古代の獣 第六章
ジョシュアは怒りとともに街中を歩き続けた。
何という腐り果てた都、バビロン。
ジョシュアを騙して娼館に売り飛ばし、ラサルの指輪を奪った宿屋の主人は、既に逃げていた。宿屋の者を剣で脅し、行き先を聞いたが、将軍の手先らしい兵士たちが駆けつけ、結局ジョシュアは剣を捨て、逃げるしかなかった。
ジョシュアの手元に残ったのは、ラサルの髪のみ。路銀すら無かった。
ジョシュアは店先からパンや果物を盗み、残飯をあさり、何とか命を繋いだ。
物乞いたちとともに道の端で浅い眠りをむさぼる以外はただ、昼も夜も、ぐるぐると都を歩き続けた。そうしなければ、体中の毛穴から怒りが炎となって吹き出しそうだった。
(僕が何をした?ラサルの側にいたいと思っただけじゃないか?なぜ、僕がそんなに蔑まれなくちゃいけない?踏みつけられなきゃいけない?)
怒りに飲み込まれないよう、ジョシュアは考え続けた。
どうしたら、ラサルに会えるのか。
だが、いくら考えても、ジョシュアには何も思いつかなかった。
王宮の門の前で待とうと思ったが、将軍の手先たちがいるかもしれないと思うと、しばらくは近づけなかった。
だから、ただ都の中を歩き続けた。天啓が訪れるのを信じて。
吉報は気まぐれにやって来た。
「新しい王様が、竜を捕らえる勇者を募っているぞ!」
行列通りを歩いていたジョシュアの耳に、そんな声が飛び込んできた。
王宮の使者らしき男が慇懃無礼に現れると、その周囲に人だかりができる。
「皆の者!」
使者はよく通る声で呼びかける。「シャルマラサル王はウルクの街を焼いた古代の竜ムシュフッシュについて、大層心を痛めておられる。ついては、この竜を捕らえる勇気がある者はいないか?」
「竜なんて、本当にいるのか?」
「勿論だ」
使者は言う。「恐ろしい竜だ。だが、捕らえた者には望むものを何でも与えてくださるそうだ!」
「望むものって…、何でも?」
ジョシュアがおずおずと聞いた。
「勿論だ!」
使者は景気良く煽り立てる。「巨万の富でも、美しき宮女でも、将軍の地位でも!さあ、皆の者、これから王宮で説明がある。我こそは、という腕自慢の者たちは皆、集まるがよい!」
(竜を捕らえたら、ラサルの側にいられるかもしれない)
ジョシュアは頬を紅潮させると、その足で神殿へと向かった。
ジョシュアが着くころには、王宮の前には既に多くの一攫千金を狙う男たちが集まっていた。百人は超えるだろう。
巨体の腕自慢たちの中で、ジョシュアは一際若く、頼りなげに細かった。長い路上生活で汚れてはいたが、それでも端正な顔立ちと緑の瞳は隠しようもなく、何人かが口笛を吹いて、ジョシュアの腰に手を伸ばす。が、ジョシュアが冷たい瞳でひと睨みすると、彼らは威圧され、気まずそうに手を引いた。
太陽が西に傾き始めたころ、王宮の入り口に設けられた高い舞台に、長い白髭と禿げた頭の老神官が現れた。
(あいつだ。テペだ)
ジョシュアは苦々しげに眉を寄せ、腕を組んだ。
テペは一つ咳払いをすると、周囲に響く朗々とした声を放った。
「よく来てくれた、勇者たちよ」
歓声に、テペは仰々しく応える。「皆も知っておるように、伝説の竜ムシュフッシュが蘇り、ウルクの街を焼き払った。シャルマラサル王はこのバビロンは大丈夫だろうかと、ひどく憂慮されておられる。ついては勇者たちよ、竜を捕らえ、王の元へ連れて来てもらいたい。もともとムシュフッシュはバビロンの守り神マルドゥク神に仕える聖なる獣。今は狂っておるのだろうが、マルドゥク神の生まれ変わりであるシャルマラサル王の前に来たならば、必ずや真の使命に目覚め、我らを守ってくれるであろう」
「生きて連れてくるのか?」
集まった中の一人が叫ぶと、テペは頷いた。
「そのようにしてもらいたい」
「竜は空を飛び、火を噴くと聞く。身を守る盾や神の呪文はないのか?」
別の男の問いに、今度はテペは首を振った。
