第十五話 『拷問-02』
「レイヴン様っ!」
容姿相応にあどけない少女のような笑顔を浮かべながら、サファイアは絶対の君主の名を呼ぶ。
喜々とした表情はおよそ先ほどまで抱えていた不満の様相とは真逆に、懐っこく君主の下へと駆け寄っていく。
レイヴンはそれを鬱陶しそうにしながらも拒むことなく受け入れていた。拒む行為自体を難儀にして、サファイアと向き合う。
鉄格子越しの対面は互いに触れ合うことは無く、内側の慮外者を放置して会話を嗜んだ。
「サファイア、経過はどうだ?」
「はい。少しだけ痛い思いをさせてみたのですが、生意気にもまだ歯向かう意志があるようなのです。ちょうどそのお仕置きしてあげようとしていたところでした」
「そうか、それは邪魔をしたな」
「いえ! いえいえ! レイヴン様がいらっしゃったおかげで勤労意欲もわき上がったというものです!」
サファイアは跳ねるようにしてあざとく体の前に二つ拳を作る。鼻息を荒くする仕草がいちいち大袈裟に見えてしまうのは彼女の気質なのだろう。そして彼女の場合、レイヴンの前においてそれが取り繕った本心であることも露骨に見え透いている。
「サファイアの遣り口が生温いのではないのですか?」
異議を立てるのは、いつもながらレイヴンの傍らで慎ましやかにしているガーネットである。
暗がりでリジェッタの身体の傷跡が見えていないのか、鉄格子を挟んだ隔たりが視界を朧げにしている。否、ガーネットはその傷跡を見たところで同じことを言っていたのだろう。良心があれば決して生温いとは言い難い痛々しい傷跡を見ても動じはしない。
ガーネットが主張するのは、与えられた時間内でレイヴンの命令を完遂できていないことを論じていた。人間と魔族の確執による軽蔑よりも以前に、珍しく棘のある口調を用いて咎める。
無論、それを手放しに納得できないのもサファイアだった。
「ハァァア? 何? じゃあアンタがやってみればぁ? 殺さずに加減できるんならね」
サファイアは人懐っこい笑みから一転して捲くし立てる。険しい形相で切る啖呵は必要以上に怒気を孕ませながらガーネットに反発した。日頃の鬱憤としか言いようのない付加価値を持った険相が、個人的な感情が強すぎて何に対して怒りを示しているのか乱雑させている。
ガーネットはただ事実として鋭い眼光の途絶えぬリジェッタの視線を告げているだけなのだ。ある意味では、いわれのない非難を受けているのはガーネットの立場である。
絶対の君主を前に付き人として家臣の不届きは見定める義務がある。それをただの嫉妬で食ってかかられても不当な思いを抱えるのはガーネットなのだ。
あるいは、レイヴンの付き人たる存在がサファイアではなく彼女である理由は、その感情的な姿勢の差にあるのだろう。言い換えれば、稚拙なサファイアを傍に置く合理性は皆無なのだ。
ガーネットの対応が大人びている分、余計に如実な差が明確になっている。
二人が不毛な言い争いをしている姿を尻目に、レイヴンはかつての仲間の様子を眺めながら立ち尽くしていた。
その痛々しい傷跡と、かつて共に旅をした記憶を重ねる。当然程度の差はあるが、こうして傷ができると彼女はその都度魔法で治したものだ。それを頼りに無茶をしたこともある。
今となっては遠い記憶の無駄な感傷に、レイヴンは頭を振る。
もう二度と、レイヴンをその名で呼んではくれないかつての仲間。
否、しかし、レイヴンが捨てた過去の名に虚ろな希望を持っているリジェッタは、衰えぬ眼光で睨んでいる。
鋭く煌めきに満ちた、それでいて無気力な視線。
レイヴンは独り、その視線を打ち砕く瞬間を想像していた。
「……取り込んでいるところ悪いがサファイア。俺も邪魔させてもらっていいか」
「は、はい、もちろん!」
一方的に口論へ発展させかけていたサファイアを強引に引き込む。絶対の君主を邪魔などとすることなどなく、その返事を期待しながらレイヴンは言葉にした。言葉にすることでその主従関係の大きさを改めてリジェッタに見せしめたのだ。彼女の身体に傷を付けたサファイアの、更にその上の存在として意識を植え付ける。
否、そんなことをしなくても、もとよりリジェッタにとってレイヴンは魔王でしかない。
