第九話 『帝国-05』
騎士の慈悲を受け、枯れ切った老体に鞭を打ち走り続ける。荒れた呼吸に喉を劈かれながら、それでも騎士に救われた身を突き動かす。あの場は凌げてもここで足を止めては同じことだ。
せめて騎士のためにと、この戦火を生き残ることに老人は死に物狂いに脚を動かしていた。
ユークリッド帝国の戦乱で、人々にとって唯一となった逃げ場である東門。
老人が戦乱の中で東門へとたどり着けたのは偶然でしかない。通常で考えて正門は魔族の突破口であり既に占拠されたものという推察は出来るが、西門が魔族の手に渡っていることは戦火の中で情報が東部区画まで行き渡っていなかった。
もとより、衰えた老体でこの区画の逆に当たる西部へと魔族から逃げながら足を運ぶことは端から厳しい。
逃げることが可能だとすれば東門だと、偶然に過ぎない自然な推考が老人をこの場所に赴かせていた。
門の存在を視界に捉えていながら、そこにたどり着くまでには存外に距離がある。
偏に門とは言っても、城郭のそれは堅牢な強度を保つため極度の大きさを誇るのだ。距離感は街路の幅が示してくれる。時間にして、城郭の外へと逃げおおせるまでにもう幾らかも掛からないだろう。
騎士に言われたように決して脚は止めず、後ろも振り返ることはなく走り続けた。
あるいは、生き残った果てで疲労に息絶えるやもと、老体ながらに考える。魔族の歯牙に掛からないだけ、今となってはそれはそれとして結果的に老人の望むことか。
とにかく。生きて城郭の外に出ることが老人の希望だった。
更に幾ばくか脚を進めること数えるほどの時間。
見下ろすように聳えた門がその口を開け出迎えてくれている。
流石にこの場所までは戦火の炎も届いていない。言うなればもぬけの殻の如く、立ち並んだ民家には人一人の気配もなく皆逃げ去った跡だ。東部から少々中央へ踏み入った場所に広がった光景と比べ、静けさが妙な安心感を与えてくれる。
否、背後から一歩ずつ詰め寄る戦火の音は、安堵にまでは至らなかった。
老人は尚も脚を止めることなく走り抜けていく。
それは老人の中で何かを予感させたのだろう。
東門に行き着くほんの手前。都市の入り口として家屋の並びが空けてきた、そこを抜ければようやく門に辿り着くといったところ。
老人の視界に影が映った。倒れ伏した人の影だ。
老人はそこに不信感を覚えた。
「そ、そんな……まさか……!」
不穏な予感に駆られ、老人はそこで足を止めてしまう。
騎士の言いつけに敬意を払い、老体ながら既に限界を迎えている脚を止めずに来た足取りをついぞ止めてしまった。それには老人の脚を止めてしまうほどの要因がいくつも含まれていたからだ。
まず、背後から迫る戦火の音を除き、閑散とした中にたった一人倒れていること。周囲を見渡しても彼が倒される要因というのは見当たらなかった。老人の他に外部からの危害を加えられそうな人物は居ないはずである。もしくは、疲労に気を失っているのだろうか。
否、それはありえない。何故なら老人はつい先ほど彼が血気に栄えていた場面を見ているからだ。
武骨な鎧姿を見下ろしながら、老人は彼の人相を伺い見る。
やはりそうだ、と。老人の中で予感が確信に変わった。
老人に疑念を抱かせた最大の要因。
彼は、老人に罵声を浴びせた兵士、その人だ。
その顔には驚愕と絶望に引き攣った表情が残されたまま、死んでいる。
「兵士殿! どうなされた、兵士殿!」
無論、そこに返事は無い。
老人は胸の内のどこかで彼の死に感付いていながら、それを否定しようと兵士の身体を揺さぶる。自分を罵倒した兵士への騎士に倣った慈悲ではなく、かと言ってはその恨みを晴らす意味でもなく。ただ、この東門の目の前で絶命している事実に、そこに天国が待っているわけではないのかという疑念を否定しようとしているのだ。
倒れ伏した腹から止めどなく流れる血が手に付着し、その感触の気味悪さに疑念が初めて畏怖へと昇華する。
素人目に見ても分かる剣に斬り付けられたような裂傷による死因。
戦乱の火が届いていないこの東門で迎えたその死に、嫌でも兵士と自分を置き換えて考えてしまう。
彼が何故この場所で死んだか。よりにもよって何故他者からの危害が目についてしまったのか。
