第十六話 『拷問-03』
「リジェ……ッタ……」
果たして、水面に雫が触れたほどの絞り出した声がリジェッタの耳に届いたのだろうか。砂が落ちるだけの音にも掻き消えてしまいそうな小さな音だった。二つある屍の内、どちらともつかぬ声がリジェッタの俯いた顔を持ち上げる。
否、それはレイヴンが唱えたであろう魔法の放つ発光作用が収まった拍子に、自然と見上げただけに過ぎない。
リジェッタの虚ろな視線が捉えた二つの屍は、変わらずガーネットの腕の中で眠り続けているように見えた。
ともすれば、咳払いにも負けるようなか細い音は聞き間違いだったのだろうか。彼らの死を現実として認められぬリジェッタの幻聴だろう。幻聴であってくれた方が幾ばくか救われる。
神聖魔法を扱う生と死を司る存在として聖女と謳われたリジェッタの、その能力を持ってして死と断定せざるを得ない紛うことなき死そのもの。
かつて共に旅をして、どんな傷をも癒してきた。
それでももはや癒えることの無い死という現実。
幻聴のはずだ。
リジェッタは目の前の彼らが幻覚であることよりも、その声を錯覚だと思い込みたかった。
「リジェッタ……」
締め付けるような苦しみと共に、屍の呼び声は次第にくっきりと両耳に響いてくる。
聞き間違うはずのない、ドルカスの声だ。情に厚い男だった。長き時を共に旅したリジェッタは無論のこと、千度に及ぶ悠久の時を過ごしたレイヴンも未だに忘れることの無い低音の声である。
生前、と表現するには人の常識では計り知れない生の反応を示したこの瞬間を持って難しいところだが、常に落ち着き払った態度で影ながらに旅路をまとめてくれたものだ。
魔王の肉体を得て以来、薄情と貶されてやぶさかないレイヴンだが、かつての仲間の死を今更になって実感する。
そうか、死んでいたのだったな、と。
もはや操り人形のようにしか考えていなかったかつての仲間を、この声を聞いて思い出す。ドルカスの紡ぐ声がレイヴンの悠久にも近い遠き記憶を掻き立てるのだ。
それは千度に及ぶ人生を経験して廃れた精神の前には、愉悦の渇きを満たすだけの虚しい欲求に成り果てる。
「リジェッタ……リジェッタ……!」
ドルカスに続いて復唱するように、次第に生気を宿し始めた声はマーリンの声である。魔導士の異名に相応しい叡智に溢れる頭脳の持ち主だ。それが今は荒々しく、うわ言のように繰り返しながら一つの欲求へと手を伸ばそうとする姿がリジェッタの瞳にはどうしようもなく野蛮に映った。
ドルカスもまた屈強な肉体の鍛え上げられた腕を持ち上げ、されど弱弱しく力無く伸ばしている。
一歩ずつその地の感触を確かめるようにガーネットの腕の中から離れ、リジェッタに向かって伸びた手が悠然と迫り行く。
きっと、この頬を両側から撫でて極限の戦いから生き残ったことを褒めてくれるのだろうと、暗澹たる状況からは目を背け、一度思い描いていた妄想がリジェッタの脳内を支配していた。
恐怖と喜びに移ろう面妖な表情に差し伸べられた二本の腕。表情は未だ緩和することの無い不安が繰り返されている最中、リジェッタの胸の内にははっきりと悲しみに溢れている。
その腕がもはやリジェッタを仲間として迎え入れてくれる優しさではないことを、妄想ではない本能が理解しているのだ。
リジェッタは仲間だった者たちを突き放すことも出来ずに、もとより両腕を縛り上げられ避けることも出来ない状況に、ただ彼らの欲求を受け入れることしか出来なかった。
彼らの他に、魔王とその従者が二人、そしてリジェッタだけしか居ない空間。その欲求の吐き口にしてもいい対象は、魔王の手により生命を与えられた瞬間から本能に刻み込まれているのだろう。
リジェッタへと真っ直ぐに向かう足取りが、やがて頬に触れそうになる距離にまで差し迫った。
そしてリジェッタは、いつからか彼らの口から発せられる言葉が自分の名ではないことに気づくのだ。
「に……く……肉……肉っ……!」
背筋が凍った。
あの温厚な男が、知的な男が、ただ野蛮に目の前の食料を喰らおうとしている。行儀もへったくれもない。興奮で荒れた呼吸を隠そうともせず、引き千切り、齧り付き、飲み下そうとしているのだ。青筋を浮きたてながら人としての当たり前に備わった品性の欠片も無く涎を垂らし、ただの一言で表される彼らの渇きに恐怖を覚える。
今までに見たことの無い仲間たちの姿が目と鼻の先で繰り広げられ、リジェッタは呆然とすることしか出来なかった。
そこで初めて、もはや彼らが自分の知る二人ではないことに気づいてしまった。
「ドルカス……マーリン……」
二人の名を呼ぶ。
