古代の獣 第九章
それは、ジョシュアの予想を超える大騒ぎだった。
ムシュフッシュの背に乗ったジョシュアがバビロンの目抜き通り、行列道路に降り立つと、人々は叫び、逃げ惑った。が、巨大で恐ろしげな竜がジョシュアに従うのを見ると、こわごわと近付き、やがて歓声を上げた。
「あんな少年が恐ろしい竜を従えるとは!」
「何と命知らずな…」
行列道路に、賛辞の声が轟く。
「竜使いだ!竜使いのジョシュア!」
「戦いの女神イシュタルの子、勇敢なるジョシュア!」
声に導かれるように、人々は建物から次々と顔を出し、小走りに集まってきた。数え切れないほどの人々がジョシュアと黄金の竜を遠巻きに囲んだ。
幾百の目が、恐れと尊敬を込めてジョシュアを見た。誰ももう、彼を蔑んだりしない。
その誇らしさに、ジョシュアの体は震え、頬は夕陽のように紅潮した。
「バビロンの皆様、ご安心を!ムシュフッシュは今や私のしもべ。私の命令ならば何でも聞きます。恐れることなどありませぬ!」
ジョシュアの高らかな呼びかけに、ウオーッとどよめきが起きた。
民衆はジョシュアの周りに我先に駆け寄り、若き英雄の体を胴上げした。
熱風のような歓喜の渦がジョシュアの若い体を包み、少年は痺れるような栄光を全身で噛み締めた。だが彼が真に求める栄光は、そんなことではなかった。
誰かが叫んだ。
「シャルマラサル王だ!」
途端に興奮の雄叫びを上げていた民衆は急いで跪き、頭を垂れた。まるで海が割れるように人垣の道が開かれる。
静寂の中、ジョシュアの胸が早鐘のように高鳴った。ラサルだ。ラサルに会える。
現れたのは、憂いを秘めた瞳の長身の青年王。
ジョシュアとラサルの視線が交錯した。
ジョシュアの唇が震えた。声が出ない。
ラサルの顔もまた、泣きそうに歪んでいた。民の歓喜の声に応えることも忘れ、ただジョシュアを見詰める。
ジョシュアの目が潤んだ。ただこの人の瞳の中に立つためだけに、生きてきたのだ。その思いが熱風のように溢れ、少年は崩れるように地面にがっくりと膝をついた。慌ててラサルはジョシュアへと駆け寄り、今にも折れそうなその体をきつく抱き締めた。
「ジョシュア、本当に私のジョシュアなのだな…」
ラサルの声が震える。
「ラサル…様」
それだけ言うのが、精一杯だった。
ラサルは、そんなジョシュアを震えながらかき抱く。
「マルドゥク神よ、感謝します。もう一度、ジョシュアと会えましたことを…」
「ラサル…様、僕、やりました。ムシュフッシュを捕らえまして、ございます…」
「お前は…何と命知らずな!」
ラサルはジョシュアの麦の穂の色をした髪を撫で、何度も頬ずりした。
「ラサル…」
ジョシュアがラサルの背に手を回そうとした、その時だった。
「ジョシュア、でかしたぞ!」
もったいぶった老人の声。テペが王の後ろから現れ、張り付いたような笑顔で大げさに天を仰いだ。「さすがイシュタルの子!伝説の竜ムシュフッシュを捕らえるとは!」
「…テペ…」
ジョシュアの顔が歪んだ。緑の瞳に怒りの炎が再び蘇る。砂漠で見殺しにしようとしたのは、この男だ。なのになぜ、何食わぬ顔で、ここに現れることができるのか。
テペはジョシュアの視線を無視して、せかせかとした歩き方で、王とジョシュアの間に割り込んだ。
「シャルマラサル王よ、危のうございます。竜は炎の舌を持っておりますぞ。あまりお近づきあそばすな」
テペは王をかばうふりをして、ジョシュアから引き離した。ジョシュアはそのまま地面に転がるように跪く。
「ジョシュア、大丈夫か?」
「大丈夫です、ラサル…シャルマラサル王」
テペの異様に小さな黒目が、ギロリとジョシュアを睨んだ。テペとしては、王が奴隷を泣かんばかりに抱き締めている姿なぞ、民衆に見せるわけにはいかないのだ。それが英雄であろうとも。
