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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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古代の獣 第八章

 ジョシュアと竜はひた、と睨み合っていた。

 巨大な黒い門の上から、竜はチロチロと小さな炎を吐きながら、じっとジョシュアを見ている。今にもその口からは炎の柱が吹き出そうだ。

 が、ジョシュアはくい、と顎を上げた。恐怖が次第にどこかへと去っていく。そう、ここで焼かれなかったとしても、早晩、野垂れ死にするだろうことは分かっている。

 ジョシュアは大声で呼びかけた。

「ムシュフッシュ、古代の神の竜よ、私はジョシュア。イシュタルの子だ。お前に会うために来た」

 竜はジョシュアに向かって大きな口を開け、今度は炎を吹いた。ジョシュアはその炎を辛うじてかわすと、もう一度叫んだ。

「ムシュフッシュよ、私はお前に害なす者ではない。頼みがあるのだ。わが都バビロンをお前の炎の舌で焼くことはやめてくれ。それを頼みに来たのだ」

 雷のような音がした。ジョシュアは思わず耳を塞ぐ。が、それはムシュフッシュの笑い声だった。竜はひとしきりジョシュアを嘲笑した後、大きな欠伸をしてジョシュアから視線を外した。

「ムシュフッシュ!」

 だが、竜は真っ赤な眼を閉じた。今度は眠ったように何も答えない。ジョシュアは小さく舌打ちした。

「分かった!それなら私がそこへ行く!」

 ジョシュアは、巨大な石の門に手をかけた。真っ黒な門は天空へと聳え、その頂上の楼閣にムシュフッシュはいる。門には階段も梯子も無い。ただ地獄の門の門番のように、あちこちに神の獣の彫刻が施されている。

 ジョシュアは石の僅かな割れ目に手と足の先を掛けた。が、過酷な旅で少年の体は針金のようになっており、力もほとんど残っていなかった。高い楼閣までは登り切れないだろう。

 ジョシュアはふと、腹に触れた。ラサルの髪で編まれた長い帯が、そこにはあった。

(ラサル、力を貸して)

 ジョシュアは、その帯を解いて綱とし、一方に輪を作ると、頭上遥かに放り投げた。その輪は、神獣の彫刻に引っかかった。ジョシュアは二、三度、その綱を引っ張ると、残る端を自分の腹にくくり付け、門を登り始めた。

 神獣の彫刻まで登ると、さらに上の彫刻へと髪の綱を投げ、登っていった。

 すぐに手も指も、疲れで痺れた。何度も足を滑らせ、真っ逆さまに落ちそうになったが、そのたびに髪の綱がジョシュアを救った。きっちりと編まれた王の髪は、切れることもなく、頑丈にジョシュアの体重を支え続ける。

(大丈夫だ。ラサルが守ってくれる。ラサルの王の髪が)

 ジョシュアはそう自分に言い聞かせた。いや、信じた。

 砂嵐がやって来た。ジョシュアは髪の綱にしがみつき、目を閉じて過ぎ去るのを待った。やがて地面は遠く砂嵐の底に消え、ジョシュアは下界を見下ろすことをやめた。


 どのくらい時間が経っただろうか。

「…最初の門で失うは、王の冠なりにけり…」

 ジョシュアはハッとした。歌がどこかから聞こえてくる。

(ラサルの歌だ。ラサルが歌っていた、あの歌だ。ラサルがいるんだ!)

