古代の獣 第七章
青白い月が、煌々と砂漠の街道を照らしていた。
竜の捕獲を命ぜられたジョシュアたちは、テペの言葉に従い、我先に西へと馬を走らせていた。
だが、出発してほんの半刻ほどで、ジョシュアは異変に気付いた。
(馬の様子がおかしい)
右の後ろ脚を引き摺っているようだ。それだけではない。息も異様に荒い。
ジョシュアは馬を止めると、鞍から飛び降り、月明かりで脚の様子を見た。そして愕然とした。
千里を駆ける名馬「砂嵐」を用意する、とラサルは約束した。だが、馬に掛けられていた壮麗な布と黄金に輝く鞍を除けると、そこにあったのは年老いた貧弱な馬の脚だ。蹄鉄も取れかけ、右の後ろ脚は炎症を起こしているのか、腫れあがっている。
これが、名馬のはずがない。屠殺間近の廃馬だ。
(でも、ラサルは…)
呆然と馬を見詰めるジョシュアの脇を、竜を捕らえるべく送り出された男たちが蹄の音も軽やかに通り過ぎていく。
「こりゃ、大した名馬だな!」
男たちはジョシュアの頭上に笑い声を浴びせた。
「イシュタルの子とやら、もう降参か?」
「これで竜は俺のもんだ!気の毒なおネエちゃん、帰る場所がないなら、俺の寝床でもいいぞ」
ジョシュアは何の言葉も返さなかった。彼らを見てもいなかった。頭の中は、混乱したままだった。
(ラサルが僕を騙したのか?こんな馬では、砂漠すら越えられない)
(いや、ラサルが僕に嘘をつくなんて、そんなこと、ありえない)
男たちの影が月明かりの果てに見えなくなったころ、ジョシュアはとりあえず水を飲もうと考えた。喉がカラカラに乾いていた。
(少し頭を冷やそう。何かの手違いだったんだ)
鞍に結わえた水袋に手をかけた瞬間、ジョシュアは「あ」と小さく叫んだ。
水袋に穴が開いていた。水はすべて、砂に消えていた。
(もしかしたら、食べ物も…!)
ジョシュアは急いで、テペが用意したと言っていた「十分な糧食」という荷物をほどいた。
「…あの、クソジジイ!」
袋の中にはパンの代わりに、ぼろ布が詰まっていた。ジョシュアはそれを思い切り放り投げた。
だが、おかげでジョシュアの頭はハッキリとした。馬のみならず、命綱の糧食までも与えないのならば、それはもはや手違いではない。作為だ。
(テペの仕業だ。あいつは僕が邪魔なんだ。僕を野垂れ死にさせるつもりなんだ)
「馬鹿にするな!」
ジョシュアは、天に向かって叫んだ。だが、月が無表情に輝くだけで、何の応えもない。助けもない。
(水もない、食べ物も、馬もない。僕は…死ぬのか?)
ジョシュアは空を見上げた。月に寄り添っていた、イシュタルの化身たる宵の明星は、もう分からない。イシュタルの子と言われた、自分もまた消えるのだろうか。砂漠の果てで屍を曝し、砂粒になっていくのが運命なのだろうか。それが、神が定めた道ならば、受け入れるしかないのだろうか。ちっぽけで無力な存在として。
だが、ジョシュアの胸に怒りがフツフツと沸いてきた。なぜ、そんな運命を甘んじて引き受けなければならない?