その時、ムシュフッシュが低い声で唸った。ただの欠伸なのだが、テペをはじめ、民衆たちは飛びのき、後ずさりした。
テペはこわごわと竜を見上げた。
「これが、ムシュフッシュ…。ウルクの街を一夜にして灰にしたという、悪魔の獣…」
「いや、聖なる伝説の竜だ、テペ」
正したのは、ラサルだった。ラサルは穏やかながら威厳に満ちた声で言った。そしてテペを押しのけ、竜と正面から向かい合った。「ウルクは背徳と疫病に冒され、腐り始めていた。この聖なる竜はその病の元を地上から焼き払い、清めようとしたのだろう。だからこそ、ジョシュアの汚れなき腕に小鳥のように止まったのだ」
テペは苦々しげに目を伏せる。ラサルは再び、跪いているジョシュアの手を取った。
「さあ、立っておくれ、戦いの女神イシュタルの祝福を受けし子よ」
ジョシュアはラサルの目を見詰め、そしておもむろに口を開いた。
「ラサル…シャルマラサル様、お願いがございます。王様はムシュフッシュを捕らえたならば、私に望むものを授けるとおっしゃいました。私は、お願いがあるんです」
「何でも望むものを言っておくれ」
「僕に、いえ、私に、どうか、あなた様のお側にいることをお許しください。…あなた様のお隣にいさせてください」
ジョシュアの声は、痛々しいほど切実だった。だが、テペは目を剥いた。
「これ、控えぬか!王と肩を並べようとは、奴隷の身で何たる不遜な…」
「控えるのはお主だ、テペ」
ラサルが厳しい声で言うと、ジョシュアの手を握る力を強めた。ラサルは、覚悟を決めたように二度、瞬きをした。
「バビロンの民たちよ、聞くがよい!」
ラサルは握り締めたジョシュアの手を高く空へと突き出すと、よく通るつややかな声で宣言した。「これよりバビロンの空はすべて、ジョシュアとそのしもべたる聖なる獣ムシュフッシュに委ねる。ジョシュアは天空の王である!」
ざわめきが民衆から起きた。それはラサルの英断を称えるのではなく、戸惑いの声だった。
「天空の王だと?」
「シャルマラサル王を差し置いてか?」
「シャルマラサル王!」
テペは血相を変えて王を諌めた。「何を血迷うておられる!このバビロンの支配者は天にも地にも王、あなた様ただお一人。このような奴隷になぞ…」
「ありがたき幸せに存じます!」
ジョシュアはテペの言葉を遮って叫ぶと、ラサルの前に再び跪いた。「過分なるお言葉、光栄に存じます。このジョシュアとムシュフッシュ、命に換えましても、王の都の天空を守ってみせましょう!」
「そのような勝手なことは許されませぬ!」
テペが口角に泡を飛ばして叫び、白目ばかりが目立つ目でギロリとジョシュアを睨んだ。
だが、ジョシュアは立ち上がると、勝ち誇った目で老人を見下し、言ってのけた。
「テペ神官様、これはシャルマラサル王のお言葉にございます。まさかテペ神官様は王の命令を無視するなどという、神をも恐れぬことはなさりませぬでしょうな」
「こ、この若造が…!」
テペが怒りで顔を真っ赤にさせる。
「やめよ、テペ!」
ラサルが有無を言わさぬ声で制した。「テペよ、控えるがよい。イシュタルの子ジョシュアの申す通りだ。もう一度言う。私はこの天空をジョシュア、お前に託そう。お前が今日から空の覇者だ」
ラサルは誰も逆らえない、毅然とした口調で言うと、跪くジョシュアの額に口付けをした。
少年は勝利に酔った潤んだ瞳で、誇らしげに頷いた。
「王の仰せのままに」
「それではジョシュア、お前の髪の色に似た新しい麦酒でお前の栄誉を称え、乾杯するとしよう」
ラサルは柔らかな笑顔を浮かべてジョシュアの手を握り、ゆっくりと行列道路の中央を通って王宮へと導いた。その後をムシュフッシュも大人しくついて来る。さらにその後を民衆が、竜を恐れながらもぞろぞろと付き従う。
