第十四話 『拷問-01』
ユークリッド帝国の戦乱から数日が経過した。
現在は復興というか、帝都を魔族の生きやすいように街並みを改良している段階である。人間の面影を取り壊し、人間の気配を断つ。その主な土木員は骨屍族と腐屍族だった。その中には、生身の人間の姿も点在していた。
彼らは戦乱の生き残りだ。人間に比べ数の少ない魔族が、少なからず戦乱によって更に数を減らしたその穴埋めである。もっとも、魔族の虐殺によりユークリッド帝国の元市民の数こそ雀の涙ほどで、そこに容赦なく鞭を打たれていた。足しにならぬ人手を補ったのは、魔王の力だった。
戦乱から即日。復興への着手より先に彼らへと命じられたのは、蹂躙し、虐殺された死体の収集である。殺して構わないという名実の下に蹂躙した、そこに疑心を煽るような命令に怪訝しながら彼らは従った。死体を帝都の中心部に集め、雑に死体が山積みされていく異様な光景に嫌悪を抱く者も居たのだろう。否、それは魔族ではなく、その時点で命令に組み込まれていた人間たちが仲間だった者を憂いてのことだ。
一般市民も、騎士も、老若男女も問わぬ死体の山に対して魔王は手を掲げ魔法を唱えた。
配下の彼らの訝しげな視線への返しとして、分かりやすい現象を目の当たりにする。
魔法の光が淡く包む山の中から影が蠢き出していた。
一人、また一人とその手を伸ばし、死者が蘇っていく。
それは理性を失った骸骨と、墓場からそのまま抜け出したような生ける屍。魔王の命令こそ理性とする、思考の存在しない兵士たちだ。魔族たちは彼らを歓迎する。正真正銘、生ける者共への見せしめとしているのか、骨の顎を打ち鳴らし、溶ける肌で笑って見せた。
彼らは今、魔王の命令のみを理念として同じ空の下にその役目を全うしている。
復興へと勤しむ姿は人間だった頃を思い出すように励んでいた。
否、それが魔王の命令であること以外に、そこに理性は無かった。
帝都ユークリッドの街並みは禍々しい異様な景色へと塗り替わっていく。
魔王の手の中に帝国が眠る。
◆
暗がりの鉄格子の中、その空間には古びた椅子だけが寂しげに存在する。
石畳の上に揺らめく影は二つ。静寂に声が反響した。
「もー。つまんないのー」
暗がりの中に響き渡るあどけない少女の声。所在なさそうに気怠げに嘆いては、浅く椅子に腰を預けながらその不満の矛先へと一瞥を下す。僅かな光源を頼りに覗き見たその場所には、みすぼらしい布生地に身を覆われた一人の女性が、両腕を鎖で釣り上げられぐったりと体重を預け呼吸を乱していた。伸びきった腕の無防備な肢体には、痛々しい傷跡が見れた。およそ女性の身体に付くには気の毒になるような傷だった。
それは事故や戦いとは別の人為的な傷跡である。鞭で打ち、あるいは刃物で傷付け、見るに堪えない生々しさを生み出している。苦痛に歪んだ表情はある種見る者によっては嗜虐性を駆り立てさせるような、顔にだけは痛々しい傷はなかった。それは、正に嗜虐的な思考によるものなのか。その綺麗な顔立ちにまで傷が入っては価値も薄れよう。
他でもない。傷物とされた女性の名は、リジェッタ・ロサリオ。そしてそれの目付に努めているのはサファイアだ。そこはアイゼンフォート城の地下、そのために都合よく設けられていたような拷問場だった。
サファイアは君主に命じられリジェッタの相手をしている次第である。何も彼女が好き好んで手を挙げたわけではなく、適材適所の結果というものらしい。曰く、死ぬまでは至らなければ魔法で回復できるからと、そんな大雑把な選考の下に配属されたのだ。敬愛を超えた一方的な片想いの結果、サファイアは君主の意向に逆らえなかった。
四忠臣の中では、ファントマとクロノスは戦線へ出向いている。それは広大なこの世界、ユークリッド帝国の地の僅か一部、帝都のみを手中に収めた魔族から奪還しようと末端の者たちが立ち上がって生まれた争いだ。ただ黙って国を明け渡すわけにはない程、彼らも彼らなりの誇りを持っていた。
魔族が反逆へと繰り出す以前。旧来、拠点の防衛に燻ぶっていた力が戦線へと立つと考えれば、人々の意思を断つのも時間の問題となることだろう。ファントマに至っては保守的だった以前を思い出し、鬱憤を晴らすように猛威を振るっているのかもしれない。