「…僕は、ラサルの元に行くんだ」
ジョシュアは声に出して言った。「ラサルのそばに行くんだ。ラサルは僕が助けるんだ。誰にも邪魔させない」
ジョシュアは前を見ると、馬の手綱を引いて歩き始めた。いくら廃馬とはいえ、このまま見捨ててはおけない。豪華なだけの黄金の鞍は捨て、荷物を軽くしてやった。
老いた馬は嬉しそうにいななくと、大人しくジョシュアについて来た。
イシュタル門を出てから丸一日が過ぎた。
ジョシュアは馬とともに歩み続けていた。けれど、ムシュフッシュらしい影すらついぞ現れなかった。
喉はカラカラに枯れ、目が回ってきた。
「…竜なんて、本当にいるのか?」
思わず声に出して呟いたその時、砂漠を渡る乾いた風に混じって、何か焦げたような匂いが漂ってきた。
ジョシュアが匂いの方向に顔を向けると、砂丘の果てから煙がたなびいていた。
不審に思い、ジョシュアは街道を離れ、煙の方へと向かった。
砂丘を越えると、そこには黒焦げの林があった。
ジョシュアはまじまじとその林を見、そして悲鳴を上げた。
そこにあるのは、林ではなかった。立ったまま焦げた大勢の人間だった。ひっくり返って真っ黒になった無数の馬の脚もある。辺り一面が地獄の業火で焼かれたようだ。まだ炎もくすぶっている。髪や肉が焦げる、醜悪な匂いが風とともにジョシュアを襲う。
ジョシュアは思わず口に手を当てた。胃から苦いものが込み上げてくる。だが、吐けるものは何もなかった。
ジョシュアは大きく息を吐くと、恐怖で早くなる呼吸を何とか抑え、ゆっくりと黒焦げの林に近付いていった。
死体は百体を超えそうだ。中には見覚えのある鎧や剣があった。間違いなく、竜を捕らえるために駆り出され、先日ジョシュアを嘲りながら先を行った者たちだろう。誰もが、叫んだ形のまま炭のようになっている。一瞬にして焼かれたに違いない。
これほどの炎の力を、ジョシュアは見たことがなかった。人の手によって出来るものではない。
その時、一瞬暗闇が訪れた。いや、それは影だった。鳥を何百倍にもしたような、巨大な空を行く獣の。
「ムシュフッシュ…!」
見上げた時には、もう既に古代の竜は遥か彼方に去っていった。
これは、ムシュフッシュの所業だ。これこそが、古代の獣の恐るべき力なのだ。そう、ジョシュアは悟った。
これほどの力を持つ獣を捕らえることなど、人間にできるのだろうか。冷たい恐怖が押し寄せ、ジョシュアは大きく身震いした。
けれど、ジョシュアの瞳の炎は消えなかった。
「それでも、竜を捕まえるんだ」
ジョシュアは一つ唾を飲み込むと、覚悟を決めたように周囲を見渡し、黒焦げの林の中を歩き始めた。
死体の下から延焼を免れた荷物を辛うじて一つ、見付け出した。そこからパンと水を取り出すと、周囲の悪臭をものともせず、口の中に放り込んだ。少量の水を手に注ぎ、老いた馬に舐めさせた。
「行くぞ、馬。ムシュフッシュは近くにいるはずだ」
馬はジョシュアを慰めるように、小さな声でいなないた。
こうしてジョシュアはさらに歩き続けた。街道から離れ、砂漠の中を。
死者から奪ったパンと水は、二日で無くなった。
そしてイシュタル門を出て四日目の朝、老いた馬は倒れ、二度と起き上がらなかった。
「ごめん、馬」
ジョシュアは旅の相棒の体に剣を突き刺すと、流れる血を啜り、その肉を生のまま猛獣のように食らった。
満腹になると、血にまみれた顔と手足のまま、再び歩き始めた。
「竜を捕らえるんだ」
ジョシュアはブツブツと呟いた。「竜を捕らえて、ラサルの元に行くんだ」
その思いだけに突き動かされ、ジョシュアは狂人のように歩き続けた。
砂漠の灼熱も、引き裂くような乾いた風も恐れなかった。
何日も熱い砂の山を歩いた。喉が渇き過ぎて、口の中も胸の奥も剣で裂かれたように痛んだが、それでも歩き続けた。
イシュタル門を出て六日目。
ジョシュアの目がだんだんと霞んできた。幻の川が眼前に現れては消えた。やがて見えたのは、青いイシュタル門、腐臭に満ちたバビロンの街角、血にまみれた娼館、薄ら笑いを浮かべて自分を見下す兵士たち、鋭い老神官の目、そして、ラサルの神々しい姿-。