「シャルマラサル王に栄光あれ!」
「天空の覇者ジョシュア、万歳!」
民たちはラサルとジョシュアを称える言葉を口々に叫ぶ。今夜は王宮から上等の麦酒がたんと振舞われることだろう、との期待もしながら。何と言っても、この街をいつ滅ぼすかと恐れられていたムシュフッシュが王の支配下に治まったのだから。今宵から安心して眠れるというものだ。
だが、中には呆れながら、いやらしげな笑いを交し合う者も少なくなかった。
「シャルマラサル王も困ったものよ。あの小僧に骨抜きではないか。確かに勇気のある美しい子供だが、民の面前で泣かんばかりに抱きすくめるとはの」
「いや仕方あるまい。あれほどの美童だ」
「あの様子では、どちらが王か奴隷かさえ分からぬぞ」
その、さわさわと起きる嘲笑を、行列の一番最後でテペは苦々しげに聞いていた。老人の眉の下の目は、静かな怒りに燃えていた。分をわきまえぬジョシュアへの、そして王に据えてやった恩も忘れ、自分に逆らい始めたラサルへの怒りに。
ジョシュアを称える盛大な宴は、夜更けまで続いた。
王宮の中庭には無数の篝火が点され、人々は尽きぬ泉のように次々と供される麦酒と甘いパン、香ばしい肉の味に大いに酔いしれ、騒ぎ、笑った。
ジョシュアは、冒険の埃と汚れを水で清めた後、金糸の刺繍もきらびやかな白い長衣を与えられた。麦の穂の色をした髪は、黄金の冠で飾られた。
宴の主役である彼が中庭に現れると、集まった民たちからざわめきが起きた。
「何という美しさよ…」
「先ほどは、汚れていて分からなかったが、光り輝くばかりではないか」
「さすが勇気と美貌を兼ね備えた、正真正銘のイシュタルの子」
ジョシュアはどう答えて良いか分からず、曖昧に笑い、用意された麦酒をあおった。乾いた喉に黄金色の液体が染みる。
ジョシュアが杯を乾すと、われ先にと人々が駆け寄り、再び杯を麦酒で満たした。
「あ、あの、僕は、王様に会いたくて…」
「さあさあ、まずはお飲みなさい」
酒を注いだ男が愛想を振りまきながら言った。立派な衣をまとっているので、重臣らしい。「シャルマラサル王はただ今、神殿でマルドゥク神へのご報告をされておられます。お見えになるには、今しばらくかかります。ですから、先にお飲みになっていてください」
仕方なくジョシュアが再び杯をあおると、人々は拍手をした。
「さすがイシュタルの子」
「酒の強さも比類なきようだ」
ジョシュアは、仕方なくまた杯を飲み干した。酔いとともに、彼の勇気と知恵と美しさを称える人々の賛辞が押し寄せてくる。馬鹿騒ぎとおべんちゃらと乾杯の応酬が続く。そのうちにジョシュアの頭を疲れと酔いが占め始め、我知らず眠りについていた。
ふと、何かが肩に触れた気がした。
ジョシュアが目を開けると、周囲は真っ暗だった。篝火は燃え尽き、月もいなくなっている。宴の人々はいつのまにか消え、食べ散らかした皿や杯だけが、ぼんやりと見える。
とその時、再び誰かが肩に触れた。
「ジョシュア」
ジョシュアは、ハッと体を固くした。暗闇の中で、自分の傍らで跪いている男が見える。それは髪のほとんど無い、初老の男だった。やさしげな眼差しが、暗闇の中でも分かる。
「シュルギ!」
叫ぶと同時にジョシュアはシュルギに抱きついた。かつて養父であったシュルギだ。
シュルギもまた嬉しそうにジョシュアの背を叩いた。
「シュルギ!元気でいたんだね!」
だが、シュルギは口に指をあて、静かにするように示すと、そっと耳元で囁いた。
「ジョシュア…いえ、竜の勇者にして天空の王ジョシュア様、王がお呼びでございます」
「ラサルが?」
「シッ!静かに。テペ神官が自室で眠っているうちに参りましょう」
シュルギは闇の中で微笑むと、明かりも持たずにジョシュアの手を取った。