ガーネットに関しては変わらず魔王の傍らに付き従っている。他でもなく、サファイアはその事実に口惜しみ、嫉妬していた。四忠臣となり、ようやく手に入れた敬愛すべき魔王の傍に近づく権利。ファントマが長らく防衛に燻ぶり続けたことで溜まった鬱憤のように、サファイアもまた長い時が培い募りに募った恋心と、その傍らに仕える者への嫉妬があったのだ。
ガーネットはサファイアが初めて手に入れた権利を嘲笑うように、この四忠臣の立場があって尚、相も変わらず魔王の傍らに仕えている。事実とは大きく異なりながら、サファイアの目には妬ましげに映っていた。
やっと対等の立場を得た今こそガーネットへの嫉妬も大きくなり、それ故リジェッタの相手をするのも面白くなかったのだ。
何より、リジェッタの反応はサファイアを満足させるほどのものではなかった。
「ねぇ、アンタ。どうやってレイヴン様に取り入ったの? 勇者でさえ躊躇なく殺してしまった御方が、アンタみたいなの生かしてるなんて何か特別な理由があるわよね。やっぱりカラダ? その下品なカラダでレイヴン様を誘惑したんでしょう。でも、それにしては顔以外は好きにしていいって仰ってたわ。じゃあ顔? でもそれも変。だって私の方が可愛いのに、レイヴン様は一度も私のことを求めてくれたことはないもの」
言葉の端々に含まれた根拠のない自信と、その中に見える多角への嫉妬。無駄に豊かな自信が、何故自分に目を向けてくれないかという疑問と謂れのない嫉妬を大きくしている。愚にもつかないからくりの下、サファイアの目はリジェッタを嫉妬の対象として映していた。
それに対し言葉を失うのはリジェッタである。拷問に苦痛を与えられ動乱する思考の中では如何とも答え難い。最良の答えを見つけ出すには本人にさえ心当たりのない理由を自覚しなければならなかった。どれだけ模索したところでも見つからない答えに、それを無言と取ってか、サファイアはより退屈そうに不満になるばかりだった。
「恋の相談くらい乗ったらどうなの?」
ほとんど沈黙の間も与えぬまま、矢継ぎ早に気を急かすサファイア。嫉妬による焦慮で些細なことが全てそれらしく見えてしまう。いじらしく視線を這わせ、リジェッタの減り張りついた身体つきを目で弄ぶ。薄い衣がより突き出すところを強調している。無いものねだりのように視線を落とし、さらっとした自分の胸元にサファイアは憤りを覚えていた。
それか、と。
その差なのかと、サファイアは不満を募った。
目の前のリジェッタや彼のガーネットと比べ、確かにサファイアは貧相なものしか持っていない。敬愛する君主に取り入ってもらえない理由とは、その差としか考えられなかった。およそリジェッタに傷を入れていいとした所以が嗜虐的嗜好によるものとするならば、サファイアへと目が向かない理由は自ずと浮かび上がってくる。
当たりのついた不当な推測に、サファイアはより面白くなくなるばかりだ。
嫉妬を晴らす場としてこの構造に比肩する環境も無い。
サファイアは息のかかる距離までリジェッタに近づき、その輪郭に沿って艶めかしく指を這わせた。
「キレイな顔。百歩譲って、レイヴン様の御目に適うのも分かるわ」
次に腰の位置へ手を落とし、そして舐め掬うように脇腹を撫ぜ上げていく。下腹部から胸部にかけて人差し指と中指の二本だけでなぞらえて、双丘へと差し掛かったところでふと指を離す。
「……っ!」
くすぐったさと焦れったさが熱い吐息になってリジェッタの口から漏れ出した。苦悶の表情の中に蕩けた瞳が苦痛と刺激の境界線を揺らめいている。
サファイアはそれを忌々しげに眺めて見限った。
「でもね。そのキレイなお顔以外は好きにしていいって聞いてるの。安心して。多少骨が折れたりしても、私そうゆうのは治してあげるの得意だから。……ああ。そう言えば、アンタもそうなのよね」
数奇なことに、サファイアとリジェッタにある共通点に気づく。人間と魔族の差異はあれど、治癒の魔法を得意とする者同士、サファイアはそこに異質な命運を感じた。
例えば、サファイアの能力なら折れた腕を治すことは容易い。それは先ほどまでの根拠のない自信とは違い、事実として確信を持った発言だ。そしてリジェッタもまた、勇者の同行者たる者としてそこに覚えもあるだろう。
