第三話 『戦況-01』
未だ魔力の残り香が中空に漂っているような余韻が冷めやらぬ静寂。
ブレインはかつての自分を屠り、無限に繰り返された転生の中で久々に得た快感を吐き出すように息を吐いた。
瞬間的に生まれたのは、想像以上の虚無感である。
「……おい、そこのお前」
賛辞を受けたまま目まぐるしい思考に没頭していた、間の悪い沈黙を破ったのはブレインの声だ。ブレインを魔王と呼ぶ彼女をぶっきら棒に呼び上げる。
はい、とだけ短い返事で、どこか慎ましやかな喜びを含んだ声色だった。
魔王が勇者を討ち取った。魔王に従事する者がそれを喜ばないはずがない。
それ自体を咎めるつもりはブレインにはないのだが、思うだけ無駄だと理解していても、この複雑な心事に対して向けられる感情として率直に鬱陶しい。
無論、それを見極めろと言うのも酷な話である。
どこまで来ても同じだ。
所詮ブレインを理解できる者はブレインの他に居ない。
遥々この世界に帰ってきても、魔王に共感しながら、勇者としての業を理解してくれるかつての仲間たちなど誰も居ないのだ。
今のブレインをブレインと認める者など居ない。
ともすれば、ブレイン自身が魔王の意思を受け入れ、型に嵌まるしかないのだろう。
消し去りたい後悔をこの手で、今まで手にしたことも無い凄絶な力を持って、それを叶えた。
仮に、この先にブレインの人生が続くとしても、未熟だった頃の自分の体を嬲り殺す以上の快感など得られることは無いだろう。
廃れた心の中に快楽は一気に満たされていった。
故に、後は枯渇していくばかり。
乾いた大地のように、一瞬ほど潤ったところでまた乾き続ける。
ひび割れた器で水は汲めない。
両手に蓄えていたものが、指の間から擦り抜けていく。
ブレインが抱える勇者としての器が、魔王という意思に押し出されるのだ。
ブレインは、そんな虚無の中で側近に声を掛けたのである。
「ソレを処分しておけ」
顎で指図するように、ソレを指し示す物体に一瞥を下す。
視界に映るのは、そこに転がっているのは、ただの肉塊。
ブレインにとってもはや何者の価値にもならない、かつて自分の頭部だった、容れ物だ。
ブレインを動かしていた傀儡だった。
醜怪たるそれを不愉快そうに見下ろしている。
無様な表情で切り取られ、もう動くことも無いただの肉片。
彼が持ち込み、ブレインに容易くあしらわれた剣が視界の隅に転がっている。
刀身の汚れ一つない鋭利な輝きが、彼の無力をそのままに表していた。
少なくとも彼自身だったソレへの興味すら示さず、ブレインは剣の方へと歩み寄る。
意外にも、覚えているものだ。
剣を雑に拾い上げながら、刀身を眺め、何となく感触を確かめるように振ってみては、当時のことを思い出す。
勇者として純粋に務め上げていた世界のブレインの旅路の中で、ある意味では、一緒に冒険した仲間たち以上に苦楽を共にした存在だ。
今も故郷で儚く勇者の帰りを待っているであろう、ブレインの恋人だった女性の、父親が打った剣である。腕の良い鍛冶師だった。
彼女との交際を頑なに認めてくれなかったが、ブレインが勇者として旅立つことを決めた時、初めて授かったのだ。
以来、魔王に挑む今に至るまで片時も手放すことなく戦ってきた。
今にして思えばそれがどれだけ愚かな行為か。
腕の良い鍛冶師、とはいえ一介の鍛冶師程度が打った剣で魔王にまで挑んだのだ。父親への情に感化されていたにしても義理が硬すぎる。
少なくとも他者からの支援は受けるべきだった。義理を通す前に質の良い剣を選ぶべきだ。
もっとも、それすらもこの魔王の前に意味のある行為とは思えないが。
それでもこの剣で戦い続けることに当時のブレインは勇者としての意志を貫いたのだろう。
千度も転生すれば価値観は変わる。彼の選んだ道は決して合理的ではない。勇者としての意思を胸に刻み、歩んできたのだ。
それを否定することは、自分自身の価値観の偏移を傍観しているようで、改めて実感させられる。
あるいは、魔王に成ってからなのか、それ以前からか。
存外、勇者も魔王もそう違いは無いのだろうと、ブレインは思う。それもまた自分だけしか適用されない捉え方ということに気づかないブレインでは無かった。
もはやかつての自分を見下す視線すら塵を眺めているのと変わらない。もし仮に、決して叶うことは無かったのだが、例えば、勇者であるブレインがこの魔王の首を取っていたとするならば。今頃言葉にならぬ喜びと興奮を噛み締めていたことだろうか。
その姿を想像することは容易くとも、この蔑視の目は変わりそうにない。過ごしてきた日々の分だけ価値観が変わったというには、およそ千度という人生はいささか審美眼を捻じ曲げてしまった。
