襲われた兵糧庫
劉備軍はその後、何平の住む巴西の大きな豪族である黄権を帰順させた。帰順させたといっても戦によってではない。それは話し合いによってであり、流れた血は一滴もなく周りの村で略奪があったという話も聞かなかった。何平はそれを聞いて、戦なくして軍を持つ者同士が分かり合えるものなのかと驚いた。
父は何平が五歳の時に、漢中の張魯と益州の劉璋が行った度重なる戦の中で死んでいった。たった二人の都合のために父親を奪われた何平は、行き場のない憤りを母へとぶつけた。何故、父さんは死ななければいけなかったのか。男がそうやって泣いてはいけませんと言う母の前で、何平は大声で泣きに泣いた。涙がとめどなく溢れてくるところに、母の平手打ちがとんできた。それは男として恥ずべきことです。そう言う母の顔は毅然としていたが、目は泣いていた。それでようやく、何平は泣くことをやめた。それから何平は、命を奪う戦というものを身近に感じるようになり、自分もいつかは一人の兵となるのだろうと漠然と考えていたのだった。
何平は、劉備軍に興味を持った。日ごろから母の前では父を奪った戦は嫌いだと言っていたが、それは母に対する気遣いがほとんどであり、本当は歳を重ねて体が大きくなってくるにつれて戦に対する興味も大きくなっていた。母の目を盗んで剣に見立てた木の棒を振ることもあったし、実際に朴胡とそれで打ち合うこともあった。
劉備軍がこの村の付近を通ってから一ヶ月が過ぎようとしていた頃、役人が村にやってきて戸籍を整備しだし、それに見合った徴兵を始めた。その徴兵される男の中には、何平の名も入っているということを、軍人見習いの朴胡が伝えに来た。
「そんな、まだ何平は十五になったばかりだというのに」
朴胡を前にして、母は顔面を蒼白にして言った。
「大丈夫ですよ。私は正式に軍に所属しているので前線に行きますが、まだ若い者は兵糧を扱う仕事をするだけです」
「それでも、あと数年すれば兵として戦わなくてはいけなくなるのでしょう?」
朴胡が困ったような顔を何平に向けてきた。母がこう言うだろうとは分かっていた。しかし何平は、もう戦に対する興味を包み隠すつもりはなかった。
「母さん、俺も男なのです。ここで兵に取られなかったとしても、俺が男である限りいずれまた別の形で戦わなくてはならない時がくるでしょう。同じ戦うなら、俺は父さんが命を落とした戦場で戦ってみたい」
母は、俯いたまま黙ってしまった。
「そんな顔をしないで下さい、母さん。必ず生きて帰ってくると、約束します」
「必ず、帰ってくるのですよ」
父も、このように戦場へ行くことを止められたのだろうか。何平は母の言葉を聴きながら、ふと思った。
「眼下の敵は、劉備様がこの地を治めることを良しとしない土豪たちだ。そいつら自体は単なる烏合の衆でしかないのだが、裏では北国の軍が糸を引いているらしい」
北国の軍は劉備が益州を奪ったのと同じ頃に漢中の張魯を滅ぼし、今ではその勝者同士が巴西の地で戦を始めようとしているのであった。
「そいつらが拠る山々が険阻で厄介なのだと、隊長の杜濩様が言っていた」
「成都から、軍はこないのか?」
成都とは、益州の州都である。
「張飛様という将軍が一万と共に派遣されるらしいが、劉備軍は精強でもまだ山岳戦には慣れていないらしい。だから俺達のような山岳民族ががんばらないといけないんだ」
朴胡は興奮したように言っている。初陣へと向かう緊張を打ち払おうとしているのかもしれない。
「運ばれた兵糧は一旦、俺等の村から目と鼻の先にある宕渠県に集められる。そしてそこを拠点として、巴西の賊を一掃するんだ」
熱を込めて言う朴胡を前にして、何平も手の平にじんわりと汗がでてくるのを感じた。ただ、自分は兵糧庫付きの兵だ。この緊張感は朴胡のそれと比べれば小さいのだろう。