リジェッタは、自分の持てる力を想像し、自然と恐怖を覚える。サファイアも言ったように、自分の力があれば折れた腕の一つくらい治すことも可能だ。ことこの両者における治癒の範囲は、二人の最上級位の魔法が重なれば死にさえ至らない傷程度なら治せてしまう。自分が自分で治せる範囲くらいは理解しているのだ。
だからこそ、その自分だけの魔法で治せる許容を超えた苦痛への想像が掻き立てられ、リジェッタは瞳の据わったサファイアの視線を恐れている。
「……わ、私は、どんな巨悪にも屈しません……!」
それは気を紛れさせるためなのか、あるいは自分に言い聞かせるように、強気な言葉でリジェッタは応対してみせた。
勇者に連れ添った仲間として矜持に溢れ、サファイアの視線に強い眼差しを返す。
「忘れちゃったの? アンタのお仲間はみーんな死んじゃったのよ。勇者を含めてね。生かされているだけの立場であまり強い言葉は使わない方がいいわ」
「それでも、私だけは貴方達に屈するわけにはいかないのです……!」
「……健気なものね」
虚言のような気丈を吐く自己暗示に、サファイアは稀薄な語勢で称賛した。どんな恫喝をも頑なに拒み、勇者の仲間という誇りで恐怖を噛み殺す。否が応にも震えてしまう声色がサファイアに取り繕っただけの蛮勇を悟らせた。そうでなくとも畏怖の先行した緊張感に身が震え心情を明け透かしていたところ、それを証拠としてサファイアは付け上がり始める。
「じゃあ。そんなこと思えなくなるまで、可愛がってあげようかしら?」
さながら恋人同士の耳打ちのように、吐息を吹きかけるだけなほどの落ち着いた声で耳元に囁く。
少女のような容姿とは似つかわしくない艶美な色気を孕んだ熱い息に、リジェッタは痙攣を起こしたように身を捩らせた。勇者に連れ添った者として持った勇気やそれに準ずるものともまた別の、身体の芯から込み上げてくる熱い感情に制止が効かない。
嫌でも身体が反応してしまう感覚。誇りを死守するために強い気を持ちながら、それでも隠すことができない反射作用に恥部を貪られているような決まりの悪さがある。
サファイアの言う愛でるという行為に、愛玩とは違う暴力的な要因を感じ取った。
凄惨な想像が脳裏を過り、勇者の仲間としての誇りを、人としての尊厳すらも奪っていく。
リジェッタの想像の中で見せるサファイアの顔と、現実の目の前にある彼女の表情は激しいギャップを生んでいる。されど、彼女が想像の中の彼女と同じ人物であることは、リジェッタの中でも揺らぐことはなかった。
リジェッタは絶望の直中にて、勇者の幻影を浮かべた。彼の勇姿たる姿がその周りにまで感染してきた過去に、リジェッタもまた感服していた。
サファイアの先に見る勇者の影は、変わらず勇気をくれる。リジェッタはそこに活路を見出す。
この命がある限り、必ずどこかに救われるための糸口があると。縋るような想いで勇者の片影を眺めるのだ。
それが絶望による疲弊で狂った気が見せただけの虚像であるとも知らずに。
「そうだ。言い忘れてたけど、アンタを傷付けたことね、実は理由がないの。レイヴン様の御命令はただ可愛がってやれって。私、何かアンタのこと気に入らなかったのってそういうことかもね。理由も無く女の子をイジメる趣味なんてないもの」
「……貴方が敬愛する御方は意味も無く人を傷付けるのですね」
「レイヴン様のこと知ったような口聞かないで。理由は無くても意味は必ずある。次同じように生意気なこと喋ったら殺しちゃうかもしれないから気を付けてね。レイヴン様の御命令には背きたくないから」
理不尽な虐遇に対し気丈に構えて何か応酬してやろうというリジェッタに、食い気味に慨嘆を立てるサファイア。その忠告はリジェッタに向けられたものというより、あくまでも自己保身による弁護のように聞こえる。事実、サファイアにはリジェッタの生死が魔王の命令に適う要因としか見えなかった。
「――精を出しているな、サファイアよ」
忽然。
いつもながら不意をついた、厳格を持った声が空間に響く。
不満だけを募らせたサファイアの表情は、あからさまに活気を取り戻していた、