流れ行く葉船の如く
葉でできた二艘の船が、岩間の水上を滑っていく。やはり何度やっても、何平の作った船の方が速い。
「やっぱり何平には敵わないな」
「お前の船は、先が丸過ぎるんだ。もっと細長くしてやらないと、速さはでないぞ」
どんな葉であろうと、何平は速い船を作ることができた。同じ種類の葉であっても様々な形の船を作れるし、その形が違おうと速さが変わることはない。
朴胡が言われるままに先の細長い船を作ってもう一度それを川に浮かべると、確かに船の速さは上がった。しかし、やはりまだ何平の船の方が速い。
「子均、おかえり」
川辺で、林の中で、時には山を登って遊び、家に帰ると母が祖母と一緒に温かい食事をつくって待ってくれている。父は、何平が幼い頃に戦に出て死んでいた。父がいないとはいえ、母の親戚が色々と生活を助けてくれるので別段貧しいということはない。平凡な家庭だと言えるのだろう。
食卓で、蜀の主であった劉璋が劉備という者に降伏したという話になったが、その話に何平は関心を持てなかった。別世界の出来事だ。別世界のことは、別世界の人間がやればいい。
次の日、朝早くから朴胡が慌てた様子で何平の家へとやってきた。
「大変だ。劉備の軍勢が、この村の方に来るらしいぞ」
家を出てみると、村の大人達は皆騒然となっていた。誰も彼もが、どうしていいか分からないといった感じだ。
「母さん、ちょっと出てきます」
「どこへ行こうというの、子均。外は危ないから、家の中にいなさい」
必死に止めようとする母の声を振り切り、何平は朴胡と共に駆けた。大変だ、などと朴胡は叫んでいたが、その顔は何平と同じく笑っていた。こんなに珍しいものを、二人が見逃せるはずがないのだ。村を抜けて林をかき分け丘を登りこの辺りで一番見晴らしのいい崖に着くと、二人はそこから下を見下ろした。
今まで見たこともない大量の人が、二人の真下を整然と並んで通っていく。その先頭には、張と書かれた旗が威風堂々と翻っている。
「朴胡、これは何人くらいか分かるのか」
朴胡の父は軍人であり、彼自身も軍人の道を歩もうとしていた。
「二万くらいかな。こいつら、どこへ向かってるんだろう」
「まさか、俺達の村に向かう気じゃないだろうな」
「俺達の村には何もないぜ」
そう言う朴胡の手が震えていた。それはあり得るということか、と何平は思った。
しばらく軍勢が続くと、一際強そうな兵士達に囲まれた輿がやってくるのが見えた。その傍らには、劉の旗。何平は字が読めなかったが、その旗はさっきの力強かった張の字とは違い、不思議な大きさを感じさせる何とも言えない字に見えた。
「何平、あれが大将のようだな」
「豪華なもんだ。俺も一度でいいからあんな輿に乗ってみたい」
「意外と平気なんだな。俺はさっきから手が震えっぱなしだ、何平」
「だってこんなもの、なかなか見れるもんじゃないぜ」
何平はもっとよく見ようと、木の枝を片手で掴んで身を乗り出した。
「よせ、何平。それ以上乗り出したら見つかるぞ」
「大丈夫」
と、言った瞬間、何平が掴んでいた枝が大きな音を立てて折れた。咄嗟に出された朴胡の手を掴んだが、その足場も悪くて二人はそこから転げ落ちた。真下には、劉の旗と輿。
「何者だ」
輿を囲む兵が持つ槍の穂先が一斉にこちらに向いた。朴胡は腰を抜かしてしまって声すら出ない。
「待ってください。自分達は、この先の村に住む者です」
真っ白になった何平の頭の中から、かろうじてそれだけの言葉が出てきた。
「やめよ、子竜」
輿の中から、声がした。そしてその声と共に、異様なまでに耳の長い初老の男が姿を見せた。その声は、この老人から発せられているとは思えないくらい、澄んだきれいな声だった。
「しかし、殿」
「この二人はまだ子供ではないか」
大きい。何平はその大きさに圧倒された。体が大きいわけではない。むしろその体は、周りを囲む兵の誰よりも小さい。その不思議な大きさに圧倒されようとも、それが与えるものは恐怖といった類のものではない。もっとそれに触れていたいと思わせるような、優しさを感じさせる柔らかな大きさだ。
「子竜、おぬしは少し気を張り詰めすぎてはいないか。仮にこの二人が敵であろうと、こんな年端もいかぬ子等を傷つけてはならん。それが、我が軍というものであろう」
子竜と呼ばれた男がその太い腕をさっと横に払うと、自分達に向けられた槍の穂先は一斉に天を向いた。助かった。と、何平は大きなため息をついた。
「不安にさせてしまって、悪かった。我々は、そなた達の村を襲おうとしているわけではないのだ」
この男を前にして、恐れを抱く必要はないと何平は思った。つい先ほどまで死すら考えていた何平の心は、この声を聞いていると不思議と落ち着くのだった。隣では、腰を抜かしていた朴故が居住まいを正して座りなおしていた。
「君達は、これから自分の村に帰って、村の仲間達に何も心配することはないと伝えてくれぬか」
何平は、何度も大きく頷いた。
「玄徳様」
羽でできた扇を持った若い男に呼ばれ、耳の長い老人は二人に微笑みを残しながら輿のへと戻っていった。
「二人共、分かったら早々にここから立ち去りなさい」
何平と朴胡は一礼すると、走ってその場から駆け去った。
「あれが劉備という人か。周りの兵士は強そうだったけど、あの人自身は優しそうな人だったな」
言いながら何平は朴胡の方をちらりと見た。朴胡は、涙を流していた。よく見ると、朴故の股間の辺りはびっしょりと濡れている。何平は、それを見て見ぬふりして村まで駆けた。