閑話 『ガーネットの功績』
時は少々遡り、ユークリッド帝国に魔王の力が落とされてから数時間。戦乱と、アイゼンフォート城にて集った四忠臣の儀の、その間のことだ。言わば残党狩りに魔族たちが勤しむ中、茶をしばくほどの時間の隙を見て魔王は腰を下ろしている。
舞台もまた移して、そこはかつて魔王の拠点に使われていた空間だった。
玉座のに座す魔王への報告を、ガーネットは慎んで告げた。
「皇帝は我が身可愛さに逃げ出していたようですね」
戦地とこの場所を自前の転移魔法で往復しながら、戦況を逐一に魔王へと耳打ちする。アイゼンフォート城の魔王の座すべき玉座には既に皇帝の姿はなかったという。武勇で均した帝国の秩序で、その王が戦場に立つことも無く逃げ出していたとなると、配下の者への示しもあったものではない。
それだけが要因とは間違っても言えないが、少なくとも帝国の王として戦地に立つこともなかった者と魔族の王としての差は結果が如実に表している。そうでなくとも圧倒的な武力の差が分けた勝敗を、その身振りで配下の者たちの士気まで下げては最初から逃げ出すつもりだったようにしか思えない。彼の者は立ち向かう意志を放棄したのだ。
此度の戦乱において明瞭な標的として魔族が狙った玉座が空き、帝国の兵士たちが守ろうと尽力したそこに居るべき人物が不在となれば、残党狩りにも分かりやすい終わりが見える。掃討し尽くすまでの必要はないのだが、それは魔族の気の済むところによるとしか言えない状況だ。
人間が魔族を忌み嫌うように、魔族もまた人間を忌み嫌う。これまで募り募らせた鬱憤を解放するこの機会を、彼らが何処で満足するかが戦乱の終局に直接つながることだろう。ただ、彼らの中でも魔王を待たせているという状況の見境はついている。敢えて声明を出すことも無く、魔王は玉座にてその一報を待っていた。
「数十名に及ぶ騎士を抱え込み他国へと北上中との情報がございます。城郭の東、西、南と点在された大門の内、北部アイゼンフォート城に設けられた裏門と呼ばれる抜け道から逃げ出したのではないかと」
「なんだ、つまらんな」
「私めが、彼の者の首を取って参りましょうか?」
それは魔王が勇者の首を取ったのと同じく、それ自体が分かりやすく終わりを表している。難しいことを考えずに、敵国の王の首を取ればそれが終わりだ。ガーネットはついでとでも言うように造作もない様子で合意を求める。しがなく声を落とした魔王に退屈を埋め合わせるだけのただの提案だ。仮にも帝国の王を討ち取ろうとする者の態度ではないが、それを咎められる隙も無いほど赤子の手をひねるような余裕が漲っていた。
「確かに。新しくお前の同輩を招く上で、その彼らにだけ功績を求めてお前だけ手放しでは不公平かもしれんな。丁度いいじゃあないか。行ってくるがいい」
上手く理由が当てはまったところでガーネットは下命を賜る。公平を求めるには開始地点が異なるが、所詮は対外的なうわべの見え方だ。皇帝が逃げた、それを魔王が気に食わないのなら、ガーネットは彼の者の首を討ち取るのみ。そこに特別な理由などなくとも変わりはしないが、魔王よりの天命ともあればそれは間違うわけにはいかない責務となる。
「それでは、行って参ります」
先ほどまでの余裕とは様変わりして畏まるガーネット。
踵を返し、光と暗闇の境界線へと消えていく。
◆
帝都ユークリッドを形成するアイゼンフォート城を取り囲む城郭、その北口に当たる門は一般人に開放されておらず、皇族と従者のみが通過を許されている。一般開放されている南門を表面としたとき、裏面に当たる城の背には渓谷が広がっていた。ほんの些細な抜け道とでも表現するような細道だけが横に続き、城への大規模な侵攻を防ぐ造りとなっている。