「山岳戦だと、山の中にたくさんの罠もあることだろう。そんな山の中を進む時は、お前といつも山の中で遊んでいたことが役に立つんだろうな。必ず手柄を立ててやるんだ」
そう言う朴胡が、何平には少し羨ましく感じられた。
宕渠県に築かれた兵糧庫は深い森の中にぽつんとあり、そこで伐り倒した樹木で幾つもの倉が造られていた。そこが人目につかない所であるのは、敵にその場所を特定されにくくするためだ。
「よいか皆、鼠を見かけたら容赦なく殺せ。兵糧を盗もうとする奴も鼠と同じだ。兵糧は軍の命と言っても過言ではない。大事に扱うんだぞ」
何平と同じくして宕渠に入った者達を前にして、左腕の無い老人が言った。隻腕で髪や髭に白いものがやや混じっていたが、その老人の強い語気には十分過ぎる程の迫力が感じられた。
そしてその老人に、自分が担当する倉の前まで連れて行かれた。
「兵糧のある倉には、一軒につき三人が配属される。寝食もそこですることになる。お前はここだ。おい張嶷」
中から、上半身が裸の若い男がでてきた。若いといっても、自分より歳は五つくらい上だろうか。
「何平といいます」
張嶷と呼ばれた男は頷き、何平を中へと招き入れた。ふと、倉の奥から呻き声が聞こえて何平はそちらに目をやった。頭頂を晒した大男が、片腕を押さえて部屋の隅でうずくまっていた。
「おう、あいつはな」
何平が訊く前に、張嶷は口を開いた。
「俺が昼寝をしていたら上から覆いかぶさって犯そうとしてきやがったんだ。だから腕を折ってやった。前線で軍機違反を犯してこっちに回されたらしいのだが、向こうの軍内でも同じようなことをやったんだろうな」
張嶷は二つの椀に瓶に入った水を入れて何平に差し出した。そして何事もないかのように腰を下ろしたので、何平も呻く男を横目で気にしつつその場に座った。
「軍内には、ああいった馬鹿が少なくないらしい。それも戦に出ることができない者が多い兵糧庫には特にな。お前も十分に気をつけることだ」
「貴様、殺してやる」
腕を折られた男が顔を床にこすりつけながら、犬のように口から涎を垂らしてこちらを睨みつけていた。張嶷はその男に冷たい視線を向けた。
「何平といったか。ちょっと待ってな」
言うと張嶷は寝床の藁を掴んでその男の口へとつっこみ、折れた腕を何度も蹴り飛ばした。何度か蹴るとごめんなさいという声が聞こえてきたが、もうしばらくすると気を失ったのか全く動かなくなった。
「よし、静かになった」
平然とした顔で張嶷は元の場所に座り直した。
「ところで、お前いくつだ。見たところかなり若いようだが」
「今年で十五になります」
「そうか、なら軍ってのは初めてだろ。いきなりこんな場を見せられて、驚いたかな。まあ兵糧の兵の中にも良い奴はいるんだが」
「確かに驚きましたが、いい意味で驚けたと思います。自分の友人は前線に回されてそれを羨ましく思ってましたが、こっちはこっちで楽しそうですね」
「楽しそうだと。お前、若いわりにはなかなか根性座ってるじゃないか」
いきなり見せられた暴力的な行動とは裏腹に、その喋り方には好意が持てると何平は思った。
「ところで、その友人ってのは山岳民族なのか」
「そうですが、どうしてそれを」
「俺も前線で手柄を立てたかったが、山岳民族じゃないという理由でこっちに回されたんだ。劉備軍は今、山岳戦を得意とする者を躍起になって集めているらしい。お前はどこの出身なんだ」
「巴西です。父は洛陽という所が生まれなのですが、劉焉が益州に入った時に同じくしてきました。母は山岳民族なので、自分は混血ということになります」
劉焉とは、劉障の父である。
「そうか、じゃあお前の親父さんは前線で戦っているんだな」
「父は戦で死にました」
張嶷は、少し鼻をこすった。
「悪いことを聞いた」