ドサリ、とジョシュアは朽ち木のように砂の上に倒れた。目を閉じると、ラサルと過ごした枯れた谷の、日干し煉瓦の小さな家が見えた。一面にカミツレ草が咲いている。美しい長い黒髪が目の前で揺れる。あの懐かしい歌声がする…。
「…ラサル」
砂にまみれたジョシュアの唇が、小さく囁く。
幻が再びやってくる。ラサルは大きな手の平で水をすくうと、まるでジョシュアが老いた馬にしてやったようにジョシュアの口元に捧げた。水だ。甘露のような水。ラサルの手の中の冷たく甘い水が、喉に染み込んでいく。
ジョシュアは自分の腹に触った。そこには編んだラサルの髪がベルトのように巻かれている。かつて自分の命を助けてくれたラサルの髪。何度もジョシュアはその髪をまさぐった。そこには、まだラサルの体温と匂いと、そして不思議な力が宿っているように感じた。
「…ラサルの元に…」
ジョシュアの目が再び見開かれる。燃え立つ緑の炎。ジョシュアはよろよろと立ち上がると、再び砂漠を歩き始めた。
日があるうちは太陽を避けるように砂丘の影で布を被って仮眠を取り、夜になれば星と月の明かりを頼りに歩き続けた。
そして七日目の午後。
ジョシュアは布にくるまってまどろんでいた。日陰にいても、暑さが少しずつ体を蝕んでいく。もはや流れる汗もなかった。
夢とも、うつつともつかぬ中で、蜃気楼が見えた。それはゆらゆらと揺れ、やがてラサルの形になった。幻のラサルが手招く。
(今、行くから、ラサル。僕は行くから)
「ジョシュア、ここはお前の来る場所ではないよ。早くお帰り。お前のいる場所へ」
幻のラサルが諭すように言う。
(ラサル、だからなの?だから僕には馬を、食べ物を、水を与えなかったの?あれは、ラサルのせいだったの?ラサルは嘘をついたの?本当は、ラサルは僕が邪魔だったの?)
ラサルの幻は答えない。
(違うよね?ラサルは僕のこと、本当に大切にしてくれていた。そうだよね?ラサルは僕のものなんだよね?そう誓ったよね?)
ジョシュアの目が、しばたく。だが、涙ももう出ない。
やがてラサルの蜃気楼も消え去り、目の前には砂漠だけが続く地平線が見えた。
(…夢か)
目が覚めたジョシュアは、体を横たえたまま何度か瞬きをした。
(もう、駄目かもしれないな…)
その時、地平線の彼方に小さな砂塵が起きた。
夢の名残が消えぬまま、ジョシュアはぼんやりと見ていた。が、やがてそれは砂の竜巻となってジョシュアに近付いてきた。
逃げる暇も叫ぶ時間も与えず、竜巻は彼を飲み込み、宙へと放り上げた。天上まで飛ばした後、冥界へと突き落とすような渦を巻く暴風。
だが、竜巻は来た時と同じように突然消え失せた。すべてが一瞬真空となり、次の瞬間には、ジョシュアは砂の上に叩き落とされていた。
気を失ったジョシュアが再び目覚めた時、その目の前に巨大な門が現れていた。
「そんな馬鹿な…」
ジョシュアは呟いた。竜巻に飲まれるまでは、周囲は砂漠しかなかった。建造物はおろかオアシスすらどこにもなかったはずだ。
だが、今、目の前にはイシュタル門よりもさらに大きな、天空を突くように聳え立つ、真っ黒で頑丈な石の門があった。遥か高みに備えられた楼閣には、巨大な黄金の像が見える。
いや、像ではなかった。
「…ムシュフッシュ…」
ジョシュアは目を細め、そして呻いた。
それは巨大な鳥にも似た、竜の姿だった。全身は太陽のごとき壮麗な黄金。蛇の頭に獅子に似た屈強な前足と尾、後ろ足には鷲そのものの鋭い爪が備わっていた。
赤く燃える瞳が、ひた、とジョシュアを見据えている。
竜はゆっくりと羽を広げた。蝙蝠に似た巨大な翼の裏側は、闇よりもなお深い黒。そしてカッと大きな口を開けた。血のように真っ赤な口腔が、地上のジョシュアからも見てとれた。
あの口から灼熱の炎を噴き、生けるものすべてを炭の柱に変えたのだ-。そう考えると、ジョシュアの足元から恐怖がひたひたと忍び寄って来た。今、手の中には何の武器もなければ、身を守る物もない。あったとしても、何の役に立とうか。
竜はジョシュアを見詰めたまま動かない。ジョシュアもまた、竜を睨み付けるしか、手立てはなかった。