ここに来て騎士の言いつけを破り脚を止めてしまった老人は、背筋に冷えるものを感じ、振り返ってしまう。
あるいは、脚を止めた時点で老人を振り返らせることは成り行きに決められていたのだろう。
計らずも、そこに広がった光景は老人に溜飲を下げさせていた。
「何故、貴方が……」
戦乱の火は徐々にその範囲を広めていく。こうして俯瞰してみるとその様が順序立てて見極められるようだった。存外に焦りが芽生えない心中を老人は戸惑っている。
この光景を見て自分は何故焦っていないのかと、自己解決に導かれるまでに大した時間は要さない。
その目に映った、老人に生きる糧を与えた騎士の姿が、戸惑いを解決させると共にまた新たに疑念を生み出した。
振り返ると武具を構えた騎士の姿、その剣に滴る赤い血の色が、老人にその全てを悟らせる。
東門の目下に迫りくる骨の兵士と生ける屍。それに合わせて、ユークリッド帝国の兵士たちも戦線を下がらされながら集ってくる。その中には老人と同じく一般市民の姿もまばらに見えた。市民は逃げ惑い、兵士は交戦し、一歩ずつ老人の居る方向へと占拠の波は押し寄せていた。
それでも老人がその光景から目が離せなかったことには理由がある。
他でもない、やはり老人に生きる糧を与えてくれた騎士の存在だった。
騎士が剣を振ることで飛び交う鮮血。
帝国の兵士たちが魔族の一体を狩るのに手こずりながら、命を落としながら、数人を掛けてやっとという情けない姿をさらしている最中、騎士は鮮やかに血の雨を散らす。
一方で、やっとの思いで討伐した魔族の骨の兵士が散らすものなど骨の砕ける音が精々で、ましてや生ける屍は乾ききった身体から伝わる肉の感触だけは確かだが、どろついたどす黒い血が垂れるだけ。それは騎士が捌くような活きた血とは程遠い。
鮮血の源流こそ、老人を諦念に陥れた最大の要因だ。
酔い痴れるほどの剣技に見惚れている間に、騎士は次から次へと標的を変える。順に斬り伏せながら、ソレのみを的確に殺していく。
驚くべきはそこだけではない。息を呑む度に移ろいで行く、その流れの速さ。次元を超越した、瞬き程の間に標的の背後へと回り込み剣技を浴びせる。
否、それはもはや速さという概念ではなかった。身のこなしや脚捌きで再現できるものでは断じてない。言葉そのまま、瞬きの間に戦場を過ぎゆく。物理的な速度では表しきれない、正に気づけばそこに居るという認識が正しいだろう。言うなれば、魔法の如き所業。
一般市民は巻き込むことなく的確に標的だけを狙っていく。
騎士が斬り伏せていたのは、帝国の兵士だった。
「……言ったはずですよ、御老人。決して脚を止めることなく振り返らず逃げなさい、と」
ほんの瞬き程の間、やはり気づいた時に騎士はそこに居る。返り血に甲冑を赤く染めながら、語り掛ける言葉は驚くほど穏やかだった。
ある種身勝手な感情かもしれないが、一方的に向けていた敬意を裏切られた気分である。
「何故、騎士様がそのようなこと……」
「勘違いしてはなりません。私が忠義を尽くすのは、初めから魔王様だけです」
信じていた、というには大袈裟か。しかし、騎士が自分たちの身を守ってくれる者だと老人は勝手に思っていた。
それが勘違いだというなら、最初から希望などどこにもなかったのだ。
信じていた者に裏切られ、希望を折られ、胸中を諦念が支配する。
「……私めは、殺してくださらないのですかな?」
「魔王様の下した命はユークリッド帝国の玉座を空けてこいというもの。その真意は帝国を割拠すること。私の役目はそれを邪魔する存在を始末することでしょう。貴方方一般市民は我々の邪魔をするだけの存在には値しない。だから命を奪うまでの必要はないというだけのことです。これは言うなれば、ただの私のエゴだ」
一般市民から彼らを守るべき者たちの首を奪いながら、生きろと言う。かと言っては騎士以外の魔族たちが無差別に屠っていく様を制止してはくれない。それほど理不尽な話が他にあるものか。
騎士の中にだけ存在するエゴが、老人にまた疑念を生んだ。
「では何故、この圧倒的な蹂躙の悲劇に貴方ほどの方がわざわざ手を下す?」
「愚問ですね。魔王様の至高の御言葉は他の全ての命令や感情さえ凌駕する」
その絶対の忠義の抜け道に生かされているだけに過ぎない身分なのだと、騎士の言葉以上の意味を汲み取る。今生きていられる事実が騎士のエゴだとして、魔王からの具体的な命令さえ存在すればここに生命は存在しなかったのだろう。