「いいえ、自分がまだ幼かった頃の話です。気にしないで下さい」
それからしばらく、二人は自分自身のことについて語り合った。従軍するということで何平は緊張していたが、いきなり良い友人ができたようで嬉しかった。
「こいつ捨ててきちゃおうぜ」
夜になってそう言った張嶷に、何平は笑顔で頷いた。夜の暗がりの中、両手両足を縛った頭頂の禿げた男の足側を何平が持ち、上半身を張嶷が持って林の中へと入った。木の根に躓きそうになる度に、張嶷が大丈夫かと声をかけてきてくれた。月明かりの中で悪戯をしているようで、何平は楽しかった。そして誰にも見つかりそうにない岩の陰に、両手両足を縛ったままその男を置き去りにしてきた。
次の日、隻腕の老人が見回りに来た時、張嶷が言った。
「例の軍機違反を犯した禿げ野郎は、夜中の内に脱走したようです。人員の補充をお願いします」
「うむ、わかった」
それだけ言い、老人は立ち去った。
「簡単なものなんですね」
「あの人は元々前線で指揮を執っていた人で、軍機違反を犯す奴をかなり嫌ってるからな」
夕刻になると、補充要員がやってきた。その者は驚くほどに体が小さく、今まで何平が会った誰よりも無口だった。
「歳はいくつだ」
「名前は何という」
その小さな男は、話しかけても目を逸らすだけで、ろくに答えようとしなかった。不便だからと何平が頼み込むようにして名前を聞くと、句扶、とようやく呟くようにして答えた。
無口で無愛想ではあるが、与えられた仕事はきちんとこなすので、何平も張嶷も喋らないということ意外には別段不満を感じることはなかった。
何平が想像していたよりずっと穏やかな時が流れた。周囲ではたまに喧嘩が起こったが、腕っ節の強い張嶷のおかげで、何平の周りで喧嘩はほとんど起きなかった。
句扶は、いつまで経っても無口だった。張嶷はその無口さに半ば諦めていたが、何平は粘り強く話しかけた。
「そうか、そんなに近くに住んでいたんだ。なら、俺と同郷だな」
辛抱強く話しかける何平に、句扶はようやく自分の住んでいた村の場所を教えた。何平が微笑みかけると、句扶も少し笑ったような気がした。
「何だ、句扶が喋ったのか」
大きな声で張嶷が近づいてくると、句扶はまたそっぽを向いて黙りこくってしまい、張嶷は閉口した。
日が経ちここでの生活に慣れるにつれ、句扶は何平になつきはじめていた。張嶷に対しては相変わらずで、空いた時間になると張嶷はつまらなそうに昼寝をし、何平と句扶は川辺に行って遊んだ。
「こうやって、葉に切り込みをいれて、へたの部分をそこに入れるんだ。先を細長くすれば速い船ができるぞ」
句扶は意外と手先が器用で、何平の言う通りに形の良い葉の船を作った。朴胡の作ったものより上手く、浮かべてみると水の上をよく走り、それを見た句扶は口をにやつかせていた。
「ななかな筋がいいじゃないか、句扶」
褒めると、句扶は照れたように横顔でへへっと笑った。割った石と木の枝で手槍を作り、これで川魚をとるのだと手本を見せると、句扶も小さな体を身軽に動かし見事に魚をとって見せた。
「すごいじゃないか句扶。はじめは魚にそう当てられるものではない」
また句扶は照れて笑った。兵糧庫内では決まった者しか火を使ってはいけないという規則があるので、二人は川辺で石を囲って火を熾し、魚を焼いた。
軍といってもここは前線から離れていて、危険なものは何もない。ただ隻腕の老人から言われた通りに穀物の袋を運べばいい。ちゃんと働けば、飯は食えるし自由時間だってある。それでも張嶷からは、戦中は何があるか分からないから気をつけろ、とは何度も言われていた。
「あ・・・・・・」
向かい合って焼き魚を貪っていると、句扶が何かに気付いて何平の背中の向こう側を指差した。振り返ってみると、兵糧庫の方から不自然な煙が上がっているのが見えた。煙はどんどん大きくなり、それが二筋三筋と増えたところでようやく異変に気が付き、何平は腰を上げた。戦中は何があるか分からない。張嶷の言葉が思い出された。