リジェッタにとってレイヴンは、もはやかつての仲間ではないのだ。
牢獄の内側へと入る。一歩刻む度に石畳がかつかつと小気味の良い音を上げた。それがリジェッタには絶望の近付いてくる音に聞こえたことだろう。無意識に体を避けようと身を翻すが、両腕を縛り上げた鎖が音を立てるだけで逃げることは出来ない。
それでも尚、鋭い眼光は衰えなかった。
「気分はどうだ、リジェッタ・ロサリオ」
レイヴンはこの世界に戻って初めてリジェッタと対面した時の言葉を擬える。同じ言葉を意識に植え付けることで魔王と直面した畏怖を喚起するのだ。この状況で気分に良いも悪いもあるはずがない。絶望の中に活路を見出したことで保たれている狂気の天秤を傾けないだけで精一杯だった。それすらも疲弊した心労に見せられた虚像ともあれば、魔王よりの質疑に応えるだけの労力など残されていないことは分かりきっていた。
レイヴンはリジェッタの顔を撫ぜた。白い柔肌の輪郭に指を滑らせる。苦痛と疲弊で口から呼吸することにより乾いた唇を眺めながら、俯いた華奢な顎を無骨に持ち上げる。だらりと脱力していた身体は強張り、生唾を呑み下した感触が指先を伝いその秘めた畏怖をレイヴンに悟らせた。常に半開きのような状態で呆けたリジェッタの口元は、それでも動くことはない。
リジェッタは粗雑に視線を上げられて尚も、ただ無言でレイヴンを睨み続けていた。
「何も応えてはくれない、か……。俺が対面する前にもっと従順な人形を作りたかったのだが……、サファイア、やはりお前のやり方では温かったらしいな」
「も、申し訳ございません……」
ガーネットに対して付け上がっていた手前に、レイヴンの叱責で気を落とすサファイアは大きく畏まる。不遜な態度もレイヴンの言葉には身を縮ませることしか出来なかった。
「なに。そう気を落とすことは無い。この機会に教えてやろうとも。真に絶望を叩き込む、その方法をな」
レイヴンにとってそれは慰みですらなく、自己の欲求を満たす為の口実に過ぎない。
この腕でかつて自分の手元にあったものを壊す快感は、彼の勇者を屠った瞬間を彷彿とさせる。それを期待するにはリジェッタではいささか力不足かも知れないが、想像の中の楽しみを現実にしてみたいという子供の夢のような稚拙な願望がレイヴンにはあった。
その小さな夢を叶えるため、レイヴンは名を呼ぶ。
ただ一言名を呼ぶほどの労力で全てを察し、意思を疎通できる差こそガーネットとサファイアの最大の相違なのだろう。
「ガーネット」
「はい、レイヴン様。こちらに」
ただ名を呼ぶほどの労力が命令となり、理解へと繋がっている。
ガーネットはレイヴンからの短い命令を筋書き通りに行動して魔法を唱える。彼女の得意とするところの転移魔法を応用とし、仕掛けも存在しない空間から二つの影をその手元に抱きすくめた。
ぐったりと彼女の両腕にそれぞれよりかかる、人の形をしたような影。
それらはガーネットの腕の中で微動だにしなかった。
さながら等身大の人形のように、それを運ぶガーネットの歩く度に揺れる衝撃にも目を覚ますことは無い。
人形というには精巧すぎるその表情を伺い見て動揺を抑えられなかったのは、ただ一人リジェッタだった。
「……ド、ドルカス……? マーリン……?」
頑なに閉ざしていた口すらも開かざるを得ない衝動がリジェッタの中を駆け巡る。心当たりの名を震えた声で一つずつ紡いだ。
間違っても、敵対する女性の腕の中で眠るような柔な二人ではない。
それが即ち、彼らが魔族の手に墜ちている事実を証明しているのだ。
「そ、そんな……そんな……っ!」
共に寄り添った仲間の死。
自分の置かれた状況の絶望感よりも強く、リジェッタの中で膨大な諦念が沸き上がった。信じられないとばかりに頭を振り、俯きがちに力無く呟く言葉が真実を認めてしまっているような敗北感を露わにした。
『勇者』が死に、友であり仲間である存在を失った。信じたくはなった事実がリジェッタの中で初めて真実となる。
勇者ブレイン、戦士ドルカス、魔導士マーリン。残されたのは聖女と呼ばれたリジェッタのみ。彼女の中で虚ろな希望だった勇者ブレインもまた、ドルカスとマーリンの死が真実となったことで活路は閉ざされた。
