、熱くなっていやがるな。隠密がそう熱くなってどうする」

熱くなっている。言われて、句扶は大きく息を吸い、小さく笑った。

「お前はよくやった、句扶。これから蜀と魏で大きな戦が始まる。その時に、お前の力が蜀軍には必要なのだ。後の長安のことは、他の者に任せておけばいいさ」

「他の者に、ですか」

「手柄などそう焦るもんじゃない。命を失ってしまえば、立てられる手柄も立てられなくなるぞ」

「私は手柄を焦っているわけじゃありません」

「なら、もう帰ってもいいだろう。帰って少し休もうではないか。それでもお前がここに残ると言うのなら、俺も帰れないな。長安で死ぬというのなら、俺も付き合おうぞ」

 句扶はうなだれた。ここまで言われてしまえば、帰るという他ないではないか。

 句扶は頷いた。それを見た王平も満足気に頷き、部屋の灯を消した。

「寝よう」

「今晩は、私が見張りに起きています」

 趙広が言った。

「よし、では見張りはお前に任せよう」

 王平はそう言って、寝台に身を潜り込ませた。恐らく趙広は、今晩は寝ろと言っても寝付けないであろう。

 暗くなった部屋の中で、句扶も寝台に身を入れた。久しぶりの、監視の無い寝床である。句扶の体から、張りつめていたものが徐々に抜けていく。その感覚が句扶には心地良かった。

「兄者、助けていただいた礼がまだでした」

「礼など、生きて帰って戦場で返せ。それまでしっかり休んで、力を蓄えておくことだ」

 すると間もなく、王平が寝息を立て始めた。

 昔から、人から優しくされることが苦手だった。全ての優しさには裏があると思っているところがあり、優しくされてもそれを素直に受け入れることができなかった。だが王平の言葉に、裏があろうはずがなかった。

 この世に生まれ落ち、心から信頼できる人に巡り合うことができるのはどれほどの確率なのであろうか、と句扶はふと思った。利害に左右されることなく、自分のことを助けてくれる人のことだ。百人いたとして、その内の十人もそれに恵まれることはないであろうという気がする。

 ありがたい。本当にありがたいことなのだ。句扶は寝台に顔をうずめ、蜀へと帰ることを自分の中で納得させた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