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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
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騎士の砦 第十八章

 「ララ、どうして…」

 トグルルは、その言葉を呪文のように繰り返した。けれど、二度とララは答えない。その瞼は二度と開かない。

 トグルルはじっとララの傍らで夜を過ごした。

 朝の光が差しても、やはりララは動かない。分かっていたことなのに、深い溜め息をついた。

 トグルルはついに思い切った。ララの体を流れる水で丁寧に浄めると、布に包んで洞窟の側に掘った穴に横たえた。その上から、そっと土をかけた。ララが苦しくないようにそっと、そっと。

 ララを埋めたすぐ傍らにはカミツレ草の花が一輪、咲いていた。

 少しは、ララの寂しさが紛れるだろうか。

 トグルルは、その花に優しく触れた。途端に、甘い匂いが鼻を掠める。あの、地下牢でファビアンがくれた茶の匂いに似ていた。

 無性にファビアンに会いたくなった。

「ファビアン、俺は分からない…。どうして、ララが…」

 ファビアンに聞けば、何か答えが分かるような気がした。

(そうだ、ファビアンに伝えなければ。もう「山の老人」はいないのだ、と。「鷹の爪」も、もう散り散りになったと)

 トグルルは思った。もう「鷹の爪」が存在しないと告げたなら、十字軍の連中も憎しみを洗い流すかもしれない。もしかしたら異教徒の中にも、気持ちが通じ合える人がいるかもしれない。ファビアンがそうだったように。

(ファビアンに聞けば、何か分かるはずだ。でも、ファビアンはどこにいる?)

 自分を逃すために、ファビアンは仲間を裏切った。

(彼も逃げると言っていた。でも、どこへ?この場所は知らないはずだ)

 トグルルは、再び来た道を戻った。

 街道沿いは、少しずつ地震の被害から落ち着きを取り戻しつつあったが、ファビアンらしき人物は見かけなかった。北から来たことが一目瞭然の彼の容姿なら、否が応でも目立つはずなのだが。

 トグルルは確信した。

(ファビアンは、逃げてはいない。そのまま囚われているんだ)

 彼は再び、「騎士の砦」に向かった。


 トグルルが「騎士の砦」に現れたのは、白昼だった。それも正門の前に、正々堂々と歩み寄った。

 地震でかなり崩れた石の正門前で誰何する門番の従士に、彼は流暢なフランス語で呼びかけた。

「我はトグルルと申す戦士。修道騎士ファビアン殿に用あって参上した。至急、取り次がれたし」

「…トグルルだと?」

 地位の低い門番たちでさえ、その名を知っていた。かつて彼らを恐怖のどん底に陥れ、逃げ去ったはずの刺客の登場だ。二人の門番は顔を見合わせ、慌てふためいた。一人は砦の中へと駆け込み、もう一人はへっぴり腰で槍をトグルルに向ける。

「…う、動くな!それ以上近付くと…!」

 トグルルは平然と彼らを無視し、腕組みをして仁王立ちしている。ただそれだけなのに、その威圧感に従士たちは震えることしかできない。

 やがて、砦の中から身分の高そうな豪勢な装いの修道騎士を先頭に、数十人の騎士や従士たちが現れた。先頭にいた修道騎士に、トグルルは見覚えがあった。身動きできなかったトグルルの髪を、無慈悲に剃り上げた男に違いない。

