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イシュタルの罠  作者: 秋主雅歌
34/35

騎士の砦 第十七章

 トグルルは、険しい山奥の道無き道を馬を駆って進み続けた。

 ララは無事だろうか。

 先刻の地震のために、街道のあちこちが崩落し、家屋は壊れ、助けを求める人々が右往左往していた。無残な破壊の光景を見るたびに、トグルルは眉をひそめ、馬の腹を蹴って足を速めさせた。

 峡谷の奥にある、神に穿たれたような岩屋。「鷹の爪」の拠点であり、ララがいたその場所に辿りつくまでに、馬の足でも丸一日を要した。

 トグルルは言葉を失った。よく見知った風景はどこにもなかった。崖は崩れ、谷は大量の岩で埋まり、木々は倒れ、生きているものの気配すらない。ララがいたはずの洞窟も、崩れてきた岩と土砂で覆われ、入り口がどこかも分からない。

「ララー!」

 トグルルは叫び、答えを待った。が、谷に木霊が返るのみだ。

 答えの代わりに、余震が来た。大きなものではなかったが、トグルルがいる不安定な足場も揺れ、崩れ始めた。

 トグルルは四つんばいになって、何とか地震をやり過ごした。

 これ以上、ここに留まっては危ない。きっと地震の後、仲間たちは皆、ここを去ったに違いない。ララも、「山の老人」も、きっとどこかに去ったはずだ。神に守られて、きっと。

 そう思い込もうとした。が、それが都合の良い楽観論であることも、十分に分かっていた。だから、もう一度トグルルは叫んだ。

「ララー!」

 ガラガラ、と足元や目の前の石が崩れる。

 やはり、駄目か。

 伏せっていたトグルルが起き上がろうとしたその時、微かにあの香りが鼻先を掠めた気がした。ララのいたあの洞窟に立ち込めていた、甘い香り。

 トグルルは、ハッと我に返った。

 香りだけではない。微かな音が聞こえてきた。まるで地層の奥で清水が流れるような、微風が通り過ぎるような、かすかな音。

(人の声だ!)

 トグルルは慌てて、かつて洞窟だった場所を覆う岩をのけ始めた。顔を突っ込むと、僅かに空間がある。すべては塞がってはいない。けれど、いくら目を凝らしても奥は真っ暗で何も見えない。

 トグルルは耳を澄ました。

 やはり声がする。

 掠れた声が紡ぐ歌だ。

  ……第二の門で奪われし

  太陽と月の耳飾り……

「ララ!」

 間違いない。ララの声だ。

 トグルルは狂ったように石を取り除き、放り投げ、地中を掘り始めた。

 扉のように空間を覆っていた大きな石を一つどけた時、石に挟まれた人の手が見えた。真っ白な手だ。トグルルが恐る恐る触れると、微かに指が動いた。手が温かい。まだ生きているのだ。

「ララ!ララ!今、助けるよ…!」

「…トグルル?」

 弱々しい、消え入りそうな声だったが、それは確かにララのそれだった。

「そうだよ、ララ!もう少しの辛抱だから、待ってて!」

「…来るんじゃない」

「ララ?」

「…お願いだから、来ないで」

「何言ってるんだよ、一緒に逃げるって約束したじゃないか!俺がララを救い出す!太陽の下に助け出すから!」

「…やめて。あなただけ、逃げて。また揺れが来てここが崩れてしまう前に。あなたも潰されてしまう」

「大丈夫だよ、すぐに助け出すから。信じて待ってて!」

「…もう、駄目なの…」

「ララ、聞いて。諦めないで。俺、十字軍の修道騎士から薬をもらったんだ。いろんなことに効くよ。あの甘い煙の魔法からも解放してくれる薬なんだ。そいつ、異教徒なのに、いい奴なんだ…。信じてもいい奴だと思う。だから、ララも大丈夫だよ。ララも救われる」