 だが、その歌はラサルの声とは違っていた。地底に響くような、低く太い声。

 それでも、ジョシュアの力は蘇ってきた。渾身の力を込めて最後の壁を登った。門の頂上の楼閣に手をかけると、最後の力を振り絞って体を引っ張り上げた。そのまま楼閣の床にゴロリと転がる。

 荒い息を整え、痺れる腕を振っていたその時、ジョシュアは視線を感じた。

 見上げると、そこには巨大な竜がジョシュアを見下ろしていた。日は既に傾きかけ、夕暮れの中で見るムシュフッシュは山のように大きく見えた。赤い目が爛々と燃えている。

「ムシュ…」

 ジョシュアが言いかけた時、竜の口から炎が吹き出た。ジョシュアは飛びのくが、さらに炎が襲ってくる。炎を避けようと腕を顔の前にかざした瞬間、手の中のラサルの髪の束に炎がつき、燃え上がった。

「うわあ!」

 熱さのため、ジョシュアはつい手を離してしまった。楼閣の床で、ラサルの髪は松明のように燃え上がり、そしてブスブスと焼けてしまった。

「…ラサルの髪が…」

 ジョシュアは怒りを込めて竜の目を見返し、叫んだ。

「何てことするんだ!ラサルの髪、大事なラサルの髪なのに!これが無いとラサルは…!」

 恐怖を忘れ、ジョシュアは仁王立ちになった。竜は動かない。

 竜と少年は、長いこと睨み合っていた。

 薔薇色の夕焼けに焼かれていたためか、次第にジョシュアは自分自身がムシュフッシュの赤い目の奥に入っているような感覚に襲われた。周囲はすべて赤い闇。それは夕焼けなのか、ムシュフッシュの瞳の中なのか。

 その時、ムシュフッシュが口を開いた。

「人の子よ」

 低い、地鳴りのような声だった。

「お前は、人語を操るのか?」

 驚いてジョシュアが問う。

「人間とは無知なものよの」

 竜は笑った。「そんなことも知らずに、ここへ来たのか」

「それでは、ムシュフッシュ、もう一度頼む。我らの都を焼き払うのはやめてくれ」

 ジョシュアの言葉を聞くや、ムシュフッシュは大声で笑い出した。塔に落ちる雷のようだった。

「人の子よ、真実を語れ。偽りの言葉は私には通じぬ。お前はあの腐り果てた都のことなぞ、どうでも良いと思っているだろうに。真にお前が欲するものを語れ」

「真実…?」

「そうだ。お前の真に望むことを」

 ジョシュアは竜の目を見詰め、唾を飲み込み、口を開いた。

「私は…いや、僕は、力が欲しい。ラサルの、ラサル王の側に居続けるための力が欲しい。誰にも踏みつけられない、蔑まれない、絶対的な力が欲しい。だから、お前が欲しい。お前の力が欲しい」

 竜は驚かず、小さく笑った。

「先ほどイシュタルの子、と名乗っていたな。ただの人の子のお前が」

 ジョシュアは真っ赤になった。テペの煽り文句通りに名乗ってはみたが、神の獣にそのようなハッタリは通じない。

「だって、僕は…」

「まあ、名乗りたい気も分からぬでもない」

 竜は言った。「お前は私が怖くないのか?私は地上を焼き尽くす獣ぞ。そしてお前がよじ登ったこの門は、バブ・イル(神の門)。私はこの門の番人だ。ここから先は冥府への入り口。あと一歩、お前が踏み出せば、いや不遜なるお前を私が門の向こうへと放り込めば、お前は二度と生きる者の世界へは戻れぬ。それでも怖くないのか?」

「怖いさ」

 ジョシュアは頷いた。だが緑の目は、揺らぎもせずに竜を見る。「でも、それ以上に僕にはお前の力が必要だ。僕だけのためじゃないんだ。ラサルにも絶対的な力が必要なんだ。王様なのに、力の源の長い髪を僕にくれたんだ。でもそれもさっき燃えてしまった。もうラサルに返せない。だから、誰にも蔑まれない王の証として、お前が欲しいんだ」