 その修道騎士は、今や恐怖と屈辱に顔を紫にしながら言う。

「…お、お前は、確かに、あの獣…!再び現れるとは、どういう了見だ」

「そう、確かにお前は見知った顔だ。卑怯なる修道騎士殿よ。だが、お前には用はない。私はファビアンに取り次げ、と言ったのだ」

「な、何の用だ」

 修道騎士は唇を震わせながら問う。その背後では数十人の剣がこちらを向いている。

 トグルルは小さく舌打ちした。まずファビアンに告げたかったが、このままでは埒が明かない。仕方が無い。

「『山の老人』について説明に来た。もはや『鷹の爪』は存在しない、と」

「な、何だと?『鷹の爪』が存在しないだと?そんな、たわごとを…」

「お前が信じずとも良い。仔細を、ファビアンに伝えたい」

「そ、それならば、私に言うが良い。わ、私の方が、み、身分も地位も上だ」

「聞こえなかったか?俺はファビアンを呼んでいるのだ」

「か、管区長代理を呼ぼう!フィリップ管区長代理殿ならば、良いであろう?な?」

「俺は、ファビアンと言っている」

「管区長代理、だぞ」

 トグルルは眉を寄せた。何かがおかしい。ファビアンを出さないのは仕方ないとして、なぜその代わりに管区長代理ほどの地位の者を来させようとするのだ?自分を恐れているにせよ、この修道騎士の落ち着かない様子はあまりに妙だ。

 トグルルは、その修道騎士の視線が、何度もあらぬ方向を見ているのに気付いた。それは妙な見方だった。隠したいものがそこにあるのに、ついちらちらと目が行ってしまうような…。

(何かがあるのか?)

 トグルルは何気なく、修道騎士の視線の方向に目をやった。

 そこには「鉄の門」があった。敵の襲来に備えた、武装された黒い大きな門。そこは門であると同時に、攻撃の拠点だ。かつては、その高楼から敵の捕虜の首を投げ下ろしたり、高楼上で敵から見えるように捕虜を火あぶりにしたりしていた、とトグルルも聞いたことがあった。地震で一部は崩れているが、高楼部分は無事だ。

 トグルルの目が、その鉄の門の高楼でピタリと止まり、大きく見開かれた。

 高楼に、火あぶりの跡が見えた。

 それも、昔のものではない。つい最近、いや、今しがたのものだ。燻った煙が見える。

 真っ黒に燃えた柱に、人間の形をした残骸が括り付けられている。男か女か、年寄りか若者か、何も分からない。ただ、真っ黒な焼け焦げた頭が垂れているのが見える。

 チラチラ、と何かが光った。

 焼け焦げた頭の耳がある場所あたりで、何かが揺れているのだ。太陽の光を浴びて、それは鈍く輝いている。距離はあったが、トグルルの目はそれを見逃さなかった。

 それは、持ち主の悲運も知らずに、砂漠から来る風にゆらゆらと揺れている。黒ずんではいるが、三日月の形が、はっきりと見えた。

「…あれは、誰だ?」

 トグルルは押し殺した声で言った。修道騎士は、心臓を握られたように震えだした。

「…あ、あれは、く、黒い羊だ!」

「羊には見えぬ」

「ひ、羊だ!か、神の教えに背いた、地獄に堕ちた、羊だ!」

「…ファビアン、だな」

 ひい、と修道騎士が悲鳴を上げた。

「し、仕方が無かったのだ!か、か、か、管区長代理の命令だ!奴は、ファビアンは、お前と通じ、我々を騙し、仲間を裏切り…、兄弟ジャンまで死に追いやったのだから!か、神がお許しになるはずがない、と…」

「だからと言って、お前たちは仲間をあのように、むごたらしく殺すのか?」

「や、奴だって、ファビアンだって、分かっていたはずだ!お前を逃がしたら、どうなるか!」

 トグルルは愕然とした。焼け焦げ、高楼に曝された遺体は、本当にファビアンだったのだ。

 赤い巻き毛も、憂いを秘めた影を落とす睫も、すべて燃え尽きているというのか。

(覚悟していた?そうなのか?なぜだ、ファビアン、なぜ、お前は?そんなにしてまで、俺を助けたのだ?)

 ファビアンだった遺体の頭上に、次々と真っ黒な烏が集まってくる。

(こんな残酷な死を、お前はなぜ受け入れた?なぜ?…何も分かっていなかったのは、俺だけなのか?)