「…もう、手遅れなのよ。行って…。私を放っておいて。…聞き分けて」

 ララの声が涙でさらに掠れる。

「聞かない!そんなことは聞かないよ!」

 トグルルはしっかりとララの手を握った。だが、ララはそれを払いのける。

「…お願いだから、このまま放っておいて…。私は…私は…もう、怪物になったのだから。いえ、もともと…怪物だったのよ」

「何を、何を言ってるの?ララ」

 だが、もうララは答えなかった。微かに泣く声がする。

 トグルルの背中に冷たいものが流れる。なぜ、ララはそこまで拒絶するのだろう。きっとひどい、命にかかわるような怪我をしたに違いない。早く、早く助けなくては。

 トグルルはララの上に覆いかぶさっている石を大急ぎで取り除いていった。

 やがて、石に潰された血まみれのララの腕が出てきた。ララの体はうつ伏せになっていて、ほとんど土砂と石に埋まっていた。蛹のように体を丸め、顔の部分はもう片方の腕で覆っていたため、辛うじて口のまわりに空間ができて生きていられたのだろう。

 トグルルは必死で掘り続けた。やがて手が血で染まる。それが自分の爪が割れて吹き出た血なのか、岩で砕けたララの体から搾り出される血なのか、トグルル自身にもよく分からなかった。どちらにせよ、ララが死にかけていることには変わりはない。

「ララ、ララ、しっかりして」

 トグルルはひたすら掘った。もうララのすすり泣く声はしなかった。だが、荒い息はまだ聞こえる。トグルルは呼び続けた。

「ララ、もう少しだから!お願いだから、しっかりして、待っていて!」

 やっとララの足を押さえつけていた最後の石をどけた。だがララはなぜか、喜びではなく絶望のような長いため息を吐いた。

「ララ!もう大丈夫だよ、ララ!」

 トグルルはララの脇に手を入れ、土砂の中からララの体を引っ張り出した。

 その瞬間、トグルルの顔が歪んだ。抱えただけで分かる事実を、彼は信じたくはなかった。ララの体はあちこちが不自然に捻じ曲がり、黒々と血が固まっている。骨さえも突き出た場所がある。もはや生きているのが不思議なほどだった。

「…ララ、俺が助けるから」

 呪文のように言うと、トグルルはララを抱えたまま急いで洞窟の出口へ向かって這い出した。また余震が来てしまっては、ララの言うように二人そろって潰されてしまう。トグルルは腕と膝を使って、蛇のように進む。

 やっと太陽の下に出ると、トグルルはそっと、平らな岩の上にララの体を横たえた。ララはぐったりとはしているが、まだ息がある。

「ララ、ちょっとごめんよ」

 トグルルは血が染み出ているララの腹の傷を覆うために、彼女の衣を引き裂いた。

「ララ…」

 言いかけて、トグルルは言葉を失った。

 これは、一体どういうことだ?

 石の上に横たわっているのは、確かにララだった。土砂にまみれ、傷だらけとはいえ、紛うことなくララだった。秀でた額、豊かな黒髪、そして片耳で揺れる銀の月の耳飾り。なのに引き裂かれた衣服の下から覗く体は。

 ララの目が震えながら開いた。真っ黒な瞳が悲しげにトグルルを見詰める。長い睫が意を決したように一度閉じ、乾いた唇から微かな笑みが漏れた。悲しい笑みだった。

「…だから、…放っておいてって言ったのに…」

「ララ…、君は…」

「…ララは、徒名なの。宦官って意味よ。本当の名前はね…ムスタファ」

「だって、だって、君は…」

「…皆、知ってたのよ。私の…こんな、おかしな…性癖を。私の体は男なのに、心は誰よりも女だった。母さんは、それを利用して、…私を後宮の宦官にしようとしてた。…知らなかったのは、…無邪気な…隣の家の男の子だけ」