「句扶、行こう。張嶷さんが」
それだけ行って、何平は後ろを振り返ることもなく駆け出した。
兵糧庫に近づくにつれて、ものが焼ける臭いが強くなり、人の喚声も聞こえてきた。木と木の間を通り抜け、自分が受け持つ小屋が見えてきた。張嶷は、無事なのか。そう思った時、何平は何かに足を取られてその場に転んだ。足元を見ると、自分の足首を血だらけの手が掴んでいた。何平は驚き、必死にその手を振りほどこうと足を振った。
「いたい、やめろ。俺だ、張嶷だ」
血まみれではあったが、よく見ると確かに張嶷だった。
「大丈夫ですか。どこを怪我してるんですか」
「馬鹿、静かにしろ。俺はどこも怪我なんかしていない。これは、敵を斬った時の返り血だ」
言いながら張嶷は、もう一方の手で持っていた血のついた剣を何平に見せた。
「ここに潜んで、やり過ごそうとしていたんだ。あいつらは賊とはいえ、倉庫番である俺達よりかは強い。一対一なら勝てる自信はあるが、まともにやりあえばここの兵は皆殺しにされる。ここはもう離れたほうがいい。句扶は、まだ川にいるのか」
何平はそこでようやく句扶がいないことに気付いた。ずっと後ろを付いてきているものだとばかり思っていた。
「句扶は逃げたか。今はその方がいい。俺達もここから離れるぞ」
行こうとすると、突然地鳴りが聞こえてきた。何か大きなものが近づいてきている。立ち上がろうとしていた何平と張嶷は、もう一度その場に身を伏せた。
見えてきた。地を鳴り響かせていたのは、たくさんの蹄が駆けてくる音だった。そして朴胡と見た威風はためく張の旗。その先頭には一際大きな馬に乗った虎髭の男が矛を掲げている。
「貴様等、首魁は絶対に逃すんじゃねえぞ。邪魔する者は、皆殺せ」
虎髭がそう叫ぶと、騎馬の一団は散開した。張の旗の軍が、そこら中に火をつけ荒らし回っていた賊を追い立て、殺していった。
「張嶷さん、行きましょう。行かないと、俺達まで殺されてしまいます」
「すごい、これが劉備軍」
張嶷は、その軍に魅入っていた。
「張嶷さん」
体を揺らすと張嶷は我に返り、ようやく体を起こした。
「よし、静かに、ゆっくり行くぞ」
二人は、林の中を慎重過ぎるほどにゆっくりと後ずさり、ある程度の距離になると全力で駆けてその場を離れた。
さっきまで魚を焼いて食っていた場所まで、難無く辿り着くことができた。そこでようやく腰を落ち着け、張嶷は川に入って自分の体についた返り血を洗った。
「息を整えておけよ。死にたくなければもっとここから離れておいたほうがいい」
何平は大きく深呼吸しながら周囲を見渡した。句扶は、どこへ行ってしまったのか。
「俺達の兵糧庫は、恐らくおとりにされたな」
川沿いを歩いていると、張嶷が言った。
「どういうことですか」
「兵糧庫が襲われてから、軍が救援に来るのが不自然なほどに早かった。山に籠る相手にこちらの兵糧庫の情報を流して誘い出したのだろう」
「そんな、ひどい」
「いいや、何平。これが軍というものだ。お前は父親に憧れて軍に入ったと言っていたな。この程度でひどいと言うなら、軍人になるのはやめておけ」
何平はそれに対して何も言えなかった。心の準備など何もできていない時にいきなり殺し合いが始まり、何平は頭の中を整理しきれずにいた。
不意に、右側の草むらが大きく揺れた。誰か、いる。張嶷は手に持っていた剣をそちらに構えた。
小さな人影が飛び出てきた。出てきたのは、句扶だった。
「無事だったか」
何平は、思わず句扶に駆け寄ってその小さな肩に手を置いた。
「この先は、行かない方がいい」
句扶が小さな声で言った。句扶が喋ったので、張嶷は少し驚いていた。