 放心状態となったトグルルを見て、修道騎士は剣を抜き、その首を落とそうとした。

 だが次の瞬間、地面に倒れたのは修道騎士の方だった。トグルルは条件反射のように動いた。目にも止まらぬ速さで修道騎士の剣をかわすと、その手に手刀を食らわせて骨を砕いた。修道騎士が悲鳴を上げている間に落とした剣を素早く拾い、返す剣で騎士の首を刎ねた。

 修道騎士の頭は血しぶきを上げながら放物線を描き、地面へと転がった。血を吸った剣が太陽を浴びて鈍く光る。

 トグルルは獣のごとき叫び声を上げると、目の前にいたもう一人の修道騎士に向かって剣を振り下ろした。稲光のような一閃に、彼は逃げる間もなく真っ二つになった。トグルルは従士たちに驚く暇も与えず、剣で彼ら二人分の胴をなぎ払う。

 十字軍を恐れさせた、『鷹の爪』が真の姿を見せたのだ。

 騎士の砦にいた修道騎士たちは反撃の暇もなく、トグルルの剣の前に次々と倒れた。砦から出てきた騎士たちが、次々と遠くから矢を射るが、そのような腰が引けた攻撃は、トグルルの剣の一振りで払われてしまう。

 トグルルただ一人のために、「騎士の砦」は大混乱になった。トグルルが剣を振り回すたびに血しぶきが飛び、骨が砕ける音が響いた。

 足が十分に動かないトグルルだったが、しなやかな体の動きは微塵の衰えもない。トグルルの怒りに気圧され、騎士たちもなかなか手を出せない。トグルルは彼らをひと睨みするや砦内に入った。そしてファビアンを処刑したという管区長代理のフィリップを探し回った。階段をゆっくりと上がり、奥まった部屋を片っ端から開けていく。


 そのころ、フィリップは抗いがたい睡魔に襲われ、執務室の机の上で突っ伏して寝入っていた。

 裏切り者のファビアンは拷問を加えた末、今朝、火あぶりにした。

 処刑前、ファビアンに尋ねた。なぜ、このような愚行を、と。

 彼は静かに言った。私も分かりません、と。ただ、そうしたかった、それだけなのです。罪と分かっていても、神への冒涜と分かっていても、私はあの男に生きていてほしかった、と。

 汚らわしい情欲のためにか、と問うと、穏やかに笑った。いいえ、ただ…、ただ、いとしいだけなのです。それを罪というのならば、私は罪人であることを喜んで受け入れましょう、と。

 ファビアンは、かつてトグルルがしていた耳飾りをしていた。情を通じた証拠だ。

 修道騎士として恥ずかしくないのか、今すぐ捨てるが良いと言うと、ファビアンは首を横に振った。もう私は修道騎士ではありません、このままでいさせてください、と。

 そうしてファビアンは、耳飾り以外は何一つ抵抗もせず、聖母のような笑みさえも浮かべたまま、運命を受け入れた。足元の薪に火がくべられても、穏やかな顔のまま。

 炎の中で、ファビアンは歌を歌っていた。もはや神への祈りを口にする資格もない、と考えたのだろう。

 …最初の門で失うは 王の冠なりにけり

 …第二の門で奪われし 太陽と月の耳飾り

 あの歌だ!あの少年が歌っていた、あの歌!

 フィリップはファビアンに聞こうとした。少年について、何か知らぬのか、と。だが、もう炎はファビアンをすっかり呑み込み、誰の声も届かなかった。

 フィリップは愕然として自分の執務室に戻った。緊張が緩んだためか、椅子に座ると抗いがたい眠気に襲われたのだった。

 夢の中でフィリップは、あの緑の瞳の少年を見た。だが、彼は悲しげな顔で彼方を見ている。そこには、黒光りする竜がいた。竜の真っ赤な目がこちらを見ている。

 竜は突然、地面が揺らぐほどの轟音で笑い出した。

(でかしたぞ、フィリップ。これでわらわは第二の門で奪われた宝を取り戻すことができた)

 どういうことだ?

(耳飾りだ。太陽と月の。そなたは、それを聖なる火にくべ、わらわに捧げてくれたではないか)

 何のことだ?

