第七話 『帝国-03』
帝都ユークリッド。
その中心部は堅牢な石垣が広大に連なり、内側に街と城が佇む、所謂城郭都市となっている。
城郭の外側に立ち並ぶ兵士は均整の取れた陣形を持って、今正に帝都へと向かってくる脅威を迎え撃とうとしていた。
「――き、来たぞっ!」
その中の誰かが口にした。
視線の彼方に迫りくる脅威を見据えながら、畏怖と覇気の混在する口調で叫ぶ。
昨日の今日で国境際における戦線が破られたと報告されたばかりで、その推進力が表す脅威の大きさが彼らには恐ろしかった。
不眠不休で進軍する部隊。眠りも、休憩すらも必要としない種族。
魔族ならばこそ見せるその行軍は決して人間には真似できない。
一夜にして国境際から中心部へとたどり着く、猛然と走り抜ける様は異様な光景である。
その彼らが水平線から正面に向かってくる構図というのも、帝都の兵士たちに畏怖を植え付けていた。
骨屍族と呼ばれる骨の兵士、併せて腐屍族と呼ばれる、墓場からそのまま出てきたような生ける屍からなる部隊は、見る者に圧迫感を与え息を詰まらせる。
中途半端な戦力を宛がって消耗するよりはと、防衛にて迎撃を試みた、その此度の抗争にて最も重要とされる都市と外界を遮る城郭。
たった一日の日付を跨ぐかどうかの時間に部隊の編成は急を要したが、やはり魔族の根城に隣接する国柄として常に戦いの準備はしてきた。
その兵士たちが恐れているのだ。
彼らが伏せた陣形は、魔族から向かって第一陣にタワーシールドと長手の槍を持った兵士が横一線に立ち並び、その後方は魔具による武装を施した者、更に後方には魔法による支援を得意とする魔導士により固められている。
対人間を相手にすれば簡単には打ち崩されることの無い陣形を敷き、城郭の内部にも将官の指揮する部隊が惜しみなく都市の中心部へと続く道を塞いでいる。
これだけの兵士を擁すればと、半ば祈るような思いで安心感を噛み締める者も居た。
彼らなりに守るべきものがあり、そのために身を粉にして戦う。
家族、友人、故郷、それぞれの理由があり、それ故に意志は一つに纏まっている。
畏怖という理由だけで逃げ出せるような場ではない。
自分たちの積み重ねてきた訓練の量を信じ、戦うのみ。
そして彼らは天高く武具を掲げるのだ。
『アララララァァァァアアアアイッ!』
軍神へと捧げる鬨の雄叫び。あるいは、自らを鼓舞する鼓動。
鬨を合わせることで畏怖を払拭する。
「構えッ!」
部隊を指揮する者の号令に合わせ、兵士たちは一斉に武具を構えた。
シールドに身を隠して槍を突き出し、魔具に魔力を装填し、魔法の詠唱を唱える。
一挙手一投足が一切間違うことなく均整の取れた動きだ。
対して、ただ真っ直ぐに正面からの突破を試みる魔族。兵士たちの美しいとまで思わせる規律の取れた行動を、ある種卑下するまでの破綻した正攻法。
それ故に恐ろしくもあり、正面からの圧力を感じるのだ。
やがて、二つの部隊が誇りを掛けて衝突する。
魔法の詠唱が終わり、数度に分けて発動した。炎や風、あるいは雷が爆発を生む。それが開戦の合図だ。
魔法を受けて尚も怯むことの無い魔族が、骨と屍を押し合って第一陣の兵士たちへと圧し込んでいく。
どこかから鳴り響いた金属の弾き合う音が、いよいよ死という予感を漂わせる。
骨と屍は槍に突かれようと無関係に覆いかぶさっていった。
一たび陣形が崩壊すれば、そこから破滅へと導くことは容易い。完璧に均整の取れた陣形だからこそ、一ヶ所ほど倒された部分が生まれるとそれが致命的な隙となる。
ましてや槍で突いた程度では息絶えない骨と屍が、突かれた上に重なっていくことで積み上がる重量となり踏ん張りきれなくなる。
横一線の兵士の中で取り立ててひ弱な者を狙ったわけではなくとも、数というのは数へと対抗させる術となった。
帝都がこの防衛線へと配属した兵士は馬鹿にならない数だが、質のある量がそれさえも容易く凌ぐ。
骨と屍の押し寄せる量に耐えきれず倒れ伏した兵士の合間を縫い、陣形は一気に崩壊した。
肉壁は意味を成さず、魔具は押し寄せる対敵の量に打ち崩され、魔導士は至近距離を相手に成す術もない。
帝国の命運をかけた防衛線はあまりに容易く陥落する。
魔族の正面からの突破という、帝国の屈辱と終焉を表す敗北を許したのだ。
魔族たちは正門からの堂々たる進軍で帝都へと押し寄せた。
◆
煮えたぎるような忌まわしき業火に包まれた都市。
絶望の直中に尊厳を踏みにじられ、苦しみ喘ぐ人々。
恐ろしき形相の蹂躙者たちに憐れな命が容赦なく摘み取られていく。
帝都ユークリッド。