魔王を討ち取る感動や高揚が、ただ汚物を消毒する清潔さに成り代わったというのなら、それはこの廃れた精神ながらに侘しくもある。
侘しさしか感じ取れないこの精神が、寂しいものだ。
柄にもない無駄な思考に時間を割かれていることに気づき頭を振る。
記憶に没頭している方が幾分か楽しめたことだろう。
千度の人生を経験したブレインにとって時間とは有って無いようなものだが、未だ視界の隅に残るかつての自分を評するように言葉を紡ぐ。
埃の処分に魔王の手を煩わせるつもりはないという冷酷な意思表示だ。
「早く片付けろ」
言葉では急かしてはいるが、命令以上の意思はなかった。
ブレインが片付けろと言えば片付ける存在が居る。そこに時間に捉われた思考はない。
勇者の首という、言わばこの戦いにおける魔王としての唯一の戦利品を、処分しておけと言われたことに対する戸惑いを示す側近への反復した命令だった。
従事するべき王が目障りだというなら、退かすことが忠臣の役目。そこに進言を立てることも無ければ、これ以上口を煩わすわけにもいかないという忠誠くらいは備えているようだ。
側近は何を言うでもなく静かに頭を下げ、完璧で流麗な美しい作法を持って御意に応じる。
体で忠義を表すような揺るぎない忠誠心すらもってしても、そこに汚物が転がっているという、ブレインの蟠りを中和することはない。
もとより、今の彼の感情を左右できる存在など、まず現実にはありもしないのだろう。
勇者、もとい魔王。
かつて、勇者として純粋に世界の平和を望んだ彼は、もういない。
彼の目の前に転がっていた彼自身が、この世界に置ける事実上の最後の勇者なのだ。
今後魔王の首を狙う存在は、勿論、消滅したわけではない。勇者亡き今こそ世界の支配者になってしまう魔王の首は、むしろより脅威にさらされることになるだろう。ただそれらがこの魔王の力を前に脅威となり得る存在であるか。
せめて、退屈しのぎくらいにはなってくれることを願う。
ブレインの廃れた心は、既に魔王たる器に達していた。
「それでは、コレを処分しに参ります」
側近が勇者の頭を拾い上げ、抱きすくめるように両の掌に乗せた。ブレインの汚物を眺める表情を際立たせるほど対照的なまでに、そこに嫌悪感や醜悪じみた歪な表情はなかった。
涼やかな表情で、あくまでも様式的に職務をこなす。
勇者の首というそれだけで世界の支配者を裏付ける代物を淡々と、あるいはこれ以上血や死臭を撒き散らさないよう丁寧に扱う。
ああそうだと、思い出したようにブレインは手に持っていた剣を側近の足元に投げ捨てた。
「ついでに、捨てておいてくれ」
「……畏まりました」
どこか。どこか、勇者とのしがらみを断とうとしている。側近には魔王の言葉がそう聞こえて、しかし、それ以上に機嫌を損ねさせる余儀は無く。不要な詮索は核心に迫るまでも無く切り上げられた。
勇者の首と同じように拾いあげては、やはりその細い体の線の中に隠すように抱きすくめる。
陰鬱な気分に陥る主人を逆撫でしないようにと徹する側近の計らいなど、虚ろじみたブレインに気がつくこともでき無い配慮だろう。
綺麗な立ち姿で、また一度、頭を下げては踵を返す。
慎ましやかな足取りで闇に溶けていく側近の細い背中を目で送り、光と闇の境界線を退屈そうに眺め続ける。
これで、勇者として存在したブレインの因果は無くなったはずだ。
今でも後悔と羞恥だけを思い出す虚弱な自分を、自らの手で壊してしまった。ブレインにとってこれに勝る至福は無い。
故に、これから魔王として生きる人生は、今までの千度に及ぶ地獄のような人生に近い苦痛を味わっていくことだろう。
勇者というしがらみに囚われることのないだけに幾分か救われるかと、ブレインは独りでに考える。
もっとも、逆に言えば勇者として魔王を討つという目標を定められてない手持ち無沙汰は、彼の廃れた心に退屈の文字を刻むことになるのだろう。
そんな展望が見えぬ将来を考えることも馬鹿らしくなり、ふと我に返ったところで、どっと疲労感が重くなった気がした。考えてみるだけ無駄なこの先のことへ時間を費やすことに、飽いたのだ。
千度の人生に比べれば、長くとも短い先のことを考えるだけ億劫にもなる。
今は、少しばかり疲れた体を、落ち着かせる場所を探した。
丁度良い場所を見つけたと、ふらついた足取りで玉座へと歩み寄る。
今までの苦しみの数だけ一歩ずつ踏みしめた。
このわずかな距離ほどで洗い流されるはずのない地獄の経験。
ブレインは玉座の前に立ち、見下ろした。
魔王の座すべき玉座。此度は千度の人生を勇者として闘ったブレインが、座る。
片肘をつき、頬杖をつけば、この魔王の身体で目覚めた直後と同じ光景が広がるのだ。
――否、そこに勇者の余韻は無くなっていた。
◆
多少。
多少ばかり、かつての自分を嬲り殺した高揚に熱くなっていた頭は、冷静になっている。