あくまでも魔王の口から聞かされただけの事実と、実際に目の前に見る衝撃の大きさはあまりにも落差が激しい。
項垂れて崩壊した精神に囁きかける悪魔の言葉はリジェッタを更に深潭へと突き落とす。
「変わり果てたお仲間の姿はどうだ?」
リジェッタにはそれが背筋をすっと舐め上げるような気色の悪い冷たい言葉に聞こえていた。実際に目の当たりにして尚、それでも否定したい現実を直視できずに項垂れる頭の先から冷酷に落とされる。
無意味と言ってはそれまででしかない抵抗を、リジェッタは必死に腹の底から捻り出した。
「ドルカス……マーリン……起きてください……何を、眠っているのですか……」
既に返事のない屍。そうと知りながら語り掛けずにはいられなかった。リジェッタ自身の神聖魔法を持ってしてももはや手遅れだ。それは彼らへと語りかけた言葉ですらなく、俯いた視線の先の石畳へと吸い込まれては消滅する。
嗚咽にならない悔しさを呑み、怒りを通り越した虚無がリジェッタの胸の中を駆け巡る。傷付き憔悴しきったこの肉体と精神を今すぐ投げ出したい感情とは相反して、自らの腕ではどうすることも出来ない状況がリジェッタを縛り付ける。
ならばせめて魔王の言葉が自分の首を絞めてくれることを望むしかない。
リジェッタはただ静かに、首に掛けられた鎖の冷たさに怯えることしか出来なかった。
「健気なものだ。何を語りかけたところで返事はないと知りながら、それでも口にせずにはいられないか。残念ながら……、お前の言葉は彼らには届いていない。語り掛けるだけ無駄だとも」
言葉にするまでも無く分かりきったようなことをレイヴンは敢えて心理の奥まで聞かせるのだ。それを知りながら、されどリジェッタを更に突き落とす言葉は続いた。
「……人間と、我ら魔族。獣とは違って同じ言葉を介する生物同士、一枚の舌で語る大まかな身体的な特徴までは大きく違ったところも無い。神が我々に与えた一枚の舌で人々は言葉を紡ぐ。……いくら語りかけたところで一枚の舌では届かぬ思いもあるだろう。そこで、だ。何故、我々の肉体には二つの耳がついていると思う? それは一枚の舌で語るよりも多く二つの耳で言葉を聞くためなんだよ」
レイヴンは他人の言葉を借りたような詭弁をつらつらと並べる。それで何を言いたいのか、まどろっこしい言葉遊びでリジェッタの脳内をかき乱す。
言葉とは裏腹に本人こそ過剰なお喋りを続ける中で、その口調は次第に浮つき始めていた。
何かを企んでいると、そう思わざるを得ない軽やかな回りくどさがリジェッタの緊張を加速させていた。
「リジェッタ、返事のない屍に語り掛けるよりも、大切なお仲間の声を聞きたいだろう? 聞かせてやろうとも。彼らの声。痛み。苦しみ。生きる者の責任を果たしてもらおう。彼らの無念を、その二つの耳でしかと聞くことだ」
やはり、理解できない。
否、しかし、レイヴンが何を行おうとしているか、その不条理な言動でリジェッタは全ての想像がついてしまった。
だがそれこそ想像が想像にならぬ恐ろしき妄想だ。目の前の現実とあり得ない妄想が、更なる想像を掻き立てる。
そんなことが出来るはずはないと妄想を否定する。だが、神聖魔法の使い手たるリジェッタさえも犯すことは出来ない禁忌を、あるいはこの魔王ならと、レイヴンから漲る自信がリジェッタの妄想を助長する。
死者の声。嘆き。
かつて、初めての死を体験した直中にレイヴンを苦しめた後悔。その思いを仲間たちに伝えることができたらと、死後のレイヴンを何度となく悩ませた。
せめてかつての仲間には同じ思いをさせたくないという、白々しい下卑た労りを拗らせたレイヴンの胸中に好奇心が浮ついている。
かつての仲間たちさえも浮ついた心で弄ぶ、その卑劣さを制する者は誰も居なかった。
「ドルカス。マーリン。目覚めはどうだ? さあ、大切な仲間にその声を聞かせてやるがいい」
レイヴンの声に二つの屍が反応する。
動くことの無かった指先が、開くはずのない瞼が、二度と聞くことは出来なかったその音が。
妄想に捉われたリジェッタの俯いた頭の上から二つの耳に届くのだ。
生ける屍か、否、あるいは、死んだ生者と謂うべきか。
水の落ちない雑巾から更に捻り上げたような掠れた声に、リジェッタは悲しみを覚えていた。