その中心部は堅牢な石垣が広大に連なった城郭都市である。否、今や城郭都市だった、と言うべきか。
都市と外界を遮る最後の防衛線は侵入を許し、城郭は次から次へと雪崩れ込む魔族を止める役目を果たしていない。
蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑う人々を無慈悲に殲滅していく。
魔族の王、魔王。彼が配下の者共に下した命令は、端的に魔王の座すべき玉座を空けてこいというものだった。
殺し、蹂躙することを問わず、手段を選ばぬ方法を許した。
つまるところ、帝国を割拠せよ、と。
王よりの命を伝令から授かった上で、その準備も間髪なき進軍も彼らには無茶なことではない。
人間への憤怒と憎悪、蔑視のままに身を奮うだけだ。
彼らにとってそこに伴う結果とは、王からの至上の言葉を全うしただけである。
魔具により栄えた都市はその力を持って魔族の軍勢に対抗していた。兵士は当然のこと、時に市民もが魔具の力を借りて引き金を引くのだ。兵士も市民も、女も子供も関係なく蹂躙していく。
部隊の攻防の均整も策も最良を取れた人間に対し、無差別に正面突破をする魔族。
防衛戦線へと前触れもなくつぎ込まれた戦力に突破され、そのまま押し上がってくる奇襲ですらない戦略は単純かつ確実に帝国を痛めつけていた。
魔具から繰り出される魔法の力をものともせず掻い潜り、あるいは、前面の兵が壁になれば後続がそれを乗り越えて術師を嬲る。
互いが互いの数を減らし合う群雄割拠の戦場で、一際存在感を放つ影がいくつかの場所に別れて人類を屠っていた。
骨の兵士と、墓場からそのまま出てきたような生ける屍、壁になった雑兵の更に後続から異彩を放つ。
蹂躙や虐殺という言葉ですら生温い、拒絶を許さぬ圧倒的暴力。
その彼らは決まって、破顔を携えているのだ。この禍々しき戦火の中で楽しんでいる。人々にはそれが恐怖でならなかった。
圧倒的な蹂躙、されど魔族の中でも少なからず命を落とした者は居る。彼らは何故その状況下で楽しめているのか。
その答えは明白であり、しかし、人類には辿り着きようのない忌まわしき歴史がある。
迫害と弾圧により僅かな土地に押し込められた魔族の過去、その上勇者という存在が至高の君主の首を狙い、魔族を根絶やしにしようと剣を振るう。
種としての数の差で黙っていることしか出来なかった状況が、今宵初めて逆襲へと昇華した。
謂わばこの戦場はこれまで被った負債の報復、かつて散っていった仲間たちへの弔いだ。
魔王からの至上の言葉の他に、敢えて目的を見出すならば、これだけの魔族の意志は一つである。
ただ、蹂躙することにのみ、悦びを覚えるのだ。
無骨な造りの家屋に炎が放たれ、石畳の通りを屍と血だまりが埋め尽くす。
都市の中でも取り分け広く舗装されたはずのメインストリートですらこの地獄絵図だ。
都市中へと繰り出した魔族が人々を襲い、至るところから雄叫びの中に混じった絶望の悲鳴が聞こえてくる。そしてまた魔族たちはその悲鳴を聞くことで、仲間たちの意志を実感し、自らも意志の一部となっていく。
何人も足を止めず、何人たりとも逃がしはしない。
皮肉にも、人々を守っていたはずの城郭が逃げ場を減らし、一人、また一人と魔族の餌食にその儚き命を落としていく。
広大なユークリッド帝国の中でも、その帝都に住まう気品持つ者たちが形振り構わず粗野に逃げ惑う姿は滑稽そのものだ。
それでいて、ここに至って尚も、魔族に対する軽蔑の目は濃くなるばかり。命を狙われる立場であるからこそ仕方ないとも言えようが、文字通り死ぬまで彼らの偏見が消えることは無い。命乞いをすることすらも憚る陳腐なプライドだ。
もっとも、どれだけ遜られても変わらない結果は、矜持を優先することも彼らなりの抵抗なのだろう。
つい先刻まで帝都の中でも内の内に当たる部分の穏やかで厳格な雰囲気を持っていた街並みが、見る影もなく無残に変わり果てた。
闇夜の魅せる演出がより人々の恐怖を助長し、立ち上る黒煙が帝都の最奥部へと忍び寄るたびに逃げ場を奪われる不安が煽られる。
中央門、西門、東門と三ヶ所に設けられた都市の出入り口の内、中央門から雪崩れ込む魔族の波と、既に制圧されてしまった西門に、残る逃げ道は一ヶ所となる。勿論、戦乱の中に西門が墜ちたことなど彼らに知る由もない。
否、正確には裏門と呼ばれる場所もあるわけだが、それは皇族とその従者のみが通ることを許された通り道である。
帝都の街並みを見下ろすように聳える城、『アイゼンフォート城』の裏口に併設された門だ。
この事態とは言えど、城を介してのみ出入りできる裏門は決して人々の逃げ場とは言えた代物ではない。