「王の髪か」

 ムシュフッシュは馬鹿にしたように笑った。「地上ではそのようなものを奉っているらしいが、髪はただの髪であり、それには何の力も無い」

「そんなことない!だって僕を助けてくれたんだ。何度も、何度も。さっきだって僕が焼かれるのを助けてくれた」

 竜は鼻で笑った。だがしばらく黙り、燃えるような赤い目をジョシュアの上に注いだ。

「そうか、あれが王の冠だったかもしれぬな」

「何だって?」

 竜は答えない。やがて夕日は彼方に没し、イシュタルの星である宵の明星が輝き始めたころ、竜は突然、鼓膜が破けるような声で笑い出した。

「お前は、その王とやらをどうしても助けたいのだな」

「勿論だ」

「何ゆえに」

「ラサルは僕のすべてだから」

「すべて…か。愚かにして勇敢な人の子、いや今からお前をイシュタルの子と呼ぼう、私はお前に望むものを与えよう。お前が望むなら、私はお前の前に膝を折り、お前のしもべとなろう」

 ジョシュアの顔がパッと輝いた。

「本当に?本当に、従ってくれるの?でも、どうして?」

「従ってほしくないのか?」

「まさか!すごく嬉しいよ。では聖なる竜よ、お前の望むものを教えてくれ。何でもいい。ラサルに頼んでみるから」

 竜はまた鼻で笑った。

「神の獣は人間となぞ取り引きはしない。お前はただ大人しく私が与えるものを受け取るがよい」

 そして竜は思い出したように続けた。「イシュタルの子よ、永遠の命は欲しくはないか?」

「永遠?」

「そうだ。私と永遠に生きる気はないか?私はお前にそれを与えることもできるのだぞ」

「いらないよ」

 ジョシュアは即答した。「僕はラサルとともに生きられればそれでいい。他には何もいらない」

「そうか。欲のないことだ」

 ムシュフッシュは小さく笑うと、ジョシュアの目の前に大きな顔を寄せて来た。「それでは我が主よ、お前のしもべに接吻を授けてはくれぬか?さすれば私は永遠の忠誠を誓おう」

 赤く燃える目と口が近付くと、さすがにジョシュアも恐怖を感じたが、平気な顔をして、その鼻先に口付けた。

 竜は納得したように大きな息を吐いた。ジョシュアの前に体を伏せ、背に乗るように示した。

「イシュタルの子にして我が主よ、それではお前の王が待つ都へ行くとしよう」

「まさか、バビロンを焼き滅ぼすためじゃ…」

「今はせぬ。が、お前が望むなら、いつでも焦土にして見せようぞ」

「そんなこと、望まないよ」

「そうか。では早く乗れ」

 ジョシュアは思い切って黄金色に輝くその背に乗った。

 すぐに竜は飛び立った。大きな翼がはばたくたびに星はぐん、と近付き、あっという間にジョシュアたちはさんざめく星座の中にいた。

 思わずジョシュアは歓声を上げた。

「楽しいか?イシュタルの子よ」

「うん、こんなに雄大な眺めは初めてだ」

「それでは、バビロンに行く前に、お前に天上の世界をしばし見せてやろう」

 竜の声は少し優しくなった。手が届きそうな星々の美しさに、ジョシュアの中で竜への恐怖が少しずつ薄らぎ、代わりに親しみが湧いてきた。

「あの歌、何で知っていたの?」

「歌?」

「門の上で、聞こえたんだ。歌っていたのはお前だろう?」

 竜は笑った。

「ああ、『イシュタルの冥界下り』のことか。あれはもともと、神々の歌だ。今でこそ地上の人の子まで歌ってはいるが。あの歌の本当の意味を、知りもせずにな」

「本当の意味?何かの予言なの?僕はラサルの髪を、あの門でなくしてしまった。もしかしたら、さっき僕らがいた門が、歌に出てくる『最初の門』なの?」

「違うな。バブ・イルは七つ門の最後の門だ」

「どういうこと?」

 竜は答えない。ジョシュアは質問を変えた。

「なぜ、お前はウルクの街を焼いたの?」

「知れたこと。あのような汚れた街など焼き浄めなければならぬ。お前も思ったのではないか?あの腐ったバビロンを焼き尽くしてやりたいと。同じようなものだ」

 今度はジョシュアが答えなかった。竜は笑った。

「私はすべてを知っている。お前と私は、同志なのだ」



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