城郭の範囲から抜け出し、しばらく進んだところには森林が広がっていた。そこは普段人々も木材の調達に訪れる森林だった。獣も多く奥に進むほど光の届かない暗い光景が続いていく。ユークリッド帝国の、元を頭に付けるべき皇帝は、戦火の手から逃れるべくその森林にて身を潜めていた。
数十名に及ぶ騎士たちに囲まれながら騎馬にまたがり、元皇帝は馬の脚を止める。彼一人を守るように囲んだ騎士たちもまたそれに倣い足並みを揃える。元皇帝の号令は威厳もあったものではない怯えるような声色で騎士たちに伝っていく。
「とりあえず、ここまで来れば巻き込まれることも無かろう。少し休むぞ」
帝都からここまで大袈裟にするほどの距離でもないのだが、戦況の流れで慌ただしく逃亡の準備を始めた心労と森林の暗闇の安心感に息を吐いた。焦慮ばかりが抽出して聞こえる君主の声遣いに疑心感が募る騎士たちは、不信ながらも言葉に従う。彼らもまた心労の色は隠せていない。
元皇帝を含め暗闇の中で誰もが息を吐き、束の間の安息が訪れる。彼らの旅路は、さしあたり目指すところは隣国となる。敗戦の国の王が亡命したところで元の地位は取り戻せないだろうが、命には代えられない。騎士たちは皇帝の従者という特権だけを宛に惨めな王に従っている。それは彼らにとって唯一手元に残った地位だった。
見張りを立てる段取りで生まれた音の他に静寂が耳に届けるのは、どこかから響いてくる獣の遠吠えだけ。腐っても武力で知れたユークリッド帝国の、その皇帝に従う騎士たちがそれに怖気付くことは無いが、見張り以外の者も含め皆必然的に警戒は強くなる。
馬から降り、腰を下ろした元皇帝とそれを円形に囲んで守る騎士たち。一人が息を吐く音すら共有する静寂の中、忽然と音も無く表れた影は元皇帝の前で耳打ちのように囁く。それでも、静寂に助長されながら声はやけに響いた。
「――貴方がユークリッド帝国の皇帝ですね。お待ちしておりました」
「……なっ……だ、誰だ貴様はっ!?」
「名乗るほどの者ではございません」
少なくとも、元皇帝が連れ従った数十名の騎士の中には記憶にない顔。そもそもこの期に及んで迄女を侍らせたりなどしない。その声の主は女だった。暗闇の中でも分かる、その女の持つ美貌と表情に墜ちた影が、人間とは隔した存在であることを伝えているようだ。戦力にならない女子供は帝国に戦火の手が及ぶ前に逃がしている。
ならば、円形に全方位を見渡した見張りが、彼女の存在を見落としたというのか。見張りの内側にもまた交代で休憩している騎士が居る中、的確に元皇帝の目の前まで歩いてきたということは考え難い。しかし、気づいた時には既にその場に居たという認識は、忽然と現れたとしか言い様もなかった。
事実、彼女は忽然とそこに現れたのだ。
暗闇の中に融け込む漆黒のドレスを纏い、それ故に際立つ雪のように白い肌と深紅の輝き。
獣も出る森林の奥地に相応しくないその格好が、元皇帝の恐怖を煽り立てていた。
「な、何をしておる貴様らッ! 女ひとり見逃すような節穴ではここに居る慮外者も見えんのか!? さっさと取り押さえるのだ!」
理解が認識に追いつくまでに時間を要した騎士たちは、君主の怒号で初めて事態を察する。四方を見渡す目から誰にも悟られず君主の袂まで接近を許した事実に自尊心を傷つけられた。君主の怒号に遅れて女を取り囲み、武具の切っ先で牽制しながら身動きを封じる。