 トグルルはガンガンする頭を振った。裂いた衣服から見えるララの体は、紛れもなく男のそれだった。乳房の膨らみもない。

「…そ、そんなことより、傷を早く…」

 トグルルは混乱を横に置いて、冷静になろうとした。ララの裂けた腹の傷に、ファビアンからもらった布を押し当て、血を止めようとする。

「…洞窟の美女はね、あの、甘い煙が見せた幻だったのよ」

 ララが苦しい息の中、自嘲の笑いを漏らす。

 トグルルは唇を噛んだ。今触れている肌の感じは、確かにララだ。かつて抱いた体、美しい女性だと信じて疑わなかった、あの体は、あの邪悪な甘い煙と、トグルル自身の欲望が見せた幻影だったのか。

「…ララ、でも、俺は、やっぱりそれでも、ララが…」

「…それ以上、言っては駄目」

 ララの指がトグルルの唇を塞いだ。「…私が『山の老人』でも、あんたはそう言える?」

 トグルルの手がピクリと震えた。

「何だって?」

「…『山の老人』は、大分前に、死んだわ。私が殺した…」

「嘘だ!だって俺に使命を与えて…」

「…私よ、途中からは。私がターバンを深くかぶって、声色を真似ていたの…。暗い場所だから分からなかったでしょ」

「馬鹿な!どうして、そんな…」

「…私自身も、分からない。指輪が、あの緑の石の指輪が、私を呼ぶの。血を捧げろ、すべてを壊せ、殺せ、滅ぼせ…。お前を踏みつけた者たち、すべてを…破壊しろって…。だから」

「まさか、あの指輪が…」

 トグルルは小さく呻いた。十字軍の冷酷な大将までもが魅入られていた、あの緑の石の指輪か。

「…もともとは、『山の老人』の指輪だった。でも、彼にはあの指輪は重過ぎた。彼は…歌えなかったのよ。女神が冥界に下る歌を。だから、私に指輪を託した…」

 ララが咳き込んだ。肺も破けているのだろう、血を大量に吐き出した。

「もういいよ、ララ!」

 トグルルは叫んだ。ララの腹からの出血も止まらない。「そんな話、後でいいから!今は大人しくしていて!今、傷を治すから、血を止めるから、頼むから…」

「…いいえ、最後だから言わせて。あの指輪、いえ、あの石の声に、私は逆らえなかった。そして、あんたに恐ろしい罪を背負わせ続けた。あんたの手を、きれいな耳飾りを作っていたその手を、血に染めさせて…。どうか、私を憎んでちょうだい。八つ裂きにしても、いい。…でもね、信じてくれなくてもいいけど、…本当に、あんたは、…あんたにだけは、…そのまま逃げて…ほしかった。…二度と、ここへ戻ってほしくなかった…」

「だったら、俺と一緒に逃げれば良かったじゃないか!あの指輪なんか捨てて、俺と逃げて、すべて忘れれば良かったじゃないか!」

「…消えないのよ…」

「ララ…?」

「…消えないの。今も、指輪を手離したのに、…消えないの。あの、石の声が。…殺して、やりたい。…世界中に火を放ち、血祭りにあげてやりたい…。…私を滅茶苦茶にして、踏み躙って嘲ったこの世界を、滅ぼしてやりたい…。…このまま、死ぬのは悔しい…悔しい、悔しい!」