かつての自分を目の前にして、かつての自分のことばかり考えて狭くなっていた視野は広さを取り戻していた。
この状況、魔王が玉座に片肘をついているという視覚性を表す状況でなく、魔王が勇者を討ち取ったその後という状況。
目の前の見知った光景とは相反して、ブレインの死後というブレインには知り得るはずのない情報が広がっているのだ。
ともすればブレインには気になることがいくらかある。
静寂の中に帰ってきた気配だけがブレインの疑問に答えることができる。
「戦況は?」
「……それは勇者の、仲間たちのことでしょうか」
忽然、ブレインは無遠慮に問いかけた。
察しが良く、というよりも、忠誠の下に魔王の言葉の全てへと神経を傾かせる彼女ならでは、理解が一歩先に達している。
変わらず虚空を睨む視線を動かさず、ブレインは頷いた。
勇者と魔王の最後の決戦。
極限の相克の果てに人々が望む平和はある。
その頂点に当たる魔王が勇者を討ち取ったという状況は、平和の在処こそはっきりさせたが、決してそれ自体が争いの終焉を表してくれるものではない。
魔王の拠点に乗り込んできた、言わば襲撃されたのは魔王の方だ。敵を倒しきるまで、真に安堵することは出来ない。
冷静になった頭の中に止めどなく蘇ってくる記憶の中で、ブレインはこの襲撃の戦況というものまでを思い出していた。
勇者であるブレインと、その仲間たちの存在。
屈強な肉体を持つ戦士ドルカス、多岐にわたる魔法で敵を焼き尽くす魔導士マーリン、そして魔を払い全ての傷を癒す聖女リジェッタ。
勇者ブレインがこの魔王の目下に至るまで、絶え間のない激闘が確かにあった。
魔王の拠点へと侵入するにあたり、その各地で、戦士ドルカスは勇者の命を優先し強敵と相対し、魔導士マーリンは次から次へと湧き出る骨の雑兵たちを焼き払い、聖女リジェッタは神聖魔法による障壁で追手を足止めしている。
全て勇者に託しているのだ。勇者が魔王を討ち取ることを信じ、戦った。
しかし、想いはこの魔王には届かない。
勇者が魔王に討ち取られた状況というのはこの空間だけに認知された事実だ。
今尚もそれぞれの想いを持って戦っているのやもしれぬ彼らは知る由もない。
ブレインは純粋に彼らのその後が気になったのだ。
今となっては魔王の立場という以上の意味合いはないが、心残りと言えば心残りとなっていた、ブレインの死後に遺した仲間たちの行方。
前触れなく尋ねるブレインの問いに答えられる用意があるだけ、やはり側近の理解は一歩先に達していた。
「勇者の仲間三名の内、戦士ドルカス、魔導士マーリン両名はそれぞれ戦火の中に討ち取っております。骨屍族の追手から神聖魔法により勇者のみを送り出した聖女リジェッタは――未だ応戦中とのことです」
「そう、か。ドルカスは死んだか……マーリンも、か……リジェッタは、生きている」
存外、前者二名の戦死に喪心していることに、ブレインは胸中で僅かに驚いていた。驚いているという自分自身に動揺がある。
彼らの勇姿が目に浮かぶようだ。ただ命を落としたとは言っても、ドルカスは強敵を相手に差し違え、マーリンは強大な魔法でその多くを焼き払った末に最後まで戦い果たしたのだろう。
心のどこかで彼らを案じ、同時に敵にあたる立場という自覚で葛藤している。
魔王の立場という事実が理不尽に溜飲を下させた。
聖女リジェッタが生きているという事実。
勇者としてのブレインならば喜ぶべきことなのだろうが、ここに居るのは、魔王である。
手放しでは喜べなかった。否、仲間として彼女の身を憂いた喜びではなく、聖女リジェッタが生存しているという、千度の人生を生きたブレインの気まぐれを満たすだけの数少ない存在に昂る気を隠せない。
かつての仲間をこの目で確かめてみたいと、ブレインは思った。
「聖女の下へ、案内してもらえるか」
「魔王様が出向くのですか?」
「……勇者は死んだ。これからはこの魔王の時代が訪れる。その旗揚げに、利用できるものなら利用する。できないのなら殺せばいい」
「それでしたら私めが生け捕りにするよう下部の者たちへ通達しに参りますが」
わざわざ王が動くまでもないと、その意識がどこか会話の妨げとなっている。魔王という自覚、他人の上に立つ者という自覚の薄さが二人の間に噛み合っていないのだろう。
ブレインは取り繕うのも面倒になり、失笑交じりに嘯いて見せる。
「建前だ。気まぐれに付き合うくらい罰は当たらんぞ。良く出来た頭だが、お前は戯け話にも付き合えるようになった方が良い」
「精進いたします」
千度の人生に最も付き纏ってきたものは退屈だ。退屈に始まり精神は廃れていった。
冗談の滑りが悪い側近の硬い頭に、ブレインは始まったばかりの魔王としての人生に退屈を覚悟し始めるのだった。