そこまで断言された上で、老人は尚も重ねる。
「何故、貴方のような方が魔族の味方をする?」
その疑問に対する答えはあまりにも単純で、応じるのも馬鹿らしいほど、騎士にしてみれば揺るぎようのない返答があった。
勿論、騎士自身、甲冑の下に隠された魔族の身体的な特徴が示す通りに生まれた種を味方するのは当然である。だがそれは前提であり、老人の質問への答えにはならない。言ってしまえば、魔族でも人間の味方をすることは可能なのだ。
それら全てを上回るはっきりとした答えを、騎士はニヒルな笑みで言葉にする。
「――無論、魔王様への愛故に」
その言葉以上に、老人の会心を満たすものは無いだろう。
◆
ユークリッド帝国一の将ハワードと、狼の姿をした魔族の勝負は一瞬にして決まった。
切っ掛けは、風に舞う木の葉が墜ちた瞬間や誰かの息を呑む音が鳴り響いた瞬間といった、取り留めのない動作である。爆発的な瞬発力で両者が地を蹴り上げ、ただ一点に剣と鋭利な爪が交錯した。誰にも目で追いきれないほどの一瞬の決着、そこに血が混じったのは数瞬を遅れて両者が膝をつくのとほぼ同時だった。
両者ともに倒れることまでは無く、そこで至上の戦いは幕を閉じた。
より正確に言えば、互いが傷を負ったことでハワードが引き下がり、勝敗は曖昧になったのだ。
帝国を守るための将としてこんな場所で瀕死になるわけにもいかないハワードと、傷の所為で追うに追えない狼の彼は壁に背を掛けていた。
手負いの狼を取り囲むのは帝国の兵士。
しかし、他の魔族がその行く手を拒む。
もとより、庇われる必要もなく、狼の彼が飛ばすねめつく視線に兵士たちは攻め手をあぐねていた。
「ケッ! 永いこと拠点の防衛で燻ぶってたせいで腕が鈍っちまってるぜ。引き分けが精一杯、か。情けねえ」
切り付けられた左の肩口を右腕で抑えながら、彼は独りでに悔しさを口にする。否、彼も内心では理解しているのだ。ハワードは帝国の騎士の務めとしてその身を退かせたが、あのまま続けていたとしても致命傷になり得る爪痕を残せていたか分からない。
愉悦を求めた戦いで、その最たる相手に勝利のみを勝ち取れなかった油断が情けなかった。一歩間違えれば死んでいただろう。あまりにも容易く首を刈り取ってきた人間の脆弱さに愉悦と共に落胆を覚えたが、人間にもハワードほどの手練れが居るのかと。
命の駆け引きをした中で、少なくとも互角以上の相手。
愉悦のみを求めたその思考が、傲慢であることに気づかされた。
だからこそ、面白いのだ。
「ハワード――ハワード・ストラトス。覚えたぜ、その名前」
既に見えなくなったハワードの片影を睨みながら、彼はおもむろに呟いた。疼く傷口を抑える腕の中に、ハワードと交錯した感触は残っている。確かに届いた一手、その手応えは戦いの象徴だ。その感触を求めることで、戦いに愉悦を見出しているのだと改めて思う。強者から奪うからこそ面白いのだ。
ハワードを追う獰猛な眼光を携えた視線の先には、帝都ユークリッドの都市を見下ろすアイゼンフォート城が静かに聳えていた。
ハワード・ストラトスの名をしかと胸に刻み、城を眺め上げる。
魔王が空けてこいと言った玉座のある場所。今はまだユークリッド帝国の君主が身を焦らしながら座っていることだろう。否、既に逃げ出した後かも知れない。事実上の意味で空いたことに変わりはないが、魔王の真意には沿っていない。
ユークリッド帝国にとって顔役の意味も持った重要な拠点。それ故、そこに敷かれた警備は此度の戦乱において最も強固となっている。
それでも、魔族の壁となるそれらはもう直に陥落することだろう。
彼には、魔王の命令など関係ない。戦うことにのみ愉悦を求め、戦うことで結果的に魔王の命令に応えている。
手負いの身体でも脆弱な人間どもを屠ることは容易かった。そこにはやはり愉悦だけを求め、人間への蔑みや遺恨もなく純粋に戦いを愉しむのだ。
この傷の痛みさえも関係ない。むしろその熱がより彼の肉体に力を加える。
忘れることのできない、ハワードとの至上の戦い。
痛みを忘れ、戦いを求めた。
彼はハワードの片影を追う。
戦乱が佳境に向かっていく地へと、脚を赴かせた。