「どうした、句扶。この先に何があるというのだ」
「たくさんの賊が、馬に乗って向こうに駆けて行った。多分、向こうに行っても危ない」
この先には、この県の首邑がある。賊は兵糧庫と同時に、そちらにも襲撃をかけたのだろうか。
日が中天に差し掛かっていた。風の調子はいつもと変わらず、木々がさわさわと揺れている。目の前の光景はいつもの日常のそれであり、この地が戦場なのだとはいまいち何平は信じることができなかった。
「何平、句扶、お前らはここに残れ」
「残れって、張嶷さんはどうするんですか」
「俺はこれから手柄を立ててくる」
それだけ言うと、まだ何か言おうとする何平を尻目に張嶷は走り出した。
無茶だ。何平はそう思うと同時に張嶷の後ろを追って走った。今度は、句扶も後ろから付いてきている。
川沿いを外れ、林の中を駆けた。これから自分もこのまま殺し合いの中に入っていってしまうのか。兵糧番をするというだけでも必死に止めようとした母がこのことを知れば、仰天して気を失ってしまうかもしれない。
やがて、首邑が見渡せる丘に出た。眼下では村人の住む家々が焼かれ、賊達が好き放題に暴れ回っている。
「お前ら、来るなと言ったはずだぞ」
張嶷はそう言ったが、顔は笑っていた。何平も強張る顔で無理やり笑顔をつくって返事をした。
三人はしばらく丘から様子を見ていた。この殺し合いは、一方的なものだと何平は思った。奇声を上げる賊達は、逃げ回る村人を虫けらでも潰すように殺している。
「どうだ、何平。これが戦だ。俺が来るなと言った意味がわかったか」
意気込んでいる張嶷だったが、その手は震えていた。朴胡も震えていた。何故、こんな思いをしてまで戦わなくてはならないのか。この殺し合いに、自分の身まで投ずることに意味はあるのか。隣では、いつもと変わらぬ様子の句扶が無表情で村を見下ろしている。
しばらくすると、聞き覚えのある蹄の音が聞こえてきた。音の方を見てみると、黒い塊がすごい速さで砂埃を上げて近づいてきていた。張の旗。先頭にはさっき見た一際大きい馬に乗った虎髭の男がいた。
「さすがにこっちの状況もよく見ている」
張嶷が呻くように言った。
「どうして、あの軍はこっちの状況が分かったのですか」
「軍ってのは、斥候というのを放って常に周囲のことを探っているんだ。その斥候で、こっちの状況を知ったのだろう」
張の旗が突っ込むと、今度は賊が一方的に殺され始めた。武器を捨てて許しを乞う者も、虎髭の騎馬隊に容赦なく突き殺されていく。賊が四散するのにさほど時はかからなかった。
「おい、何平。あれを見ろ」
十五騎程度の集団が村から離れようとこちらに向かって来るのを張嶷は指差した。その騎馬の集団は、明らかに中心にいる人物を守るようにして動いている。
「あれが首魁に間違いない。俺は、行くぞ」
張嶷は震える手で剣を握り締めた。切り立った岩山によじ登っていく張嶷に二人は続いた。
「くるぞ。間違いない、この真下だ」
その集団は、見る見る内に近づいてくる。何平は朴胡と一緒に劉の旗の元に落ちた時のことを思い出した。子竜と呼ばれた大男とその周囲の兵は近くにいるだけで恐ろしかった。だが眼下に近づいてくる賊からは、さほどの恐ろしさは感じられない。ここで三人で身を潜めていればこれをやり過ごすことはできる。張嶷が出て行こうとしても、それに抱きついて止めればいい。しかしその考えが湧く一方で、あいつ等は恐くないと思い込もうとしている自分もいる。恐くないと思い定めたところで、自分に何ができるのか。相手から見れば、自分はもっと怖くない存在ではないのか。
「張嶷さん、やっぱりだめだ。こっちは三人しかいないのに、ここから出ていって一体何ができるっていうんです」
何平は張嶷の腕を掴みながら言った。
「一撃でいい。あの中心にいる者の体に、この剣を突き立ててやればいいんだ」