無論、それだけで二人の反応が変わることは無かった。いくら呼び掛けたところで無駄である。そうと知っていながらその名を呟かないことは出来なかった。
ほんの数日前まで顔を見合わせ共に旅をしてきた仲間だからこそ、取り返しのつかない状況であっても変わらずその名を呼びたくなってしまう。
否、あるいは、諦めのついた心を誤魔化すことなく、変わり果てた彼らの名を呼ぶことで現実を受け入れようとしたのだろう。
瞳を閉じれば、直ぐに冷たい掌の感触がリジェッタの頬に伝わってきた。
それぞれ、骨太な固い指先と華奢な細指が、両の頬を包み込む。
荒れた二つの呼吸音が左右の耳へと近づいていく。
この二人ならばと、自然に生唾が下った。
リジェッタの呼び声に最初に反応を示したのは、魔王の声だった。
「――おっと……せっかく綺麗な顔のまま可愛がってやったんだ。乱暴に扱ってしまっては無礼だろう」
レイヴンが語り掛ければ二人の手はあまりにも簡単に動きを止めた。ただ欲求の下に血肉を求めた本能の渇きさえも凌駕する。本能すら超越した部分に魔王の意思が刻み込まれているのだ。
掌が触れたリジェッタの頬に伝わる冷たい感触は小刻みな振動だけを伝え、一切の圧力も加われていない。
腹をくくった覚悟が生殺しになったリジェッタは恐る恐るドルカスとマーリンの様子を伺う。
「ぐっ……がぁぁぁぁああああ……!」
理性を失った死んだ生者たちが苦しそうな表情を浮かべ腹の底からの絶叫を上げていた。
「ドルカス! マーリン!」
仲間の苦しそうな表情が居た堪れずに、思いがけず二人の名を叫ぶ。彼らの示した反応は、無論、より強い渇きと手を出せないことに伴う苦痛である。
頬に触れた指先にほんの僅かばかり力が加わりかけたところで、やはりそれ以上に強い圧は感じられなかった。
「もうやめて下さい! 私の身はどうなってもいい、今すぐにドルカスとマーリンをこの苦しみから解放するのです!」
ドルカスとマーリンの絶叫が響き渡る空間で、レイヴンを強く睨み返すリジェッタ。
一度安らかな眠りに落ちた彼らを無理やり叩き起こし、その上で餌を与え生かしも殺しもしない状況に閑却する行為に怒りが溢れる。それはリジェッタにとって彼らが仲間であるかに関わらず、およそ道徳的とは言えない卑劣な所業に倫理観を触発された。
彼らが動けないことで苦しんでいるのなら、この血肉が餌になることも本望である。
リジェッタからの決死の要求を聞き入れたレイヴンは、両の口角を歪なほどに釣り上げるのだった。
「リジェッタ……よもやお前は、ここで自分が死ねるとでも勘違いしてるんじゃあないか?」
「……え?」
留まることの無いドルカスとマーリンの絶叫が響き渡る空間に、リジェッタの声は嫌に反響する。
暗澹たる状況。死以外の選択肢を探すほうが難しいとも言えるほど絶望的なこの状況で、レイヴンの嫌味ったらしい言葉にリジェッタは間抜けな声を漏らすことしか出来なかった。
「殺したりなんかしないさ。何のために自分が生かされてると思う? まさか道楽や気まぐれなんかじゃあ断じて、ない。彼らの餌にするには少しばかり御膳上等が過ぎる。勿論、ただ飼い殺す為だけではないことも、もう理解しているだろう?」
「では何故……!」
「――業だよ」
レイヴンはリジェッタの思考を遮る。思わせぶりな言葉を呟き、そして続ける。
「お前の背負う業がお前に使命を課した。そしてそれは既にお前自身も気付いているはずだ」
レイヴンはおもむろに手をかざす。
ドルカスとマーリンの苦痛の叫びを、さながら耳元に飛ぶ羽根虫でもあしらうようにすぅと横へ空を引く。
一際大きく耳に劈く苦痛の叫びは、そのまま断末魔へと成り代わった。
理性を失ったとは言え仲間だった者の苦しそうな絶叫が心配であり、リジェッタが不穏な胸中を隠せないまま様子を伺い見ると、耳に障るはずの叫び声は徐々に萎んでいく。その容体の変化に原因を突き止めるのは、眺めているだけで解決した。
リジェッタが最初に感付いたのは両の頬に伝わる冷たい感触が無くなったことからだろう。
感触が消えた、否、液状の何かが滴る感覚に挿げ替わったのだ。
その感覚に違わず、目の前にいたはずのドルカスとマーリンは泥のように溶け始めていた。
目の前で何が起きているのか理解できるはずもない。もとより、仲間たちのそんな憐れな姿など認めたくはなかった。されど、視覚と触覚に伝わる紛れもない現実は、目の前で仲間たちが消滅していこうという事実を告げているのだ。
自然現象などでは断じてなく、それが魔王の手による行為であることは論を持たず当たりがついた。
「あっ……あぁ……あぁ! なんということを!」