「そのようなものはない。それぞれが知力、体力を尽くして竜に挑んでもらいたい」
男たちがざわめく。
「徒手空拳で竜に挑めってのか?」
「おい、神殿も王も、力を貸す気はないのか?それでは、死にに行けって言うようなものだ!」
そうだ、そうだ、という声が沸く。
「静粛に!」
テペが咳払いとともに叫んだ。「シャルマラサル王のお出ましにあられるぞ!」
ジョシュアの体がビクリと震えた。
暮れなずむ空を背に、堂々としたラサルの長身が浮かび上がる。キッと前を見た黒い瞳が凛として輝く。
「シャルマラサル王だ!」
男たちが声を上げた。
「偉大なるシャルマラサル王、万歳!」
「ラサル!」
ジョシュアも叫んだが、歓声にかき消され、ラサルは気付かない。
「ここに集いし勇者たちよ」
朗々としたラサルの声が響く。
ジョシュアは思わず両手を組んだ。夢にまで見たラサルの姿、ラサルの声だった。懐かしさと愛しさで、涙が溢れてきた。
ラサルは続ける。
「諸君にムシュフッシュを捕らえることを申し付ける。恐ろしく、そして危険な任務だ。だからこそ、諸君らの偉大なる勇気に私は最大の敬意を捧げよう。諸君らに、このバビロンの命運はかかっているのだ。そして、無事古代の獣を従えた者には、このシャルマラサルの名において、望むものすべてを、地上の最高の栄誉を与えることを約束する」
ウワアッと歓声が起きた。先ほどまで不平を述べていた男たちまでもが、熱狂でうるんだ眼差しでラサルを見詰める。テペと同じことを言ってはいても、ラサルの姿は、その言葉は人の心を打つ何かがあったのだ。
ラサルが満足そうに周囲を見渡していたその時、彼の目は正面にいたジョシュアを捉えた。
ラサルの表情が凍りつく。が、ジョシュアはラサルと目が合うと、喜びを溢れさせ、無邪気に笑い、大きく手を振った。
(…ジョシュア、なぜ、お前がここに…?)
「王、いかがなされましたか?」
異変に気付いたテペは、素早く王の視線の先を見、そこにジョシュアの姿を見て取った。
「あれは、もしや、あの谷の…」
テペは苦々しげに呟く。小さな黒目がさらに小さくなる。が、すぐに表情を隠し、男たちの方に向き直り、わざとらしい歓喜の表情をつくって再び叫んだ。
「皆の者!見上げよ!今、戦いの女神イシュタルの化身、宵の明星が上がった!」
その声に、民衆はざわめき、空を見上げた。確かに金色を帯びた明星が、月の側で輝き始めていた。テペは続ける。
「たった今、神託があった!皆の中に、イシュタルに祝福されし者がいる!」
テペは一瞬、ジョシュアに向けて、矢のように鋭い、悪意に満ちた視線を送った。「イシュタルのおめがねに適いし者は、そこにいる麦穂の色の髪の若者ぞ!」
「テペ!」
ラサルが蒼白になって叫ぶが、老神官は若い王をひと睨みで制した。
「神託である!行ってくれるな?イシュタルの子よ!」
テペはジョシュアに向かって手を差し出した。
ジョシュアは怯まなかった。逆にテペをキッと見据え、顎をくいっと上げると、堂々と舞台に近付き、その下で跪いた。
「ありがたき幸せに存じます。このジョシュア、必ずやムシュフッシュを捕らえてご覧に入れましょう」
テペも負けじとジョシュアを睨み返す。
「イシュタルに祝福されし者よ、さあ、ムシュフッシュの元へと急ぐが良い。その代わり、そなたは竜を捕らえずには二度とイシュタル門をくぐってはならぬぞ。誇り高きイシュタル神を辱めることになる!」
「テペ、何を申すのだ!」
ラサルがテペを制止しようとした。だが、ジョシュアは毅然として言った。
「望むところにございます」
真っ直ぐな、勝気な瞳でテペを見据える。「このジョシュア、手ぶらで戻る気など、毛頭ございませぬ」
「頼もしい!」
テペはフフンと鼻で笑うように言った。「ではジョシュアとやら、早速先陣を切って行くが良い。馬はイシュタル門の前に用意させよう。ムシュフッシュは西の方角に去ったと言うぞ!さあ、今すぐに!」