「でも失敗したら、死にます」
掴んでいた腕からふっと力が抜け、張嶷はその腕で何平の体を引き寄せ、手を握った。張嶷は、もう震えてはいなかった。
「何平。世の中にはな、戦ったふりをして満足している馬鹿野郎がたくさんいる。ここで危険に身を晒そうとしている俺も馬鹿野郎なのかもしれない。お前は、どっちの馬鹿野郎がいいと思う」
そう言い張嶷は手を放し、剣を大きく振りかぶって岩山から飛び降りた。何平は思わずあっと声を上げた。
張嶷の剣が、中心にいる人物の胸を貫いた。突然のことでその集団は急に馬を止めることはできず、しばらく進んだところでその半数だけが馬首を巡らした。残りの半数はそのまま駆け去って行った。何平も意を決して岩山を降り、張嶷が殺した男が持っていた戟を手にした。
「てめえ、よくもお頭を」
馬首を巡らした賊の一人がそう言い、こちらに向かってきた。何平は大声を上げ、戟の柄の先を持って大きく振り回した。それだけで、賊は容易に近づくことはできなかった。
「おい、もう行こうぜ。正規軍に追いつかれちまう」
「あの女だけでも取り戻すんだ。こんな餓鬼、すぐに殺してやる」
言ったその男の頭に何かがぶつかり落馬した。背後からは、あの蹄の音が近づいてきていた。
「だめだ、もう逃げるぞ」
落馬した男を残して、賊達はその場から一目散に逃げ去った。残された一人は気を失いかけていたのか、頭を抱えて体を起こそうとした。何平は狂ったような声を上げ、その男の頭に持っていた戟を振り下ろした。ぐしゃ、という嫌な音と共に男は崩れた。何平はそれでも動かなくなったその体に、今まで出したこともないような声を上げながら戟を振り下ろし続けた。血と肉が飛び、辺りに血だまりが広がった。
「もういい、何平。もうそいつは死んでいる」
張嶷が何平の体を抑えつけると、ようやく何平は戟を放してその場に座り込んだ。
「やったぞ。俺達の勝ちだ。奴等の話からして、やはりこの男は賊の首魁だったのだ」
張嶷が斃した男の方を見ると、その傍らに誰か倒れていた。よく見ると、女だった。
「戦利品として持ち帰ろうとしていたのだろうな。おい、大丈夫か」
張嶷は、その女の頬を軽く叩いた。すぐに女は眼を覚ました。
「触るな、獣共」
女は強い目で睨みつけながら言った。
「獣共は、俺達が殺した。こいつを見ろ。お前を攫おうとしてた男だが、もう死んでいる。家に帰れるから、もう心配するな」
張嶷は胸に剣が刺さったまま死んでいるその男の頭を足蹴にしながら言った。女はそれを見ると、気が動転したのかまた気を失ってしまった。
張の旗を掲げた騎馬隊がやってきて、ふみ潰されるのではないかと思うくらいに近づいた所で止まった。
「貴様等、何者だ」
虎髭の大男が、馬上から叫んだ。やはり、賊にはない迫力だと何平は思った。
「宕渠にて兵糧庫の番をしていた者です」
張嶷が平伏したので、何平もそれに倣った。隣ではいつの間にか岩山から降りてきていた句扶がいて、同じように平伏しているつもりなのか足を折って地面にうつ伏せになっていた。
「首魁を討ち取るとは、大義であった。恩賞の沙汰は、ここに残していく者から聞け」
そう言うと虎髭率いる張の軍は、賊が逃げた後を追って駆けて去った。
残されたのは、戦場には似つかわしくない、具足姿が浮いているように見える男だった。それでも後ろに三騎の供を連れていることから、何かしらの地位にある男なのだろうと何平は思った。
「全く、張飛殿にはついて行けんわ。お主等、よくやってくれた」
後ろの三騎とは違い、肩で息をしながらその男は言った。
「どうやって討ち取ったのか、詳しく状況を説明してもらおう」
張嶷は岩山を指差しながら、それまでの経緯を話した。