そこで動けそうにない様を見て若干ばかりの冷静さを取り戻した元皇帝は、暗がりの中に改めて不届き者の顔を伺い見た。
「……い、いや、待てよ。傷物にはするな。何かと使えそうだよなぁ?」
下卑た笑みを浮かべ命令に色付けする。騎士たちもまた男。肉欲を駆り立てるように煽情的な衣装も相まって、騎士たちまでもその気になった。人間と隔した存在感を盲目にさせるような色気の虜になる。にじり寄るその足取りが、下賎な思考を明け透けにしていた。
騎士の一人が辛抱に耐え難いとし襲い掛かったのを皮切りに、それを合図に武具の柄を向けた弱い打撃が振り落とされる。
手応えを見失った騎士たちが振り下ろしたまま狼狽えていると、場が落ち着き始めてから見えるそこに女の姿はない。
手応えの代わりに背後から聞こえてくる叱咤が嫌に響いた。
「――下衆め。配下の者へ命じるだけで自らの手は汚そうとしない。それが君主たる者の務めですか。魔王様でしたらきっと、自ら矢面に立って我々家臣へと示し付けることでしょう」
気づけば、という認識が、やはりこの場に居る者の総意だ。騎士たちが恐る恐る振り向く、そこに腰を砕いた皇帝とそれを冷徹に見下す女が佇んでいる。如何にしてこの多数の手から逃れたのか、もはやその手段を推測立てるだけ無駄に過ぎない。ただ事実として、掴みようのない何某かが存在するのだ。
騎士たちには、彼女の姿が実体のない残像に見えていた。
「偶々皇族として生まれ天子に就いただけで、神にでも選ばれたつもりでいるのですか?」
「馬鹿な……どうして……!」
会話も通じないほど動揺を隠せない元皇帝に呆れ、教唆するように元皇帝の目の前から姿を消して見せる。
それでも察し付かず竦み上がるばかり。彼女は背後から耳元を息で吹きかけるように囁きかけた。
「では。仮に神に選ばれた者だとしても、簡単に死んでしまうことを教えて差し上げましょう」
「ひっ――!」
変わらず、気づけば背後へと回った瞬きの隙を縫うような迅速さ。不意打ちに耳元を襲った恐怖で悲鳴を挙げかけ、それもまた忽然と途切れた。
代わりに悲鳴を挙げたのは騎士たちである。
「ぅああああああああ!」
「そんなぁ……!」
口々に聞こえてくる悲鳴と共に多くの騎士が腰を抜かすか、逃げだすか、そのどちらかの状態となる。
騎士たちが見た光景とは、皇帝の首がごとりと地に付いた瞬間だった。腰が砕け突っ張った腕が支えていた胴体が遅れて力が抜け地に倒れ伏す。
飛び散る鮮血の中、劣らぬ深紅の長髪が靡いていた。
「これは……どうしましょうか。こんな物を持ち帰っても、魔王様が御叱りにされるだけですね……」
元皇帝の首を拾い上げて彼女はひとりごちる。騎士たちの様子から見るにもう襲ってくることも無いだろう。恐慌したまま握った武具が小刻みに震え、そこに下卑た意志の消え失せたことを悟り綽々と呟いていた。
何か、手柄を取り逃したような気分にもなって彼女は愚痴を零した。
勇者の首もさながら塵同然に扱った魔王が皇帝の首を持ち帰ったとて喜ぶはずも無い。かと言っては、それがなければ証明にならないとも思い、その処分に一考を案じる。このまま放置しておけばいずれ獣の餌になるだろうと、彼女は皇帝の首を胴体に沿って優しく置く。騎士たちも目の前でその惨劇を見せられて迂闊に触れようとはしないだろう。
最悪、報告の後に必要に応じて戻って来ても遅くはない。
かくして、ユークリッド帝国の歴史は全て潰えた。
慈悲無き制裁を受けた皇帝の肉体は、森林の暗闇に消えていった。
それは、民を残し逃げ及んだ罪への罰なのかもしれない。