「ま、待て」
ラサルが上ずった声で口を挟んだ。「…イシュタルの子に、王からも祝福を授けよう」
ラサルは紫色の長い衣を抱えると、ひらりと舞台から飛び降りた。
「シャルマラサル王!何をなさる!」
テペが慌てて叫ぶ。王が民草と同じ高さに立つとは、ありえぬこと。だが、ざわめく男たちを無視して、ラサルは跪くジョシュアの目の前に立った。
「勇気ある若者よ、そなたに、私の馬『砂嵐』を授けよう。千里を駆ける、強く速い名馬だ。マルドゥクとイシュタルの恵みがそなたにあらんことを」
ラサルは腰を屈め、ジョシュアの額に口付けた。そして、誰にも聞こえぬよう小声でジョシュアに囁いた。
「ジョシュア、そのまま逃げろ。竜も、テペも危険なのだ。どこか遠い場所へ逃げろ」
「僕、ラサルに返さなきゃいけないものがあるんだ」
「捨ておけ。私がお前に与えたものは、未来永劫お前のものだ」
「でも、ラサル、僕は欲しいものがあるんだ。竜と引き換えにしても」
「欲しいもの?」
「王!」
ジョシュアは、きっと顔を上げると、朗々とした声を張り上げた。「私は貴方のために竜を捕らえます!首尾よく成し遂げた暁には、私の望むものを、どうぞお与えくださいませ!」
「ジョシュア…」
「ラサル…いえ、シャルマラサル王、私は必ず帰って参ります。貴方の元へ」
ジョシュアの緑の目が、天上の宵の明星のようにきらきらと輝く。決意と覚悟を滲ませて。
(竜を連れて来たら、貴方の側にいられる地位をください)
ジョシュアの胸の思いを感じたのか、ラサルは静かに目を閉じた。
「…『砂嵐』は賢い馬だ。お前を窮地から救ってくれることもあろう」
ラサルは息を吸い込むと、諦めたように、ポンとジョシュアの頭を叩いた。そして、民衆たちに呼びかけた。
「ここに集いし、勇者たちよ!武運を祈る!皆それぞれに、駿馬と十分な兵糧を用意した。頼むぞ!バビロンに栄光あれ!」
「栄光あれ!」
男たちの歓呼が続き、彼らは一斉にイシュタル門から放たれた。
「テペ!どういうことだ!」
ラサルの怒声が王宮に響いた。
「シャルマラサル王、王たる者、いついかなる時も、そのように声を荒げてはなりませぬ」
「はぐらかすな!なぜ『砂嵐』がまだ厩舎におるのだ!ジョシュアに授けたのではなかったのか?」
「『砂嵐』はシャルマラサル王出陣の重責を担う名馬。なぜ奴隷が跨ることができましょう」
「約束が違う!」
「さあ、私には何のことか、さっぱり。ですが、ご安心を。奴隷には奴隷にふさわしい馬を授けましてございます」
「…その馬で、無事戻ってくることは可能なのか?」
「まあ、運次第でしょうな」
「何だと!」
ラサルは怒りで顔を紅潮させ、テペの胸ぐらを掴んだ。「お前は、まさかジョシュアを葬るために…」
だが、テペは微塵も動じない。
「シャルマラサル王、神の子たる王に弱みなどあってはなりませぬ」
「弱み?」
「左様。賢く分別ある貴方様の唯一の弱みが、あの若者です。違いますか?あの若者のために、貴方様は動揺し、迷う。それでは、ならぬのです。王はそうであってはならぬのです」
ラサルは老神官を突き飛ばすと、再び厩舎へ向かおうとした。
「どこへ行かれます?」
「決まっておる!ジョシュアを助けに行く!」
「なりませぬぞ、シャルマラサル王」
テペが冷たい声で呼び止める。「王がこのバビロンを空けることなど、決してあってはなりませぬ!王の不在を知るや、メディアをはじめ周辺の国は一斉に攻め込みましょう。それでもよろしいか!」
ラサルの足が止まった。テペは続ける。
「貴方様は、今や貴方様お一人のものではありませぬ。バビロンの民たちのものなのですぞ」
ラサルの肩が小刻みに震えた。
「お分かりでしょうな」
「…分かっておる」
搾り出すように言うと、ラサルは無言で自室へと向かった。
(すまぬ、ジョシュア。私にできることはお前のために祈ることだけなのだ)