縋る想いさえ踏みにじる選民意識は、今更人々が恨みの対象にするような相手ではなかった。
恨むなら魔王を、しかし、この蹂躙者たちに対して無力を味わう現実はその王たる者への恨みすら沸き上がらず、やがて勇者へと連想され、次に兵士たちへと矛先が変わる。そして自国の王を恨むことさえも馬鹿らしくなり、考えることを放棄する。
この状況下で祈るでもなかれば、恨むことしか出来ない無力は、それが絶望であることを実感させられた。
人々は満身創痍で逃げ惑う中にふと顔を見上げ、その見ても居られない惨状に帝国の終焉を実感させられるのだ。
死の淵で思うことはそれぞれだが、その直前、死を理解する瞬間は共通の認識が成り立っていた。
――ああ。魔王の支配する時代が来るのか、と。
ユークリッド帝国の終焉を表す日。
ここに幾つの意志が潰えたのだろう。
人間の国を魔族が我が物顔で駆け巡っていく。
◆
時を同じくして、ブレインは変わらず玉座に腰を下ろしたまま声を弾ませていた。
その仕草はどこか子供染みているというか、自由気ままに腕を組みかえ脚を揺らしながら会話に勤しんでいる。
「そろそろ帝都に着いた頃か? もしかしたらまだ国境際の防衛戦線も破ってないか」
「私めが確認して参りましょうか」
「いや、必要ない。こういう時はこの緊迫感を愉しむものだ」
「これは、失礼いたしました」
ある種遊び感覚で、さながら盤上の駒の中から進めるべき一手を見定めているような妄想だ。
緊迫感などあってないようなもので、それこそ側近の転移魔法を使えば自らの目で確かめることも出来る程度に勝ちの決まった遊び。
負けそうになれば卑怯な手を使ってでもそれを覆す。
勇者という最も強力な駒が型落ちした状態で、もはや相手側に敗北以外の選択肢はなかった。
それで尚も抵抗してくるという状況が、ブレインには可笑しかったのだ。
この空間にまで聞こえてくる音など最初から無いのだが、拠点の中に居なくなった気配が、空間にブレインだけの世界を作り上げる。傍らの側近はそれを邪魔することも無く、更に広がっていくような感覚に酔いしれていた。
世界に自分だけのような、否、勿論傍らに側近は居るのだが、魔王の肉体に心地よい孤独感が染み入る。
勇者のしがらみに捉われることも無くなった身体で――あるいは遊んでいるという状況が倦怠感を紛らせているだけかもしれないが――この心地よい孤独感以外に何もない状況がブレインを楽しませる。
魔王の身体となって以来、ブレインにとって静寂とは必ずしも退屈をもたらすものではなくなっていた。
かつて勇者だったブレインが、かつて守ろうとしていた世界に魔族の反乱を嗾ける。これほどまでに滑稽で不埒な皮肉は他にないだろう。真実を知る者は誰も居ないが、他ならぬブレイン自身がその皮肉を面白がっているのだ。
転生した直後は何よりも想像通りにならない世界を望んだはずが、今ではその想像を自らの判断で再現しようとしている。過去巡ってきた世界における平和の行方がブレインの気まぐれであったように、今もまたブレインの気まぐれが想像を揺らめかせる。
勇者か魔王か、その視点の偏移だけで同じ結果がこうも違う意味合いを持つと楽しくもなるものだ。
今まで、勇者という思考にはなかった想像が、魔王になったことで物の捉え方に変化をもたらせた。
たったそれだけのことが、今のブレインの原動力である。
「――ちょっとばかり、見学しに行ってみても面白いかもしれないなあ」
「ご案内、いたしますか」
先ほど勘当をもらったばかりの手前に、側近は控えめな助言を申し立てる。魔王が言う面白さに対する価値観は、若干理解し難いところだった。少なくとも側近はこの場所で勝利の報告のみを待つことが魔王然とした姿勢だと思っている。
「そうだな……、ああ。そうしようか」
何か、勇者と対峙したあの辺りから魔王の中に変化があることを予感しながら、側近は魔王からの賛同に遠慮がちな表情を晴れさせた。
魔王の行動原理が面白さなら、側近は魔王に尽くすこと。自分の言葉に反応があるだけでそれに勝る至福は無い。側近は発言への緊張感を和らげ、改めて忠誠を誓った。魔王の価値観とはどんなに違い、変わっても、付き従うのみ。
あるいは、その有無を言わせぬ傍若無人な様相こそ魔王然とした姿勢かと。
魔王が魔王というだけで、側近には奉仕の義務があるのだ。
魔王が戦地へ出向く。その思考が、やはり想像を掻き立てた。
魔王が勇者を屠った姿を重ね、身を震わせる。
快感に悦ぶ魔王の破顔をもう一度この目にすることが出来るのなら。
側近はその想像だけで、悦に浸っていた。