「私は賊が逃げるなら、必ずこの岩山の下を通ると思って上で待ち構えていました。正規軍が来ると、やはり奴等はここに来ましたので、岩山から飛び降り中心にいた男を討ち取ったのです」
「ほう、ここを通ると予測していたのか。それは大したものだ」
あれはたまたま自分たちの方へ来たのではなかったのか。何平はそう思ったが、言い出せる雰囲気であるはずもなく、黙って聞いていた。
「賊は追ってくる正規軍を恐れ、半分はそのまま駆け去り、半分は残りました。その残った賊もこの句扶が礫で一騎を落馬させ、それを何平が斃すと一目散に逃げて行きました」
何平は、そこで初めて何故賊が落馬したのかを知った。
「なるほど、よくやってくれた。首魁を討ち取ったからには、何らかの恩賞を取らせよう」
張嶷が、いくらか身を乗り出した。
「恩賞は必要ありません。その代わり、私を軍の端に加えさせてもらいたく存じます。そうして頂ければ、さらなる手柄を立ててお見せいたしましょう」
「ほう、兵になりたいと言うか。それはいい。お前は若いし智勇もあるようだしな。後ろの二人も、望みは同じか」
言われて、何平ははっと顔を上げた。生まれて初めて、戦らしい戦を見た。そこでは人が簡単に死に、殺していた。そして自分も、殺した。頭の中では何度も思い描いたことだが、実際の死は想像していたものとは違っていた。恐怖があり、血があり、耳を劈く声がある。それらは直に触れてみて、初めてどういうものか分かるものだった。戦に出て戦いたい。母にそう言っていた自分が、いくらか恥ずかしく思えてきた。
「村に、私の帰りを待つ母がいます」
張嶷のように、兵になりたいとは言えなかった。
「その母に、少しでも楽な生活をさせてやることができればと思います」
「親孝行とは、感心だな。もう一人はどうなのだ」
句扶はずっと同じ姿勢で、潰れたように這いつくばっていた。
「この者にも、同じものをいただければ」
何平は慌てて言った。
「よかろう。では私は他に仕事があるので、ここを離れるぞ。後で首邑の役場に来い。私の名は、法正。門番にはその名前を出してくれればよい」
「はい、法正様」
その場を後にする法正の背中に、張嶷が元気よく言った。
振り下ろした戟と、飛び散る血肉。様々なことが一度に何平の目の前を通り過ぎて行った中で、それが一番強烈に瞼にこびりつき、何平は軽い吐き気を覚えた。初めて人を殺した。それも自分でも驚くくらいに錯乱しながら、殺した。さっきまで言葉を発していた者が、今では何ももの言わぬ肉の塊となっている。そう思っただけで、また足の先から震えがくる。
「有難うございました」
気を失っていた女がいつの間にか目を覚ましていて、立ち上がって三人に対して頭を下げた。
「あんた、なかなか行儀がいいんだな」
張嶷がからかうように言った。
「私は、ここの県令の娘です。もっとも、父は賊がここに向かっていることを知って私と母を置いて逃げてしまいましたが・・・・・・」
女は泣きそうな顔を堪えていた。この女の母は殺されてしまったのかもしれない、と何平は思った。父が平気で自分の娘を捨てる。これも戦なのか。
三人はその女をつれて、首邑の役場に足を向けた。
「すごいですね、張嶷さん。あそこに賊が通ることが分かっていたなんて。俺はそんなこと、全く考えていませんでした」
何平がそう言うと、張嶷は大声で笑い出した。
「いいや。俺はそんなことは全然考えてはいなかった。賊があそこを通ったのは、俺の運が良かったからだ」
「それじゃあ、さっきの法正様にした話は」
「ものは言いようということだ。要するに、ああいう言い方をして自分のことを売り込んだってことよ。このことは、あの法正って人には内緒だぞ」
「な、なるほど」
そして何平は、考えこんでしまった。
「そんなに難しく考えることはないよ、何平」
張嶷がまた笑いだしたので、何平もつられて笑った。