「ララ、どうして?どうして、そんなことを言うの?ララらしくないよ、そんなの」

 ララの手が、トグルルの手に重ねられた。

「…トグルル、もう、私はよく見えないの。…あの指輪、してないのよね?捨ててくれたのね…?」

 トグルルは一瞬、言葉に詰まった。あの指輪は、十字軍のお偉い男の手の中にある。だが、そんな呪われた指輪なら、奴にピッタリのはずだ。

「だ、大丈夫だよ、ララ。もう二度と、あの指輪は追ってこないよ」

「…良かった…。あんたに、あの声が届かないのなら、それで私はうれしい…」

 ララは大きく息を吸い込んだ。と同時に、長い睫がゆっくりと影を落とすように閉じられた。

「…ララ?」

 ララはもう、答えなかった。

「ララ!ララ!」

 トグルルはララの体を何度も揺すった。だが、その体は力なく揺れるだけで、その睫が再び開くことは無かった。永遠に。

「…どうして?…どうして?ララが、そんなことを…」

 トグルルは、何も答えなくなったララの体を抱いたまま、何度も何度も問い続けた。


 トグルルは知らなかった。

 生まれた村を十字軍に焼かれ、ともに「鷹の爪」に入った後に、ララを待っていた運命を。

 体格も良く、運動能力に秀でたトグルルは、「鷹の爪」の期待の星だった。「神の戦士」となるべく、大切に鍛えられた。だがそれに比べ、小柄で力も体も弱く、女性的な外見のララは早々に役に立たないと見限られた。そして「山の老人」がララに科した使命。それは、暗殺に向かう戦士たちの慰み者になることだった。

 「山の老人」は必ず、死地に赴く戦士たちに「楽園」を見せた。「冥府の女王」と呼ばれる、幻覚作用のある草を焚いて夢見心地にさせ、ララをまやかしの「美女」に仕立て上げて、この世の楽園を岩屋の洞窟につくり上げたのだ。もう一度楽園に戻りたければ、暗殺を成し遂げるように、と戦士たちに告げて。だから戦士たちは敵前逃亡することはなく、どんな過酷な任務であっても遂行して戻ってきた。まやかしの「美女」に再び会いたいがために。

 ララは拒否できなかった。「山の老人」はトグルルを盾に取っていたから。

「ララ、お前が大人しく言うことを聞くならば、トグルルには今しばらく、『使命』を与えぬゆえ」

「約束してくれますね。本当ですね。絶対に、あの子に『使命』を与えないと」

「もちろんだとも。この指輪にかけて」

 そう言うと、「山の老人」は自分の指から大きな緑の石の指輪を抜き、ララの左手の指に嵌めた。

「これが、その証だ。この指輪は『山の老人』が代々引き継ぐ貴重な宝。これをお前にやろう。私の誠意としてな」

 その言葉だけが頼りだった。その言葉を信じて、ララは日も差さぬ洞窟に閉じ込められ、甘い煙で意識を奪われ、何人も、何十人もの戦士たちの相手をした。

 体も心も、蝕まれていった。

 なのに「山の老人」は見下げるように下卑な笑いを浮かべて言った。

「うれしいだろう、すばらしい神の戦士たちに代わる代わる愛されて。お前のような者が、これほどに愛されることを、感謝するが良い」

 誇りを踏み躙られても、それでも必死で耐えた。トグルルのために。

 苦しいときは、緑の石を見た。「山の老人」のいかつい指に嵌っていたはずなのに、なぜか指輪は誂えたようにピッタリとララの左手の薬指に納まった。

 その石が、涙を落とす寸前の瞳のように、指の上で震えた。

 幻影かと思った。だがララは確かにその時、石の中に誰かを見た。石と同じ、深い緑色の瞳の少年だった。遠い昔、砂漠に囲まれた都にいた少年。あの緑の石は少年の瞳だったのだ。

 その石の彼方から、歌が聞こえてきた。少年が歌っているのだ。青い壮麗な煉瓦造りの門で、愛しい人を待ちながら。

 不思議な歌だった。それは七つの門をくぐって異教の女神が冥界へと下る物語。女神は愛しい夫に裏切られたと知るや、彼を身代わりにして冥界から蘇る。そんな歌だった。

 その歌はいつも結末がない。それは少年が知らないからだ。知っているのは、愛しい人のみ。けれど、彼は来ない。いくら待っても来ない。砂を噛むような絶望と悲しみを、少年は無言でララに伝えた。

 ララは見えない少年をそっと抱き締めた。

(泣かないで。私が歌ってあげるから)