怒りと、戸惑いが先行するリジェッタの動揺した声。頬に付着した泥のような感触は零れ落ち、リジェッタの目の前にあるのは辛うじて輪郭のみを保ったドルカスとマーリンの姿である。
否、ドルカスとマーリンだった物体と言ってしまった方がもはや相応しい。
死んでしまっていたという事実と、それでも目の前に保たれていたはずのドルカスとマーリンの姿。
仲間たちの姿と共に、リジェッタの中で全てが崩れ落ちていく。動揺で視界が揺れているのではなく、やがて人の形さえも保てなくなりはじめた二人がリジェッタの目の前から消えていくのだ。片膝をつき、腕が落ち、それでも必死に手を伸ばそうとするような姿が朧げに目に浮かんだ。
気づけば絶叫すらも発することが出来ないまま、未だ血肉を求めているような、彼らの渇望だけが浮き彫りにされているような気がした。
あるいは、錯覚なのだろうか。
彼らの姿形というものが事切れる瞬間、口元辺りに当たる洞は、リジェッタという文字列を象っていたように見えたのだ。
それは血肉の対象ではなく、仲間として。
錯覚なのだとしても、彼らの思いを知る仲間だからこそ、それは一筋の雫となってリジェッタの頬を這っていく。
まだ、せめて葬ってやることも出来たはずの肉体さえも、この魔王に奪われた。
怒りや悲しみよりも、もはや虚しさだけがリジェッタの胸に残る。
されど虚無に陥ったリジェッタ自身の命は奪おうとしない魔王の意図を、リジェッタには読むことも出来ない。もとより、何かを考えられる状態にはなかった。
無言のまま溢れる涙を拭うことも出来ず、佇むことしか出来ないリジェッタ。
レイヴンは無感情に続けた。
「ドルカスは死んだ。マーリンもだ。そして勇者ブレインも、もはやこの世に存在しない。お前の仲間はみんな死んだんだよ。お前だけを残してな。生き残った者の業、死んでしまった者の悲しみをお前は背負い続けなければならない。死んだ者には、後悔をする時すら与えられない。残したかったものだって残してやれないんだ」
死んだ者の声を、その想いを聞くことは出来ない。ドルカスやマーリンの声が奇跡や悪戯の類だとして、やはり本人の意志はそこにはない。
レイヴンとて、かつては『勇者』として培ってきたものを何一つ残せなかった後悔があった。
俺自身がそうだったように――そう口を滑らせかけたところで、レイヴンは代わりに嘯いてみせる。
「……リジェッタ。彼らの声を聞いて、尚も死を望むか?」
『勇者』だったレイヴンが、この世界に遺した後悔があるからこそ、魔王の立場で揚々と苛むことができる。
リジェッタも理解している頃だろう。瞳に宿る涙が偽りではないのなら、ドルカスとマーリンの、延いてはかつてレイヴンが抱いた想いさえも、その胸に届いているはずだ。
「今に開放してやろうとも。そしてお前が死にたいのなら死ねばいい。ただし、俺が手を貸してやることは無い。生きて、決して消えることは無い業を背負い続けることだ。……サファイア、枷を外してやれ」
「は、はいっ」
レイヴンが指示を下せばサファイアはあざとく、更に言えば不満あり気にリジェッタを鎖から解放する。態度にも口にも表すことは無いが、ガーネットもまたその指示に思うところがあることだろう。
それは謂わば、勇者の仲間だった実績があるという一種の脅威を野放しにしようとする愚策以外の何物でもないのだ。無論、彼女らにとってリジェッタは忌むべき対象、レイヴンの指示である、ということ以外にサファイアが迷うことなく指示を聞き入れる理由はなかった。
それを知りながら、レイヴンにはその指示に一切の躊躇いもなかった。
「もしもの話だ。もし、お前がこの先も生き続けるという道を選ぶなら、一つ頼みたいことがある」
サファイアに開放され、無言のまま鎖に縛られていた腕に血が通う感触を確かめるリジェッタに、レイヴンは白々しく言葉を掛ける。
返事も反応も示さないまま、脅迫染みた懇願を頭から振り下ろす。
「聖女と謳われた存在、よもや勇者の仲間だったお前なら、国に帰れば多少の発言力もあるだろう? だから、少しばかり広めてほしい名前があるんだよ。……この魔王の名、『魔王レイヴン』――ああっ、勇者から拝借した名だ。覚えやすいだろう?」
今のリジェッタにとって、あまりにも屈辱的な語感が響く。
否、もはや屈辱を感じるような感情すら残されていないのかもしれない。
リジェッタはぺたりと石畳に腰を落としたまま暫く動くことはなかった。
そしておもむろに立ち上がり、何も言わずにふらついた足取りで歩きだす。
目を合わせることも無くレイヴンの横を過ぎていく。
その背中には、消えることの無い業が刻まれていた。