(とぼけずとも良い。ファビアンのしていた月の耳飾りよ。わらわが欲するのは、至上の愛が込められた宝のみ。それこそがわらわを飾るにふさわしい)

 ああ、ファビアンの耳飾りか。あのようなものを身につけるとは。修道騎士の分際で…

(太陽の耳飾りは、とうの昔にいただいておるからな)

 太陽の耳飾り?そんなものは知らぬ。

(あの、ギイとかいう男の耳だ。太陽のような痣がある耳を、お前は炎にくべたではないか。よくぞわらわに捧げてくれたものよ)

 だが、フィリップには竜が何を言っているかよく分からなかった。彼はとうの昔に忘れていた。管区長の身代わりとして捕らえられ、見捨てられ、命を落としたファビアンの従士のことなど。戻ってきた彼の頭部を、内密に焼いたことなど。罪の呵責すら持っていなかったのだから。

 竜は地面を揺らすような高笑いをした。

(これでもう、お前の用は済んだ)

 どういうことだ?

(お前は、もう用無しだ、ということだよ)

 何を言っているんだ!竜よ、よく分からぬが、私に礼を言うのなら、あの、あの少年に会わせてくれ!ジョシュアという、あの少年に…!

(お前には、会えまいよ)

 竜が残忍な声で笑った。


 フィリップが目覚めるのと同時に、目の前の扉が勢いよく開いた。

 そこに立っていたのは、全身返り血で染まった鬼神。トグルルだった。

「お前が…ファビアンを殺したんだな…」

「だ、誰か…!で、出あえ!」

「殺したんだな!」

「…そうさせたのは、お前じゃないか、トグルル」

「お前が、ファビアンを、殺したんだな!」

 トグルルはその言葉を繰り返しながら、獣のように突進する。あっという間にフィリップの目の前に来た。

 荒い息とともにトグルルが血塗られた剣を振り下ろそうとした時、フィリップは反射的に頭を手で覆った。その左手の指には、あの緑の石が嵌められていた。ララの手にあった、すべての元凶の緑の石。

 一瞬、トグルルは躊躇った。

「今だ!」

 トグルルの背後から追ってきた修道騎士が叫んだ。と同時に、トグルルの背に無数の槍が突き刺さった。数え切れないほどの槍の先が彼の胸まで貫く。噴き出した血が緑の石に降りかかり、石は真っ赤に染まった。

「この獣めが!」

 槍で串刺しになったトグルルの体目指して、騎士たちの剣が次々と振り下ろされていく。そのたびに、鮮血が緑の石を覆う。

「…ファビア…」

 言いかけたトグルルの肩に、さらに剣が刺さった。計七本の剣が、その体を貫いた。トグルルは剣を握り締めたまま、どう、と巨木のように床に倒れた。

 フィリップは、恐る恐る顔を上げた。

 目の前に、屠殺された獣のようにトグルルが倒れている。フィリップは彼の頭を足で蹴った。が、もう動かない。いかなトグルルとはいえ、もはや事切れていた。

「…悪魔がやっと息絶えたか。誰か、至急これを片付けよ!」

 震える声でフィリップは従士に命じた。そして血に染まった指輪を自分の服で拭いた。再び深い緑色に戻るが、フィリップは眉を寄せた。石の底から、あの竜の高笑いの声が聞こえたような気がしたのだ。

(お前は、もう用無しだ)

 フィリップは慌てて指輪を外した。手が震える。あの美しい少年の悲しげな気配は微塵も感じられない。ただただ、恐ろしいだけだ。

「そ、そこの従士」

 フィリップはトグルルの遺体を片付けていた従士のルネに言った。

「はい。何か…」

「この指輪をやる」

 そう言ってフィリップはルネの手に緑の石の指輪を押しやった。

「こ、このような立派なものを私に?」

「褒美だと思え!ただ、ただ、二度と私に、その指輪を見せるな」

「…は、はい…」

 ルネは内心首をかしげたが、フィリップの勢いに押し捲られた。それに高価な宝石のようだ。もらっておいて、悪いものではないだろう。


 だが、ルネがその指輪をすることは無かった。美しい石ではあったが、さすがに目の前でトグルルの血を吸った指輪を嵌める気にはなれなかったのだ。

 数年後、彼は故郷のフランスに戻った。だが郷里に戻って間もなく、はやり病で亡くなった。指輪は彼の死後、遺族が主人である貴族に献上した。指輪はその後、持ち主を替えながら、しばし各地を彷徨った。


 …第二の門で奪われし 太陽と月の耳飾り



 


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