 けれど、ララの考えた物語では駄目だった。少年は感謝をしつつ、悲しげに目を伏せた。

 ララは、その石とともに日々を耐え抜いた。自分がすべてを受け入れ、飲み込みさえすれば、トグルルが生きていける。そう信じて。

 多くの若者が、洞窟を訪れ、ララの体を通り過ぎた。誰もが、また来ると言った。が、二度と戻ってこられない者も、多かった。 

 ある日、トグルルがララの洞窟にやって来たのだ。

 その頃、「山の老人」は体調を崩し、血を吐くようになっていた。死期を悟ったためだろうか、「山の老人」は焦り始めた。生きているうちに十字軍に壊滅的な打撃を、と考えた彼は、多くの若者に次々と十字軍の砦を襲わせた。手駒が少なくなった「山の老人」はついに、トグルルも刺客とすべくララの元に寄越したのだ。

 何も知らないトグルルは、ララに会えたことを無邪気に喜んだ。

 一方のララはトグルルを送り出したあと、決意をした。約束を違えた「山の老人」を葬ることを。

 それは、思ったよりも簡単だった。「山の老人」は、ララが「冥府の女王」の幻覚作用で廃人同様になっていると信じきっていて無防備だった。いつものように彼が食事を運んできた時、ララは三つ編みにした長い髪を使って背後から「山の老人」の首を絞め上げた。

 決して強くはないが、若い男の腕力だ。病身では抵抗できない。「山の老人」は金属を摺り合わせたような悲鳴を上げたが、それは洞窟の岩に反響しただけで、誰にも聞かれなかった。

 「山の老人」だった男の遺体は、身元が分からないよう衣服を剥いで夜中に谷川に捨てた。

 そして彼のマントをまとい、ターバンと襟巻きで顔の大半を隠し、ララは「山の老人」となった。「山の老人」はほぼ終日臥せっていたため、ララが夜以外は洞窟に籠もっていても、誰も疑問は持たなかった。

 ララが最初に考えたのは、トグルルをこの地獄の谷から逃すことだった。神の名のもとに命を簡単に捨てるような刺客になどさせない。あの無邪気な男の子に、太陽の下で笑って暮らす日々を取り戻させよう。本当に、そう思っていたのだ。

 だが、緑の石の指輪が、それを許さなかった。

 「山の老人」を手にかけた夜から、石が熱く息づき始めた。

 同時に、今まで聞いたことがない不思議な低い声が、石から染み出してきた。

(壊せ)

(壊せ、すべてを)

(殺せ)

(殺せ、すべてを)

(お前を虐げ、嘲り、踏み躙ったすべての者を、血祭りにあげろ)

 緑の石が、指の上で燃え上がる。

 ララは、慌てて指輪を地面に捨てた。

 そうして洞窟でまどろんでいると、不思議な夢がやって来た。

 いつもの、青い煉瓦造りの門が見えた。だが、そこで少年の体は生きながらにして引き裂かれ、右目はえぐられる。少年の顔が血で染まる。悲しみが怒りに変わり、恐怖の叫びを放つ少年の顔が見えた。それはいつのまにかララの、自分自身の顔になっていた。

 その時、空気が引き裂かれるような悲鳴をあげ、大地が大きく揺れた。地震だった。

 ララは弾かれたように目覚めた。

 揺れは最初こそ大きかったが、すぐに鎮まった。が、それは夢の中の少年の、マグマを吐き出すような怒りに思えた。

 ララは大きく息を吐いた。鼓動が早まっていた。

 幻を振り払い、新鮮な空気を吸うために洞窟の外へ出た。もはや明け方も近く、空は薄紫色に染まりつつあった。その彼方に輝く明けの明星。

 その星影に、ララは見た。黒い、大きな鳥が空を飛んでいるのを。

 ララは目を見張った。鳥ではなかった。それは古い書物でのみ知る、古代の獣。蛇の頭と真っ黒な蝙蝠の翼、鷹のごとき爪を持った幻想の獣。聖なる竜。

 竜は羽ばたき一つで真っ直ぐにララの側へ降り立つと、その真っ赤な目でララを見据えた。

(待ちかねたぞ、第二の門の鍵よ)

 竜の雷鳴のような声が頭の中に響く。それは本当に雷だったのかもしれないが。

 第二の門の鍵?

(そうだ。さあ、お前を嘲り、踏み躙った者たちすべてを、叩き潰しに行くぞ)

 血のような竜の目が、ニヤリと細められる。

 ララは恐ろしさに目を閉じた。

 そして再び目を開けると、竜は消えていた。ララは大きく息を吐くと、安堵に胸を撫で下ろした。

 幻だったのだ。夢だったのだ。

 そう思おうとした。だが、ふと自分の指を見ると、そこには捨てはずの指輪が再び、ぴったりと嵌り、輝いていた。

 捨てても捨てても、その指輪は目覚めればララの指に戻ってきた。

 そして、竜の声も耳から離れない。夜も昼も離れない。幻を見る葉をいくら吸っても、まどろむたびに指輪の緑の石が揺れ、破壊へと誘う。

(すべてを、壊せ)

(お前を踏み躙った者たち、すべてに死を。破滅を)

 やがて、「山の老人」のララは、僅かに残った者たちに使命を与え始めた。彼が放つ命令は、真の「山の老人」以上に過酷なものだった。

 ターバンで顔を覆った「山の老人」が、「刺客」の命を帯びた若者に言う。

「トリポリの管区長と、周囲の者たち十人以上を、彼らの言うところの天国とやらに送りなさい」

 刺客は青ざめて答える。

「『山の老人』様、恐れながら、私には無理です。十字軍の連中は警戒しています。五人殺す前に、私は捕らえられ、八つ裂きにされるでしょう」

 けれど、「山の老人」は優しく諭す。

「恐れることはない。君は必ずや、誇り高き戦士として神の御許へ召されるのだから」

 それは、復讐だった。自らの故郷と家族を焼き払った異教徒への。いや、それだけではない。「鷹の爪」の刺客たちへの。知らぬこととは言え、自分の体を蹂躙し、性欲のはけ口としておきながら、正義を標榜し、悪びれない、無邪気で愚かな若い刺客たちへの。

 死を。

 すべての者に、死と破滅を。

 緑の石が放つ竜の声が、ララの体の中で共鳴し、増幅する。

 やがて、ララは抑えが効かなくなった。今や、あの竜の声は、自分の声そのものになっていた。

 恨みと呪いの焔は、すべてに向けられていった。とうの昔に許したはずの人たちへも。

(あの村の人たちだって、私を蔑んでいた。気持ちの悪い、女の出来損ないだと笑い、嘲っていたじゃないか)

(母さんだって、そうだ。『お前は出来損ないだから、宦官になればいい。そうすれば後宮に入れていい暮らしができる。お前が生きるのは、その方法しかないよ』って言っていた。『せっかく男に生んでやったのに、まともな子に育たないなんて』って。出来損ない、出来損ない、出来損ない。最後の日だって、母さんはそう言ってた)

 あれほど愛おしく、大切に思っていたトグルルにさえ、過酷な命令を出した。

「十字軍の奴らを七人殺せ」

「十人殺せ」

(トグルル、あんたはどうして、私の苦しみに気付いてくれなかったの?救ってくれなかったの?私が踏み躙られていた時、あんたは何をしていたの?何も知らずに、笑っていたんでしょう?)

「異教徒の首を十五人、神に捧げなさい」

 そんな「山の老人」の言葉を素直に聞き、使命を果たすために旅立つトグルル。自分で命じておきながら、ララは泣いた。

 自分が恐ろしい怪物に、あの竜みたいになっていく。

「トグルル、もう来ないで。このまま、どこかへ逃げてしまって…」

 けれど、トグルルは必ず帰ってくる。そして、ララに純粋な愛を誓うのだ。

「ララ、俺が必ず助けるから。俺、ララのことを…」

「それ以上、言っては駄目」

 ララはいつも、トグルルの唇を指で封じた。

「ララ、どうして?」

「どうしても、言っては駄目なの」

 言ってはいけない。こんな怪物に成り果てた自分に、愛を誓ってはいけない。愛しているなんて言ってはいけない。決して。



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